091 - 佐藤の気持ち(1)
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(汐見に思わせぶりなこと言っちまった)
佐藤は少し後悔していた。
(だけど……あんな言い方……)
汐見のマンションを出ると佐藤は来た道を戻り、帰路に着くために駅ホームまで来ていた。
買った3Lのズボン3着の紙袋を持ちながら、ラッシュアワーが過ぎてまばらな駅構内を行き交う人の群れを眺めている。5分もたたないうちに目的の車両が来たのでそのまま乗り込んだ。
(今日は眠れる気がしない……)
もう少し時間をかけようと思っていた。
汐見が〈春風〉とあんなことがあってからまだ1週間も経っていない。だが、状況が刻一刻と変化していくのを感じる。
〈春風〉がいないなら汐見とすごす時間を大事にしつつゆっくり時間をかけて、と思っていた余裕はすでになくなっていた。
(転職って……)
そんなことを汐見が考えてるなんて予想もしていなかった。確かに、転職する年齢としてはタイムリミットが近づいている。
汐見が給料や待遇や地位以上に何を求めていて何に一番価値を置いているのか、気づいていたのにそこに思い至らなかったのは、佐藤が佐藤の考えでしか行動していなかったからだ。
(……あの言い方だと、給料度外視で、面白そうな仕事ができる会社ならどこにでも行きそうだな……)
汐見が仕事人間なのは知っていた。知っていたが、そこまでとは思っていなかったのだ。もう34にもなるのだから、腰を落ち着けて今の仕事に邁進するものだと思っていた。
だが、それは佐藤が勝手に思っていただけだ。自分が実際そうだから。
(あの年で……って俺もだけど……)
34になってまで転職する、しかもベンチャー企業に。
新しい技術を学ぶことはできるかもしれないが、汐見が希望する職種なら給料は格段に下がるはずだ。
磯永で昇進と昇給を狙った方が3年後の給料は高額になるが、それを踏まえても新天地で挑戦し続けようとしている汐見。
(汐見は……〈春風〉と結婚したから……身を固めたから、この会社にいようとしていたのか。でも〈春風〉がああいうことになったから、動くなら今だと思って…………〈春風〉を中心に生活してるお前は〈春風〉と結婚してなければすでに今の会社を辞めて……すでに俺の目の前からいなくなって、同僚ですら……)
佐藤は、汐見が結婚しなければずっと汐見のそばにいられると思っていた。
だが汐見は【結婚したから】今の会社を辞めずに、佐藤の同僚でいたのだ。
つまり、結婚している汐見と……絶対佐藤のものにはならない既婚者の汐見でなければ、佐藤は同僚として同じ職場で同じ時間を近くで過ごすことすらできなかったということで。
(……やりきれない……)
どうあがいても汐見が佐藤のそばから、目の前からいなくなるシナリオしかなかった。
汐見にとって佐藤は親友以上でも以下でもない。
佐藤はふと、電車のガラスに映り込んだ自分の姿を確認した。
(顔だけなら女って言ってもイケルよな……)
自分で言うのもなんだが、顔の造りだけなら美人だ。
(だけど……体格が、な……)
身長や骨格はどうにもならない。佐藤は汐見より10センチも高い自分の身長を嫌に思ったことはない。
これくらいの身長差の女性とのそういう行為は、かなり相性がいいので、汐見ならさぞかし抱き心地が良さそうだと思ったことはあっても。
だが、明らかに小柄な〈春風〉に心酔してる汐見を見る限り、汐見は自分より長身の女と付き合うなんて考えたことすらないだろう──佐藤はそこまで考えて──
「女々しい……」
佐藤が性転換したとしても確実に汐見に選ばれるわけじゃない。
そもそも家族が欲しいと願う汐見にとっての伴侶は【子供が産める女性】というのが譲歩できない最大の前提条件だ。
佐藤が性転換して女装したところで、子供を産むことはできない。
(だから汐見は……)
「どうにもならない……」
(今すぐ死んで女に生まれ変わって、今度こそお前に選ばれて、そしたら……)
佐藤は、何百回妄想したかわからないシナリオばかり思い浮かぶ。時間を巻き戻したいと思ったり、女に生まれ変わりたいと思ったり。それもこれも全て──
(ずっとお前のそばにいられる権利が欲しい……ただそれだけなのに)
「ただそれだけのことが……叶わない……」
電車を降りると、佐藤は家の近くのスーパーに寄って、一番度数の高い日本酒の一升瓶を買って帰った。悪酔いするアレだ。
(橋田への連絡は明日でいいだろう。飲みながらだと勃たないから今日は飲むだけだ)
悶え苦しみながら、それでも未練を引きずる自分に、佐藤は懊悩する。
(忘れたい。汐見を好きだという気持ちが、記憶が、消えてしまえば……俺はこんなに苦しまなくて済むのに───)




