080 - 汐見宅で(6)
「汐見? 大丈夫か?!」
片手で脇腹を押さえ、食卓にもう片方の手をついて俯き、じっとしている汐見の右肩に佐藤が手をかけると
「わるい……やっぱり、横になっていいか……」
汐見が横目で佐藤を見る。
強面と言われる汐見だが、力の入ってない時の切長の瞳は視線には艶があり、佐藤は一瞬、動機を感じる。
(いや、今そんな時じゃないから……)
佐藤は、どこにいても何をしても汐見の一挙手一投足に情動が動かされてしまう自分に呆れる。
「あ、あぁ……ソファで……」
「……寝室まで、頼めるか?」
再度、大きな鼓動を感じた。
汐見が結婚してここに引っ越してきてから2年が経過する。だが、いくら佐藤でも汐見夫婦の寝室に立ち入ったことは未だない。
「えっと……その……」
汐見夫妻の夫婦生活のあれこれが生々しく見えそうなのが嫌だったからだ。
(毎晩頭の中でお前のこと抱いてる俺が、お前が毎晩……ではないにしても〈春風〉を抱いてる部屋に入る、のは……)
佐藤が躊躇っていると、何を思ったのか汐見が
「お前が思ってるようなことはないよ……」
「え?」
なんのことを言ってるのかわからなかったが
「色っぽいことなんて、よ……お前ほどじゃないけど……半年くらい、ナイ」
「!!」
(え?! って、え?!)
佐藤は一瞬、驚いていいのか喜んでいいのか哀れんでいいのか混乱して、汐見の顔を凝視した。
「レスっての? まぁ、外に男がいて間に合ってるんだったら……オレは要らないよな……」
「!! そんなこと言うな!」
「佐藤?」
「そんなこと……思ってても言うな……!」
(お前を! お前を要らないって〈春風〉が言うなら! 俺が! 俺がお前を!!)
佐藤は不意に泣きたくなる。
(なんで……こんなに近くにいるのに……! 体温さえ感じるほどそばにいるのに! 汐見の呼吸する音すら愛おしいと思うのに……!)
「佐藤?! なんで泣いてんだ?!」
「?!」
完全に無意識だった。
溢れた涙が佐藤の両頬の脇を流れていく。
「こ、これ!」
汐見がテーブルにあったティッシュを二枚取り出して佐藤に差し出す。
それを受け取った佐藤はゆっくりとその水滴を拭った。
「なんでもない……お前の代わりに涙が出た」
「……同情してくれるんだな……」
哀しそうな表情を見せる汐見。だが、その表情すら──
(俺がさせたモノじゃない。そんな顔をさせる〈春風〉がひどく憎くて恨めしくて羨ましくて、たまらない)
「……俺……おまえ、が……」
(好きだ……汐見、お前が好きだ……もう〈春風〉のことで心を痛めないでくれ。お前を想わない相手のことで傷ついたりしないでくれ。お前を、お前の存在を、お前の尊厳を無視する〈春風〉に、お前自身を……捧げないでくれ……)
目の前にいる汐見に、佐藤は心の中で懇願する。
(俺にお前を捧げてくれなくてもいい。でも俺はお前に捧げたい。一生お前のそばにいられる権利が欲しい。どうやったら俺はその権利を享受することができるんだろう。どうしたらお前の心を手に入れることができるんだろう。どうして……俺じゃ……)
そこまで考えて、佐藤は自分の沈思の海から急浮上し、汐見に聞いた。
「寝室、開いてるか……」
「ん? あ、ああ、鍵はついてないから」
(寝室に鍵がついてないのか……まぁ、夫婦二人暮らしだもんな……)
きっとこの先も。
何万回となく、この思いは繰り返されるのだろう。
(お前への片想いで俺も……壊れたりするのかな……〈春風〉みたいに……)




