078 - 汐見宅で(3)
「さんぜんマン?! 不倫の慰謝料で?!」
「……はい……」
「はー?! ぼったくりにも程がありますなぁ!」
テーブルの向かい側で身を乗り出した米山が、驚きつつ呆れている。その隣で沈黙を保っている村岡でさえ目を見張っていた。
「……ええ、でも……」
汐見は顔をあげて刑事に向き直った。
「交渉は、するつもりですが……支払わないといけないものだと、思っています……」
「!!」
佐藤は驚愕のあまり、横にいる汐見の顔を凝視した。
(三千万を?! お前が!? 何の非もなく不倫された挙句、刺された被害者であるお前が?!)
そう口に出かかっているのを必死に堪えると
「刑事さん……夫婦って、どんな状況でも生涯、一緒に乗り越えていくべきもの……でしょう?」
「……」
佐藤には二の句を告げることができなかった。その覚悟は汐見が汐見たる所以だ。
じっと汐見を見ていた米山は
「なぁ、汐見さん……」
出されたコップを両手で抱え込むようにテーブルの上で手を組み。そして、今までの横柄な態度を正すように、姿勢と呼吸を整えて言った。
「夫婦ってのぁ……当事者二人にしかわからないことがたくさんあるよな」
「……はい」
「私も……実は離婚経験者でしてな……」
「!!」
それは、米山が持つ過去。
「貴方の覚悟は素晴らしいと思う。……思うが、それは夫婦としても人としても、間違ってると思うよ」
悲しそうな顔をしていた。でっぷりと太った腹を抱えた米山にも数多の過去がある。
「それはたとえ夫であっても、あんたが背負うべきものじゃない。それは奥さんが……まぁ、ああなってしまうとどうなるのかわからんが……きちんと自分自身で背負っていくべきことだ。俺は、そう思うよ」
「!!」
佐藤は思った。
横柄な態度で人を上から見下すような物言いだったその刑事にも、外からは見えなくても必ず過去の出来事がある。人生で無駄な経験など何一つない。全ての人間は、これまでの経験から今の姿があるのだ。
「汐見さん……奥さんの人生は奥さんのものだ。あんたの人生だって、あんたのもんだろう?」
米山はゆっくりとため息を吐き出しながら言った。
「たとえ奥さんだろうと……夫婦だろうと家族だろうと……自分以外の荷物を勝手に背負っちゃいけないと、俺は思うけどね」
「……」
米山の隣にいる村岡が汐見を伺いながら身じろぎする。目の前に出されたコップの水を一口含むと、米山が続けた。
「そんなことをしても、奥さんはなんも変わらないと思うよ。いや、もっと酷くなるんじゃないかね」
「それ、は……」
先日の事情聴取の時とは違う米山の視線には、悲しそうな、それでいて憐れむような、汐見を本当に心配している様子が滲んでいた。
「俺の離婚はまぁ、俺が家を顧みずにひたすら仕事ばっかりな奴でな……ろくすっぽ嫁の話を聞いてやれなかったって単純な話だったんだ」
禿げそうになっている頭を掻きながら、腹だけでなく輪郭も丸い米山が話す。
「あんたの場合……まぁ、奥さんのことだけど、あんたはこの映像を持って奥さんの方がDV加害者だと証明して刑事告訴もできる」
「!!」
(そうか、汐見が一方的な被害者だってわかったから……)
映像は刑事でも民事でも強力な証拠の一つになる。
「だけど多分、あんたはしないんだろ?」
「……」
汐見の沈黙は了承だ。
汐見は自分がどれだけ不利になろうと、妻である紗妃を貶めることなどできない。
「なら尚更だ。俺はまぁ、マルヒにもその逆にもそういう……不倫したりされたりした人間にぶち当たったことが何度かあるがな……ありゃあ、まぁ、なんだ……そういうことする人間てのは、なんだ、住んでる世界が違うんだよな……」
「……?」
米山が顔を上げて斜め上の天井を見た後、視線を汐見に戻して苦笑する。
「言ってみりゃシャブやってんのと同じなんだってよ。不倫てのはそういうもんらしいぜ?」
「……どういう、ことですか?」
米山は心底可哀想な、それでいて苦笑するような目をしていた。
「一度やると止められないんだと。ハマるらしいぜ。だからヤル奴はヤルが、できない奴は絶対できない。ハマっちまったヤツぁ一回やるとまたヤル。そういうもんなんだと」
米山の話を受けた汐見が苦しそうに言葉を告げる。
「それは……依存、って意味ですか?」
「なんか、よく知らんが、そういうこと言ってたぜ。俺の知り合いの心理の先生がよ」
真意を確かめたくて汐見は食い入るように米山の顔を見ていた。
「止めらんねーんだと。自分の意思ではさ。しかも一回でも不倫した人間は、配偶者がいながらまたやる。一時期別れた同じ相手だったり、刺激が足りなくなったら今度は別の相手と。もっと強い刺激を求めて次々乗り換えてく。病みつきになるんだと。シャブと同じだろ、それって」
「……」
「正直言うと、俺たち警察には不倫なんてどうでも良いんだよ。事件にならなけりゃさ。不倫てのは刑法犯じゃねぇから、刑事罰もなけりゃ罰則規定もねえ。あるのは民事罰だけだ。しかも配偶者からの訴えがなけりゃなぁんもできねぇんだよ」
(それは聞いたことある……)
佐藤も考えていた。『不倫』という意味を。
「ま、最近はソレ絡みの殺傷事件が増えて来て、俺たち警察も頭抱えてるんだけどよ。こんなこと、当事者に言うのはお門違いなんだろうが、警察からすりゃ殺傷沙汰になるくらいなら不倫なんてやるなよ、と思うんだがなぁ」
「お、お言葉ですが、刑事さん。その、汐見は不倫でも今回の刺傷事件でも被害者であって、責められるべきでは……」
(汐見は被害者だ! 〈春風〉にそれを言うならまだしも!)
佐藤は思わず口を挟まずにはいられなかった。
「ああ、悪い。佐藤さん、汐見さんを責めてるわけじゃないんだ。ただ、奥さんみたいな人は少なからずいるんだ。汐見さんの奥さんはその……マルセイだったし、アレなんだが、不倫がきっかけで『そうなる』人間も多いってのも聞くんだ」
その場にいた4人が固まった。不倫がきっかけで『そう』なる、とは──
「精神に異常を来すくらいなら、そんなことに手を出すべきじゃないんだ。依存するってんならもっと何か他の、健全な……【誰か】を必要とするものじゃないことに没頭すりゃいいのによ。まぁ、ワーカホリックになるのも問題ではあるんだが……要はバランスが大事なんだよな……」
「ヨネさん……」
最後は米山が自分自身に対して呟いたものなのか、隣にいた村岡が米山を見て少し苦笑いしている。
「……っと、汐見さんの話だったな。で、奥さんは? どうなるんだい?」




