090 - 汐見宅で(16)
佐藤を玄関先まで見送った汐見は、傷ついているような佐藤の顔を見て、何も言えなかった。
(初めて聞いたな……佐藤にそんな相手がいるなんて……)
汐見は元々それほど語らないほうだが、佐藤は営業で話すのが仕事であることもあって、会ってる時も7割が佐藤からの話だ。
だから、汐見は勝手に佐藤のことならなんでも知っているつもりだった。
(あいつもオレのこと、知ってるつもりでいるんだろうな……)
汐見が佐藤に言っていないことがあるように、佐藤も汐見に言ってないことがある。ただそれだけだ。だが──
「……ちょっと……ショックだな……」
声が漏れるほど汐見がそう思ってしまうのは、佐藤との距離が近過ぎて長いせいだろうと思った。
(佐藤にそれほど想ってる相手がいるなら、プライベートでオレと出かけたりする時間を、その相手と一緒にいたほうがいいだろう。オレなんかより佐藤の方が未来を作れる。家族を作れる相手と……)
「でも……既婚者かぁ」
夫婦でうまく行ってないってことを佐藤に漏らすということは、相手も佐藤と共に過ごしたいと思っているのではないのか。
「それなら尚更……オレなんかにかまけてる時間ないだろうがよ……佐藤……」
誰もが羨むほどのイケメンの遺伝子は、ちゃんと残しておくべきだと、汐見は本気で思っている。自分の子供なんかよりよっぽど可愛いくて優秀な子が生まれるだろう。
「オレ、なんかより……」
佐藤は結婚の話をすると大概お茶を濁す。だから、結婚願望は薄いのだろう、と汐見は勝手に思っていた。
「イケメンのお前と一緒にいてお前に靡かないで、他の男と結婚するなんて、一体どんな女だよ」
佐藤には酷いが、汐見は少しおかしくなった。
出会う女性全員を一目惚れさせるほどの見た目で、同性からは妬まれて陰口を叩かれまくっている佐藤が、本当に好きな相手からは好かれないなんて。
そこまで考えた汐見は、自分の身を振り返ってみた。
「まぁ、オレも似たようなもんか……」
妻《紗妃》を愛してるのに、妻からは愛されてなかった。
薄々気づいていたが、考えたくなかったから気づかないふりをした。
紗妃が……佐藤に気があるんじゃないかと、佐藤に嫉妬している自分に気づきたくなかったからだ。
(自分の妻が、結婚する前から実はオレじゃなくてオレの隣にいる親友に想いを寄せていて、なのにオレと結婚するとか)
それなのに、佐藤でもなく、別の誰かと、それどころか、昔不倫していたクズみたいな男と寄りを戻し、夫である汐見だけ一人蚊帳の外だった。
(なんだそれ。オレはなんだったんだ。当て馬どころか完全に道化じゃないか)
「バカにも程があるな、オレは……」
考えたくなかったから蓋をした。
(でもパンドラの箱を開けてみたら一欠片の希望すら入ってなかった、ってことか……)
汐見は、生まれて初めて「ここにいたくない」と思ってしまった。
(ここってどこだ?)
「……佐藤がいて、紗妃もいた、場所……」
佐藤と2人きりになることはなかったと、錯乱した紗妃が言っていたのだから、本当の事なのだろう。それがせめてもの救いだった。
佐藤に他に想う人がいたから紗妃相手にその気が起こらなかっただけだ。
(それでもオレの気持ちは完全に宙に浮いていて……オレは紗妃に片想いしてたのか……佐藤も誰かに片想いしてて……紗妃は……)
そこまで考えた汐見は──紗妃に対する一点の頂点だけが接していて、でも三角形を描くことのない3つのベクトル──頭に浮かんだ図形に思わず笑ってしまった。
「なんだかなぁ……」
汐見は虚しくなった。
(オレはオレのことで精一杯で他が見えてなかっただけか)
佐藤が長いこと片想いしてる相手がいるなどと、汐見は知らなかった。その相手が結婚した後でも、あれほど一途に想い続けるなんて。
そこまで思っている相手がいることすら、親友であるはずの自分は知らなかった。
(隠してた……のか……?)
「いや……オレが聞かなかったから……」
佐藤は、仕事ならまだしも、そういう深い内面を、聞かれてもいないのに話すような男じゃない。
(でもそこまで思い煩ってるならオレにくらい、話してくれてもよかったのに)
「……あいつ、オレに頓珍漢って言ったよな……」
(それもそうだな。オレは……恋愛に関しては本当に疎いから)
紗妃と付き合うようになったのも、汐見自身が紗妃のことを好きだと自覚して、汐見から直接告白したのがきっかけで、紗妃が汐見自身を好きかどうか確認する前に行動を起こしていた。
自分が誰を好きなのか、という気持ちは自覚できても、相手が自分のことを好きかどうか確認しながら行動するのが汐見は苦手だった。
自分の勘違いで相手に気味悪がられるだろうと思うと余計に。
それくらいならダメ元で告白して断られてスッキリした方がまだマシだと思っていた。
だから、恋の駆け引きなどという類のことは汐見には無縁だった。
(オレが好かれていたとして、相手から匂わされても気づくわけない。相手のそういう気持ちを読み取って行動するとか……)
「難易度高いって……」
一人悶々と考えていたが、それ以上考えても埒が明きそうになかったから、風呂に入って休む準備をしようと思った。
防水処置を自分で施すのは割と骨が折れた。
「帰る前に佐藤にやってもらった方がよかったな」
普通にしてれば痛みはあまり感じなくなっていたが、捻ったりすると痛みが出る。
とりあえず自力でなんとかして、風呂に入り、寝る準備をして横になると───
「眠れん!!」
床には入ったが、目が冴えてどうしようもなかった。
昼からたっぷりと、昼寝どころかほぼ5時間近く寝ていたのだから当然といえば当然だった。
池宮弁護士に会うことやその後、慰謝料について処理しないといけないこと、それに加えて佐藤の言葉──相手が誰なのかとか──気になることや考え事が一気に増えて、眠気は当分来てくれそうにない。
「っあー」
ベッドの上をゴロゴロしながらスマホを見てるとまたさらに目が冴えて。時計を見ると
「11時……」
池宮弁護士は『11時ごろまでは事務所に詰めているので』と言っていた。
「さすがに、こんな時間に連絡するのは、まずいよな……」
ため息を吐き出した汐見は、のっそりとベッドから這い出した。
水でも飲もうと思ってリビングに行くと、キッチンのシンクの横に佐藤の腕時計があった。
「……忘れたのか」
いつだったかに『気に入って5年くらい修理しながら使ってる』と言っていたその時計は、防水機能があまり良くないから、と水を使うときはよく外していた。
さっき台所でラーメンの具材を準備していたときに外して、置き忘れていったのだろう。
「……」
(今から『家に行く』って連絡するのも気が引けるな……緊急でもないし……どうせ眠れないんだから今のうちに佐藤の家に移動する方が良いんじゃないか? あいつの家の鍵、持ってるしな……)
日付も変わろうとする時間帯だ。
佐藤自身も在宅だろうから、起きていれば「すまん、眠れないからそのまま来た」とかなんとか言えばいいだろう、と汐見は考えた。
持っていこうと計画していたお気に入りの小説や、細々としたものをボディバックに詰めた汐見は、タクシー会社に連絡した。20分くらいで到着します、とのことだった。
戸締りをして、冷蔵庫を確認している間にタクシーの運ちゃんから連絡が来る頃には12時になっていた。
タクシー到着の連絡を受けた汐見は、鍵を閉めてそのまま家を出た。




