073 - 佐藤宅で2人(8)
佐藤から受け取った折りたたみの椅子とテーブルを部屋に入れて設置すると、そのテーブルの上にノートパソコンを広げ、メモ用紙の束を何枚か取り出して何事か書き始めた。
「俺、リビングにいるから。何かあったら声かけろよ」
「おぅ……」
もうすでに集中モードに入っているらしい。こうなった汐見は1時間は動かない。
とりあえず佐藤は邪魔にならないように部屋を出ると、リビングのソファで新聞を広げながら今日のスケジュールを考えようと思った。残っているコーヒーを淹れるためキッチンに足を向ける。
汐見曰く『集中している時は声も聞こえてないし、話の内容も入ってこないから話しかける時は声をかけるんじゃなくて目の前で手を振るとかしてくれ』とのことだ。
実際、職場で汐見がPCの真っ黒い画面に向かって一心不乱に入力しているモノを見て、佐藤は目眩がした。そこには英文法に則っていない呪文のような英語の羅列が並び、全くもって理解できなかったからだ。そんなものを解読したり書いているんだとしたらそりゃ集中しないと無理だよな、と思ったものだ。
小1時間ほど経っただろうか──
「喉渇いた……」
部屋から出てきてソファの背後に来た汐見の第一声がそれだった。
ソファでタブレット端末を眺めていた佐藤は足音で気づいてはいたが汐見から声をかけられるまで待っていた。
「何飲む?」
汐見をソファの隣に座るよう手で促した佐藤は、入れ替わりに立ち上がる。
「あ、いい。自分でやる……」
「座ってろ。午後は外出するし、そうでなくても刑事さんたちとの面談で疲れる羽目になるんだ。体力は温存しとけ」
「わかった。わr……ありがとう」
「あ~、俺、ちょっとハンドマッサージしてもらいたいかもー」
「……わるい」
「よっしゃ! じゃあ、俺が飲み物持ってきたらよろしくな」
ニコニコしながら佐藤が冷蔵庫に向かう。
それを眺めている汐見の目元にはうっすらと潤いが滲んでいた。
(紗妃と最後にこんな会話したの、いつだったか……)
自分の家にいると『長居したくない』と思ったが、佐藤の家にいると家での紗妃とのやりとりを無意識に掘り起こしてしまう。
(矛盾だらけだな……)
紗妃とのこと、これからのこと。
(先送りにしすぎたこと全部が一気に……雪崩を起こしたんだな……)
「どした?」
コップに入ってる透き通った茶色い飲み物を差し出すと、佐藤は汐見の隣に座った。受け取った汐見が
「なんだ、それ?」
「麦茶」
「そんなものまであるのか」
「? どういう意味だ?」
「いや、お前のことだから炭酸水とかスムージーとか、もっとオシャレな飲み物が出てくるかと」
へぇ~と言いたげにそんなことを言ったものだから
「……お前、俺のこと相当……なんか、斜めに見てないか?」
目を眇めた佐藤が汐見を横目で見る。視線を逸らしながらちょっと居心地悪そうにした汐見が
「……う~~~ん……ちょっとそう、かも」
「……お前な……まぁ、別にいいけどな。スパダリはもう卒業したんだよ」
「なんだそれ?」
「知らね?」
「……スパ……温泉的な?」
「は~……まぁ、お前は知らなくていいよ」
「は?」
「そのままでいてくれよな、しおみん。ってこと」
「……お前、それ……」
ニヤニヤと笑いながら揶揄うように言われたソレは、今はすでに起業した誰かがつけた汐見の愛称だ。言われると複雑な心境になるから、あまりいい気はしない。
その愛称をつけた誰かは入社後1週間もしないうちに突然『【みう】と【しおみん】だったら、どっちがいい?』と汐見に話しかけてきて、【みう】に嫌な記憶があった汐見は【しおみん】を選んだ、という経緯があった。
その後からは裏で『しおみん先輩』と呼ばれ始めることになったのだが。
尚、【みう】とは「しお みう しお」の前後の【しお】を抜き出すとソレになり、小学生時代に散々からかわれて、そいつがしつこかったから喧嘩したこともある。
(今思うと……苦くて青臭い記憶、だ……)
「橋田、元気かなぁ……」
「元気だぞ。俺、今も連絡取ってる」
「え? 本当か?」
「あぁ、まあな……」
(不本意ながら、だけどな……)
色気も何もない、でも何気ない佐藤とのやりとりが汐見には常に心地よかった。
それは紗妃と一緒にいた時ですら感じることがなかった感情だ。
(紗妃といると常にドキドキというか、ハラハラするっていうか……そんな感じだったな……)
佐藤が女性に異常にモテること、女性の扱いに慣れていること、それなのに汐見をかなり贔屓目に扱うこと。
そういったことがあったせいで、汐見は自分が何か錯覚しているのだろう、と思っていた。




