086 - 汐見宅で(12)
「紗妃と付き合う前……オレ、結婚はしないだろうな、と思ってたから転職の機会を伺ってたんだよな……」
食卓の床から立ち上がった汐見は、テーブルの椅子を引いて座る。
(ちょっと、待て……なにを……なにを言ってるんだ、しおみは……)
「本当はもっと早くに転職したかったんだが……なかなかタイミングが掴めなかったのと、紗妃の状態が安定してからじゃないと動けないと思ってたから」
(しおみ……しおみ……)
「紗妃もまだどうなるかわからないが、身辺整理がついたら早めに動こうと思ってる。橋田の親父さん、もうリタイアしたらしいけどGAFEの本社とか行ってた人だったらしいから、色々話を聞いてみたくて」
目の前が真っ暗になるとはこのことだ、そう佐藤は思った。
妻である紗妃とのことが解決したら、きっとまた汐見は自分と一緒にいてくれる、そう信じていたからこそ、佐藤は汐見に協力している。
汐見と2人、共に過ごせる未来を夢見て────
今現在、汐見との接点は『同じ会社にいる』ことしかなく、唯一の接点がなくなれば汐見と会う機会は必然的に激減するだろう、しかも──
「こんなの、夢でしかないからまだ言いたくないんだが……それに、いつになるかもわからないし。だけど一度アメリカのITの本場に行って仕事したい……だから今TOEFILの勉強中で……」
「……」
夢を語る汐見の瞳には一点の曇りもなく、それが本心からなのだと佐藤にはわかる。
「35を過ぎると結婚も転職も逃すって言われてるだろ? ……挑戦できるタイムリミットが近づいてるから、チャンスをものにしたくて……って、佐藤?」
黙りこくってしまった佐藤を見て、汐見が訝しがる。
佐藤の方は、汐見が話す想像を超えた内容が信じられず──
(お前の心に……俺の声はこれっぽっちも届いていないのか……どれだけお前を想ってもお前は俺に見向きもしない……わかっているのに…………わかっていたのに……)
ぽろり、と、本日2度目の涙が佐藤の目から零れ落ちた。
「佐藤?!」
ラーメンの準備をしていたことを思い出した佐藤は、無造作に涙をぬぐい、機械的に動き出した。
ヤカンを取って、2つ並べたカップ麺の上に注いで蓋をすると、その上に皿を載せ換気扇に引っ付いているタイマーをセットする。
「佐藤? だ、大丈夫か?」
「……」
なんと言えばいいのかわからない。
何を言うのが汐見の正解なのか、わかってても言いたくない。
転職を考えてるなんてすげえな、とか、待遇に納得がいってないのか?とか。それこそ、色々。
だが、出てきたのは
「そう、か……お前、仕事、大好きだもんな」
励ますでもなく、引き止めるでもなく、ただ知っている事実を告げた。
「? 佐藤?」
「……ん?」
いつもと違う反応に汐見の方が戸惑う。
「もしかして……反対、なのか?」
「なにが?」
「オレが、転職すること……」
「そんなこと言ってないだろ。まぁ……お前が相談もせずに先手で動くのは、今に始まったことじゃないしな……」
(その行動力に毎回俺は驚かされて……今回が一番驚いてるな……)
「……さと」
ピピピっ! ピピピっ! ピピピっ!
タイマーがラーメンの仕上がりを合図する。
佐藤は2つのラーメンの上に置いていた皿を退けると蓋を開け、まな板の上に乗せていた具材を適当に盛り付けた。
「カップのままだけど、いいよな。食器汚したら洗わないとだし」
「あ、あぁ……佐藤……その、お前、怒ってる? のか?」
「……なんで?」
「いや、その……」
汐見は鈍感だが、それは自分に対する好意にだけだ。
それ以外に関してはちゃんとわかっている。
佐藤が涙を流した理由はわからなくても、佐藤の態度がおかしいことには気づいていた。
(お前の鈍さは諦めてたけど……お前が転職するっていうのは……考えてなかったな………)
キッチン越しに、食卓に座っている汐見の顔をぼうっと見つめる。
佐藤を見つめ返す汐見。
2人の視線が絡まる。
なのに、そこには一切の色が無い。
あるのは佐藤からの一方的な想いの深さだけで。
絡まる視線を振り切るように佐藤は
「……今日はもうお前はここに泊まった方がいいな」
2つのカップラーメンを手にとって食卓まで運ぶと、汐見の向かいに座った。
「え?」
「今から移動するよりは、さ」
「だ、だが……」
(なんだ……佐藤の様子が変だ……)
「俺は家でやらないといけないことあるから、今日は帰るけど……大丈夫だよな?」
「……」
「自分の家の方が落ち着くだろ。リビングにはあまり出入りしないようにすればいい」
「……あ、あぁ……」
佐藤がため息を吐き出す。
「佐藤……」
「俺の家の鍵、渡しとく。明日、適当に帰ってこいよ。一人でも大丈夫だろ?」
「な……なんだよ、子供か、オレは!」
「そうじゃないけどさ」
うっすらと笑みを浮かべた。
(ああ、笑えた……でもこれ、きっついな……)
「佐藤……その……」
汐見が何かを聞こうとして、聞きあぐねて
「なに?」
「お、お前が好きな人って……オレも知ってる人か?」
「……」
「そ、その……ふ、不倫とか……なら、その……」
(あぁ、そうだな、汐見……今、俺と付き合ったらそうなるな……)
「……大丈夫。不倫はしてないよ。俺の……片想いだからさ」
「!!」
「結婚してる。ってのは正解。だから……【彼女】、ではない」
「つ、付き合ってない、ってことか?」
「そうだな」
(付き合いたいよ……)
「え、でも……」
「……長いけどな……片想い自覚してからだいぶ経つ」
「そ、……うか」
(こんなに身近にいてオレは佐藤にそんな相手がいることにも気づかなかった……長いって……)
「お前の、知らない人だよ」
(だって、お前は『俺に好意を寄せられてる自分』なんて……知らないだろう?)




