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父が癌になった日、別れ話をしていた彼女を駅まで送った

作者: 小林直太郎

昨日まで別れ話をしていた彼女を僕の最寄り駅まで送ってから自宅の玄関の扉を開いた。



玄関の電気に手を伸ばすと、もう5年弱の見慣れた風景と共に先ほど回した洗濯機から、柔軟剤の香りが鼻をくすぐる様に届くのを感じた。



柔軟剤には、いろんな種類の香りが存在するはずなのに洗濯槽から香るそれを全て「いい香り」と形容してしまうほど俺は鈍感だ。繊細な感覚を持って生まれていたなら人生はもっと楽しいものだったのかもしれない。



名ばかりの廊下を通過し、8畳の自分だけのスペースへと脚を運ぶ。そのままベッドに身体を投げ出すと、セミダブルの長方形が私を労い、やさしく受け止めてくれた。



スウェットの右ポケットに手を伸ばし、部屋の電気もつけずにスマホを開く。通知には、さっきまで行きつけの居酒屋で、俺がボトルキープしていたダイヤメのソーダ割りを、俺の愚痴を言いながらも楽しそうに口元に運んでいた彼女からの



「ご馳走様でした!駅までありがとう!」



というメッセージが表示されていた。



きっと本当は、彼女の口にはそんな酒よりワインくらいが合うのだろう。



そのメッセージに返信するために右手の親指で通知をタップしようとした時、他のメッセージが俺に読まれるために待機しているのに気づいた。



どうやら【華ちゃん写真(5)】というグループから通知が届いているようだ。4年前、30歳手前の姉貴は長女を出産した。それ以降、長女である姉貴は兄貴を含む家族を招待し、そのグループLINEで姪っ子の写真を共有していた。とは言っても姉貴がアルバムにあげる姪っ子の写真に、今では白髪がしっくりくるお袋と親父がコメントするだけのLINEで、僕と兄貴には出番のないグループなのだが。



通知を開くと珍しくSNSに疎い親父発信でメッセージが送られていた。



「検診などで前立腺がんの疑いがあると分かり、先週、用賀の東京中央病院に入院して前立腺の組織細胞を取って調べてもらった。今日結果を聞きに行ったら、前立腺がんが見つかった。がんのレベルとしては穏やかな方とのこと。今後、治療法として、手術か、放射線治療をすることになると思う。連絡まで。」




すでに姉貴から「早めに治るといいね!」。お袋からは「早く治るよう、みんなで応援しよう!!」と返信が続いていた。



とりわけ家族とは仲が良いとは言えないだろう。実家から40分程度のところに一人暮らしをはじめ、2度の更新を行い、5年ほどになる。両親とは正月を含め年に2回会うほどだった。仲が良いとは言えないと前述したが、とりわけ仲が悪いわけではない。お互いが自身の人生を丁寧に生きているかのようであると形容すると、体裁は良いのかもしれない。



俺はなんと返信すべきか分からなかった。もしかすると親父からの想定外のメッセージに困惑していたというよりも普段返信しないそのグループLINEに、言葉を残すのに躊躇していたのかもしれない。



悲しくはなかった。むしろ病院に診察結果を聞きに行った親父が、どんな心境だったのかと想像する余裕さえあった。地方に暮らす姉貴から、実家で屋根を共にしているお袋からの返信をどう受け止めているのだろうか。ちょっと軽い気がする。



悲しくはなかった。俺は疑問系で言葉を残すことが正解な気がして



「長くなるのかい?」



とメッセージを返した。



10分が経過しても返信はこない。窓際の壁に設置されている時計に目をやると、すでに23時を回っていた。病人はすでに床についた頃だろう。誰からも返信はない。



スマホの電源を落とし、またそっとつける。画面には5/22(木)23:32と表示される。暗闇が支配する8畳の空間ではその光が目に突き刺さる。



悲しくはなかった。でも、今週末、あいつの好きなダイヤメでも持って久しぶりに顔でも出そうか。



部屋の明かりをつけることなくPCがモニターに接続されているデスクに向かう。どこかにこの感情をぶつけたい。俺はスリープしていたPCを起こし、開かれていたNotionに今日の出来事を書き始めた。



「昨日まで別れ話をしていた彼女を僕の最寄り駅まで送ってから自宅の玄関の扉を開いた。」

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― 新着の感想 ―
突如知らされた父親の病気。 冷静に受け入れつつも、やはりどこか動揺めいた感情を抱いている主人公の心境が伝わってくるようでした。
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