064 - 退院
「……まぁ大丈夫でしょう。完全ではないですが、かなり塞がりつつありますし」
「そうですか?」
6月27日(月)午前8時──汐見の担当医師・佐々木の入院最後の回診が行われている。
昨日、佐藤が帰った後の汐見は、特に何もすることがなく、スマホのメモアプリに【帰ったらやることリスト】を作成してテレビを見ていた。
入院は確かに体を休めることはできるが、働いたり動くことの方が好きな性質な汐見にとっては無駄な時間を消費している感覚に陥って逆にストレスがたまる。
(家に帰ったらやること山積みだな……)
「汐見さん? 聞いてます?」
頭の中で色々なことを考えながら診察を受けていると、心配そうに顔を覗き込んできた柳瀬に声を掛けられた。
「あ、はい。聞いてます」
(いや、ちょっと聞いてなかった……後でもう一回聞こう……)
佐々木医師も目が隠れるくらいの前髪の奥から少し不審そうに見つめてくる。
「とにかく、退院して数日間は回復に一番大事な時期なので、この1週間は安静に過ごすようにしてください。できればお仕事は休まれた方がいいと思います」
「……わかりました」
「何か質問はありますか?」
「筋トレは……無理ですよね?」
柳瀬と佐々木医師が顔を見合わせた。
(あ、しまった……)
は~っと、少し大袈裟に佐々木がため息をつく。
「さっき、聞いてなかったんですね。……いいですか、腹部の筋肉、つまり腹筋ですが、人間が動作する場合、無意識に使ってしまう部位です。絶対に、筋トレはしないでください」
「あ、はい……」
さっき注意されてたことを聞き逃してしまっていたようで。柳瀬が汐見から顔を背けて小刻みに震えている。
(もしかしなくても笑われてるな、これ……恥ずかしい)
顔に熱を感じた汐見は少し俯く。
「筋トレのような強度な運動は……1ヶ月弱は厳しいと思ってください。じゃないとせっか治り始めている傷口が開いてしまいますよ」
「……」
(だよな……いや、オレもそう思ったんだけど、とりあえず聞くだけ聞いてみようと思って……)
佐々木医師は目が隠れるくらいの前髪を少し揺らして汐見の顔をじと、っと見て
「一応、念を入れて4針も縫ったんです。もし傷が開いたら再度縫う必要が出てさらに回復が遅くなってしまいます。とにかく……私が許可を出すまでは……少なくとも1ヶ月は筋トレ禁止です」
はっきりと注意された。
「……すみません……」
萎縮するように小さくなってると、とうとう柳瀬が ブフッ! と吹き出した。
「す、すみませんっ! つい! いや、きっと、そういうこと聞くってことは、汐見さん、無意識に筋トレやるくらいの筋トレオタクですよね! だとしたら、やっぱり誰かと一緒にいた方がいいと思ったんですよ、監視役として」
「お目付役、ね。そうですね、佐藤さんには『くれぐれも汐見さんが無意識に筋トレしないように注意しててください』と伝えといてくれ」
「了解しました!」
(無意識に筋トレしてしまう癖が……バレた……)
汐見の4畳半の狭い書斎には1畳程度ポッカリとあいた場所があり、そこには種類の違うダンベルが何個か転がっている。なので、本を読んだりスマホしながら気づいたらダンベルカールをしていることが多々あるのだ。
最初の頃は意識していたのだが、そのうち無意識にやるようになった。筋トレが無意識のルーティン化しているのだ。習慣とは怖いもので、最近はやったことすら覚えていないこともあったりする。
(流石に全身運動……プランクなんかまで無意識にすることはないけど……佐藤はジム通いだから筋トレグッズは家に無い、だろう……その意味でも佐藤の家に世話になった方がいいのか……)
「とりあえず、安静に。木曜日に経過を見たいので一度病院に来てください。抜糸しなくても良い糸を使ってはいますが、様子を見て判断します」
「はい」
「じゃあ、診察はこれで以上です。退院して大丈夫ですよ。痛み止めなどの服用薬もお出ししますが、お昼前には退院できます」
すると柳瀬が思い出したように話しかけてきた。
「汐見さん、佐藤さんが来てくださるんでしたっけ?」
「あ、はい。もうすぐ来ると思います」
「了解です。じゃあ、病室で帰宅の準備をしてください。お昼なしと聞いてますが、午前中に出られるんですよね?」
「そのつもりです。佐藤が来たらそのまま退院しようと思ってます」
佐藤が『荷物はあまりなさそうだけど、気になるから付き添う。どうする? 一旦自宅に戻るか?』と言ってくれたため、一度自宅に帰って必要なものを持持参して佐藤の家に数日世話になることに決めた。
「了解しました。精算がありますので、出る前に1階の会計窓口まで寄ってください」
「わかりました」
佐々木医師と柳瀬が出て行って、まだ少し痛む脇腹を無意識に庇いながら荷物の整理をしていると
「お疲れ」
何事もなかったかのように、佐藤が仕切られたカーテンに手をかけて覗き込んできた。
「おう」
「回診、終わった?」
「あぁ、無事、退院だってさ」
「よかった。俺も昨日帰ってから色々整理しといたから、何日でも何週間でもいられるぞ」
「いや、そんなには居られないだろ、さすがに……」
ふと、佐々木医師に言われたことを思い出す。
『少なくとも1ヶ月は筋トレ禁止です』
(1ヶ月……も世話になるわけにはいかないよなぁ……)
初めての入院を経験して少し弱気になっていることを自覚する。こういう時、誰かが傍にいてくれるのは本当に心強いものなんだな、としみじみ感じた。
「……ありがとな」
「ん? 何か言った?」
「なんでもない。とりあえず、自宅に寄ってから、お前ん家に行こう。手間かけて悪いけど、頼む」
「汐見……俺の家に着いたら【悪い】って言うのは禁止な。一回言う毎にペナルティつけよう」
「ん?」
「お前のその悪い癖、直そうぜ。ペナルティは……う~~ん、ちょっと考えとく」
汐見は佐藤のその物言いに一瞬、違和感を感じた。
だが、バタバタと準備をしてナースステーションまで立ち寄ると柳瀬がいた。
「これが処方されたお薬です。用法と用量間違えないでくださいね。あ! あと、佐藤さん!」
「はい?」
「『汐見さんが筋トレしないように見張っといて』と佐々木先生から伝言です。よろしくお願いします!」
「わかりました!」
佐藤が隣でニヤニヤしてるのがわかる。
(……ちょっとどころかかなり恥ずかしいぞ、これ……)
「じゃあ、ありがとうございました!」
「はい、お大事に! あ、1階の会計課に寄るの、忘れないで下さいね~」
「はい!」




