006 - 汐見との出会い(1)
──汐見潮と俺・佐藤甘冶は、出会って7年と半年になる。
あれは、磯永が社を上げて各部署の再編を行っている頃。
バグの多さで頻繁に炎上していた開発部では、急遽『優秀な人材が欲しい』と躍起になっていた。
そのときに中途採用で入ってきたのが汐見だったのだ。
噂ではブラック企業から引き抜いた人からの、リファラル採用だったらしい。
後に汐見本人に聞いた話だと、学生時代にインターンをしていた自社開発企業にバイトからそのまま入社というありがちなケースで新卒入社したものの、1年もしないうちに経営者が変わって業績が悪化の一途をたどり、ブラック体質になってしまったらしい。
時給換算すると百円にもならなかったというサービス残業の中、毎回の炎上案件で心身ともに疲弊して壊れる寸前。その企業のブラックぶりを知っていた汐見の大学時代の先輩が声を掛け、うちの社に紹介した。という転職劇だったそうだ。
汐見はブラック企業でのデスマーチを何度も経験していただけあって、その仕事ぶりは他の同僚が驚嘆するほど素早く正確無比なコードを書く、と凄まじい、という噂が流れていた。
VCS(※1)にコミット(※2)される、あらかじめリファクタリング(※3)を考えて作られた異常に可読性の高いコードは、当時社内一のプログラマーとして名を馳せていた北川氏──現専務──を唸らせるほどだったらしい。
これも後で知ったことだが、それまで現場第一主義で取締役専務の役職を断り続けていた現・北川専務は汐見の入社を機にその提案を受け入れたのだと聞いた。
取締役となった北川専務が開発部の管理を一手に引き受けたことで開発部は体質改善され、炎上率と残業率が劇的に下がり、経営管理者会議でも社始まって以来の快挙と絶賛された。ということも、最早伝説と化している。
その当時、中途入社の26歳だった汐見と、新卒入社2年目の24歳だった俺は、入社時期も部署も年齢も違うため汐見が入社してから数ヶ月間、全く面識がなかったが、その年の忘年会で偶然隣の席に居合わせた。
それが初対面といえば初対面だった。
当たり障りのない世間話をしながら乾杯を酌み交わすことができたのは純粋に嬉しかった。
中途入社の汐見潮の有能ぶりは他部署にまで轟いており、開発部の同期から聞いた汐見潮という人間の能力の高さにちょっとしたかっこよさと憧れを抱いていたからだ。
その頃の俺は、入社して2年の新人卒業前。
顔面偏差値の高さと高身長ゆえに他部署を含めた異性からはモテまくり、側から見て明らかなほどちやほやされ、営業部の同性からは妬まれるあまり【実力もないくせにそのルックスだけで仕事をとってくる最低なやつ】とか【枕男】と陰口を叩かれてることも知っていた。
その陰湿な陰口に慣れるよう努力している最中だったが、自分の預かり知らないところで根も葉もない噂を立てられ、そのうち業務に必須の報連相が自分にだけ回ってこなくなった。
仕事に支障をきたすほどの嫌がらせに疲れ果て、転職雑誌を読み漁っていた時期でもあった。
その忘年会──当社・磯永で毎年恒例の──は、本社のほぼ全社員が参加する1年で最大のイベントだ。
ホテルの大宴会場を貸し切り、巨大な回転テーブルを部署×3台ほど配置した大ホールで行われ、規模も大きい。
各部署がそれぞれ得意の宴会芸の出しものを出し合い、飲めや歌えや踊れとまさに大宴会そのもの。
各自の席はくじ引きで決められるため、部署も入社時も異なる俺と汐見が隣席になる、という偶然のイベントが発生したのだ。
その時2回目の参加だった俺は正直、同じテーブルの女子からの視線にうんざりして、どうやって穏便に二次会を断りつつ退場しようか考えていた。
忘れもしない、その忘年会の席で──
*****
『おい、佐藤! お前、今月も2位だったんだってな?』
酔っ払った先輩が汐見と歓談中の俺に、千鳥足でやってきた。
その人は俺の営業成績が首位になると、とにかく逐一嫌がらせをしにくる人だった。
俺の1年前に入社したその先輩は汐見の1つ年上だ。
他の人に迷惑になる、と俺がスルーを決めこもうとした時。
『おい! 無視すんな佐藤! お前、オレのこと馬鹿にしてんだろう!』
忘年会を無礼講の場と勘違いしている輩は相当数存在するが、この先輩はその最たる者だった。
俺は少しため息を吐きながら『すみません、お手洗いに』と話していた汐見に小声で伝えて席を立とうとした、その瞬間──
バシャッ! と音がした。
後ろを振り返ると──
汐見が頭から水……いや、その先輩が持っていた日本酒をそのまま丸かぶりしていた。
『お、おい……おま……』
日本酒をかけた先輩の方が驚いていた。
それは俺がかぶるはずの酒だった。
その先輩は俺が日本酒で悪酔いすることを知っていた。
知っていて、飲んでいる日本酒を丸ごと俺にぶっかけようとした。
その悪意ある意図に気づいた汐見は、俺が立ち上がり、その先輩から目を離した瞬間、身を挺してその酒をかぶったのだと──シラフのまま一部始終を目撃していた同じテーブルに座る女子が言っていた。
『……先輩……酒は飲むものであって、かけるものじゃないですよ。地蔵じゃあるまいし』
『お、俺は、お前じゃなくて佐藤に……』
『佐藤さんだって、地蔵じゃないでしょう。いくら酔ってるからってちょっとやりすぎじゃないですか?』
日本酒をかぶってなお冷静さを失わない汐見の態度と表情と口調に、さすがの傍若無人な先輩も目が覚めたらしい。
様子を見守っていた同じ課の先輩女性にたしなめられ、すごすごとその場を退場してくれた。
残された俺と汐見は目を合わせて、思わずひとしきり笑ってしまった。
『すみません。僕が立ち上がらなければ、汐見さんにかかることはなかったのに』
『それはいいよ。でも流石にこのままでは風邪を引くな。社に着替えがあるから一度戻るよ。着替えたらそのまま僕は帰る、って部長に連絡しておいてくれるか?』
『え、じゃあ僕も行きます』
『いやいや、社内一のモテ男を僕なんかがお持ち帰りしたと知れたら、年明けから女性陣に総スカンをくらう』
『そんなことないですよ。僕なんて【顔だけ男】って呼ばれてるんで、ここに居たってどうしようもないです』
入社当時、3回程、社内の女性に告白されて付き合ってみたが、ことごとくダメになった俺は、この1年くらい、社内の女性をお持ち帰りすることも恋人にすることもなかった。
『汐見さんが濡れたのは僕のせいなので、僕が汐見さんにお供するのは義務です』
思い返すと、この時の俺は相当酔っていたし、精神的にだいぶ弱っていたんじゃないかと思うが、お詫びに一緒に社に戻るのはお付き合いします、と提案して汐見と揉めた。
すると、先ほど酔っ払った無礼な先輩を嗜めていた女性社員が戻ってきて笑いながら
『あなたたち【佐藤と汐(見)】って【シュガーアンドソルト】なのね』
ちょっと赤ら顔で朗らかに言い放ったもんだから、その場で聞いていたお調子者の後輩の一人が
『おぉ~~!【Sugar And Salt】名コンビ 誕生の瞬間っすね~!』と囃し立てた。
それ以来
【甘いマスクで甘々対応・営業部のシュガーこと佐藤甘冶】と、
【塩顔塩対応・開発部のソルトこと汐見潮】は、部署を超えてコンビとして扱われるようになってしまった。
だがその一件から、最低な嫉妬深い先輩は俺に口出しすることが減り、気づいたら退職していた。
一方、俺はというと。
コンビ名をいただいたことで、自分のキャラ付けがより明確になり、営業の仕事も部署での人間関係もぐっと円滑に進むようになったのは事実で。
(人間、どういうきっかけで浮上するチャンスを掴むかわからない──)
そう思えるようになったのは確かに、汐見潮のおかげだった。
※1:VCS=Version Control System=バージョン管理システム。ファイルの変更履歴の保存・管理を行うソフト。
※2:コミット= 追加・変更したファイルをVCSに登録すること。登録するコマンド。
※3:リファクタリング=ソフトウェアの外部的振る舞いを保ちつつ、内部構造を改善すること。