061 - 診立て(5)
「……あの、紗妃は治るんでしょうか?」
一番の疑問はそこだ。
「……治る、というのがどういう状態のことを指すのかを定義しなければいけませんが……」
「……」
説明していたときは流れる川の如く滔々と話していた原口が、ここに来て今度は持って回った言い回しをする。汐見と佐藤はそう思った。
「【一般的な生活を送れるようになる】という意味では【治る】と思います」
「それはどういう……?」
「……心の病に罹患した患者様のご家族が往々にして望まれるのは……『元の状態に戻してほしい』という事らしいのですが」
そこで原口医師の言わんとしていることが佐藤にはわかってしまった。
「ですが……一度壊れてしまった心が元通りに戻る確率は低い。また、元通りに戻る場合には、長い年月がかかります」
「!!」
(紗妃……紗妃は……!)
(〈春風〉は……)
「ただ単に修復するという表現が正しいのかもしれません」
原口は宣言し、ゆっくりと目を伏せた。
「それが患者様家族の望む形かどうかは……」
一度壊れた心が【完全に元に戻る】ことは難しい。
それはおそらくそのような人に接触したことがなければ理解は難しいだろう。
心とは、感情とは、記憶とは、意識とは、【その人自身】とは。
結局、全ての人間は、1つの脳でそれら全てを処理し、その人自身を構成している。
1人の人間が持つ【脳】は世界にただ1つ、唯一無二の限定品だ。その機能のどこかがおかしくなるのだ。
外科的手術を施しただけでその人の人格すら変わってしまう事がある、と言われるような繊細な場所なのに、それが一部壊れてしまったら、どうやって【元に】戻すというのか。
「紗妃は……【壊れて】いるんですか?」
恐る恐る、汐見は質問してみた。
「もう少し問診などで調べてみる必要はありますが……汐見さんにもう一つだけ質問していいですか?」
「はい……」
「暴れる人格の紗妃さんは、いつも別人格のように出て来るんですか?」
「そう、ですね……」
「全くの別人?」
「……なんて言ったらいいのか……とても、説明しづらいんですが……」
言葉を選んでいるのか、逡巡するように数十秒の沈黙が流れた。
「最初は、そこまではっきりとはしてなかったと思います……」
「と、言いますと?」
「……その、何というか、いきなり人格が変わる、といった違和感を感じなかった、というか」
「……」
「違和感、らしきものを感じるようになったのは、お義母さん、美津子さんが1度目に倒れてからで……」
「!」
「脳梗塞で、とおっしゃってましたね。1度目に倒れたのはいつ頃ですか?」
「……挙式して、すぐ、くらいでした……」
「亡くなられたのは、それから?」
「……半年後です。多分、限界だったんだと思います……」
佐藤は、汐見夫婦の重大な過去に触れ、内心動揺していた。
(そんな事……全然言わなかったじゃないか! 汐見……なんで……!)
これほど長く一緒にいるのに、佐藤は汐見について知らないことが多すぎた。
ふと振り返ってみると汐見は佐藤の話を聞いてることが多く、あまり多くを語らなかった。それは、何を意味していたのか。
「お義母さんが倒れてから少しずつ独り言が増えて……大体が小さな声なので聞こえなくて……ただ、その……」
ゴクリ、と汐見の喉が鳴る音が佐藤にまで聞こえてきた。
「僕が、夜、遅くに帰ってくると、紗妃の部屋から大声が聞こえて来るようになって……」
「「……」」
「声を掛けると『階下のAさんが、自分の噂をしている』とか『お隣のBさんが自分がいると壁をドンドン叩いてくる』とか言い出して……」
佐藤はもう聞いていられなかった。
「僕だけクリニックに言って相談はしてました。早く連れてくるように、と言われていたんですが……1度目の説得の時、完全に別人格に切り替わって……」
悲しそうな、でもどうにもならなかった自分への罪悪感を抱えているその姿は、いつもの強気な態度と合理的な行動を得意とする汐見のそれではなかった。
「お隣のBさんとの間の防火戸をぶち抜いてしまって……それで警察を呼ばれました」
「!!」
(だから、昨日の刑事さんが……!)
「その後、落ち着いた頃を見計って、2度目の説得を試みたんですが、今度は……」
ちら、と汐見が佐藤の様子を伺うように顔を見た。
「リビングの床を……自分の部屋から持ってきた掃除機で殴り出して……驚いた階下の住人が、警察を呼んで……」
(警察沙汰が2回! それで、あの刑事さんたちは、汐見の素性を……)
紗妃の数々の奇行は、自宅の中という密室で行われていた。
紗妃は他人に対してはとても注意深く振舞うため、おかしなところは出さないし、出なかった。それでは警察も介入しようがない。
かかりつけの内科医に相談しても、彼らも専門家ではない。症状を知らされても、専門家にかかった方がいい、としか言わなかった。
だから、汐見はリビングに監視カメラとテーブルに録音機を仕込まざるを得なかったのだ。専門医にかかる際の資料になるだろうと思って。刑事事件の証拠として家族の行動や会話を警察に提出するつもりなど、1ミリもなかったのだ。
「……初期の頃は、完全に人格が分かれていたわけじゃなかったんでしょうね」
「え? 多重人格って、完全に人格が別れてるんじゃないんですか?」
佐藤が自分が知っている【一般的な知識による多重人格】に基づいて質問した。
「突然、別人格が生まれる人もいます。でもそうじゃない方もいます。その場合、通常生活を送っている時には別人格も本人の中に介在していて、お互いに記憶と人格の情報をある程度共有しています」
「……」
「専門家にかかった方がいい、と言っていた内科の先生は正解だったと思います。紗妃さんのような場合、専門医が時間をかけて診断しなければならなかった」
素人判断が危険なのは当然のこと、全ての医者だって万能ではない。
医療に関わる全ての知識を詰め込むが、実際に分野が違えば専門家でないとわからない情報の方が多い。内科医がいて、皮膚科医がいて、整形外科医がいて、と分かれてるのはそのせいだ。専門じゃない分野についての質問に答えてそれがもとで事故があったりなどしたら洒落にならないからだ。
「紗妃は……多重人格、で間違い無いんですか……」
「……問診を重ねてから最終的な結論を出したいのですが」
「……治らない?」
「……先ほども申し上げましたが【元に戻る】可能性は低いかと思います」
「それは……先生がそう思うのは、どうしてですか……?」
「結論を急ぐのは良くないのですが……紗妃さんには辛い記憶が多すぎるんです。だから彼女は別人格を作ることで別の人格にその痛みを代わってもらっていた。それは、わかりますよね?」
「……はい」
「逃げ場所を作らなければならないほど彼女は精神的に追い詰められていた。おそらく、その不倫相手の方も、一つの逃げ場所だったんだと思います……」
(なぜだ、〈春風〉! これほどお前だけを愛する汐見がいて?!)
「……僕では、逃げ場所になれなかった?」
「……」
(汐見が、〈春風〉の逃げ場所じゃない?! どうして!?)
汐見の質問に窮している原口医師を見た佐藤は、汐見を援護しつつ、だが自分の疑問でもある質問を投げた。
「汐見は愛妻家として有名なんです。その汐見が、妻の逃げ場所にならなかったって、不倫相手を逃げ場にしてたって、どういうことなんですか? 彼女が安心して自宅にいられるよう、自分だけの稼ぎで生活できるよう、汐見はずっと働き詰めだった……!」
佐藤が口を挟むことではなかっただろう。だが、それでは佐藤の気が済まなかった。これでは何のために自分が汐見から身を引いたのか、佐藤自身も納得がいかない。
「1年前までは何もなかったんだとしたら……何か、きっかけがあったんじゃないでしょうか。この辺りは紗妃さんご本人に聞くしかありませんが……」




