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060 - 診立て(4)


「理想かとだつかちか?」

「……少し込み入ってしまいますが、説明しましょう」


 そう述べた原口が【自己愛性】と【境界性】に丸く円を描き、解説が始まった。


「どちらもパーソナリティー障害として診断されますが、自己愛性と境界性のふたつを持つ患者さんもいます。反社会性の方の場合は社会規範を外れることが……他人に危害を加えたりなどして警察沙汰になるような方が多いのでおそらくそうではないと思われます。紗妃さんは、自傷などありましたか?」

「それは……なかったと思います。……おそらく、ですが」


 自傷行為を繰り返す人には特有の傷がある。よく見られるのが手首周辺や腕への直線的な傷痕だ。ぱっと見だと猫の引っ掻き傷だと思うだろう。


「リストカットは多分、なかったと思います。とても痛がりだったので……」

「そうですか。だとすると、境界性パーソナリティー障害の診断からも除外できますね……よかったです」

「よかった、とは?」

「境界性の人は衝動的に激しい症状が現れるので、関わった人がとても混乱します。例えば、つい先ほどまで『大好き』と言ってた人が、数秒後に本気で殴りかかったりしてくる感じです」

「え? まさか……」

「でもパーソナリティー障害の方の内面では『大好き』も数秒後の本気の攻撃も、彼ら自身の中での論理的正当性があるので一般的な常識に(のっと)った説得などはなんの意味もありません。説得に意味がないのは自己愛性もほぼ同じなのですが、境界性の人は易怒性(いどせい)が高く……怒りっぽいという意味ですが、かなり危険なのです」

「確かに、怒りっぽい紗妃もいました……」

「そうですね、その()()()()()()()()()は自殺を仄めかしたりなどはしましたか?」

「それは……なかった気がします。ただ、大声で暴言を吐いたり物を投げたりはしてましたが……」


 ちら、と佐藤の方を振り返った。

 佐藤は表情をあまり出さずに汐見の話を神妙に聞いていた。


「対応に困ってはいました……専門の病院に連れて行きたかったのですが、あの……」

「診療を拒否していたんですよね?」

「はい……」

「それらも境界性と自己愛性PD(※)の方に特徴的な症状です」

「はぁ……」


 解説されると、得心が行くことがいくつも出てくる。そんなことが紗妃の内面で起こっていたなど、専門家でもない汐見が理解るはずがない。


(餅は餅屋、ということか……)


 汐見はこうなる前に、紗妃を原口のような医者の元に連れて来れなかったことを激しく後悔していた。


「自己愛性PDの方は自分自身の中にある、肥大した尊大な自我にしがみついて生きています。自分は完全無欠な人間で、意味なく賞賛されるべき、誰よりも偉大であるべき、と常に考えています。なので、完全無欠な人間である自分が、弱い人間が行き着く精神科になどかかるべきでない、とも思っています」


 昨日見た映像での紗妃の様子を、汐見と佐藤は思い出していた。


「ですのでまた、権威や権力、名声や財産、美しさなどを過大に求め、素晴らしい人間とこそ、自分は結ばれるべきと本当に思っています。そして、彼らの中では彼ら自身は一貫した神のような人間である自分、というストーリーが作られ、それに基づいて行動しているため本人の中で行動と思考に矛盾はないのです」


(だから、あの男を……)


 佐藤は、別人格の紗妃が『結婚して一流セレブの仲間入り』と叫んでいた高級時計の不倫男のことを考えていた。

 叫んでいた暴れる紗妃の話が本当なら、あの吉永、いや、旧姓で三浦家というのはすごい家なんだろう。

 その彼には自分こそが相応しいと思って行動していたのだとすれば、紗妃にとって汐見の存在は邪魔以外の何者でもない。


(だから……汐見の存在を……)


 そこまで思い至ると、佐藤は目を瞑り、この世で最も恐ろしい考えを追い払い、隣にいる実物の汐見の横顔を見て心底ホッとする。


(よかった……本当に、よかった……お前が生きていてくれて……)


 佐藤は緩みそうになる涙腺を絞り、原口医師の説明に意識を集中した。


「ただし、自己愛性PDの方に共通するのは他者の評価によってしか存立し得ない脆弱(ぜいじゃく)な自分の自我。かりそめの自尊心によってのみ、彼らは自我を支えています。ですので、通常の人が持つ心の底からの『思いやり』などの優しい感情や感覚はわからない」


 淡々と語る原口は汐見を見ているようでそうではないような視線だった。


「そして、自己愛性の人が他者を()めそやすのは基本的に付き合いたてから本人にとって心地よい関係性……つまり()()()()()()()()()()です。学校で、いじめっ子といじめられっ子が最初の頃は仲が良かった、というのも大体それです。これが【()()()】の段階」


 原口医師はボードの空白に『理想化』と書き示した。


「ターゲットは自己愛性PDの自己愛を満たすための餌なので、逃げられる気配を感じると、褒めちぎったり、追い縋ったり、泣き落としたりしますが、本当に逃げられると一転して攻撃に転じます。よくあるのが、ターゲットに気づかれないようにターゲットをおとしめる嘘を周りに吹聴し、用意周到に集団から孤立させることです」


(ああ、これって……)

(ズッキーニだな……)


 佐藤と汐見は過去にいた、やはり同じ1人の人物を思い浮かべていた。


「自己愛性PDの人は頭の良い人が多く、ターゲット以外には外面が良い人が多いのも特徴です。最近ではSNSなどでその技が熟練芸の方も多い印象です。常に称賛を浴びるような行動を強化学習し続けているので、特定のコミュニティの中で何が受けて何が受けないのか熟知しています。そのため、ターゲット以外に正体を気づかれることはほぼありません。孤立させられたターゲットは被害者であるにも関わらず、理由もわからず、逆に周囲の方も真の被害者の方が悪者だと誤認してしまうことが多いのです。これが【()()()()】の最終段階」


 そして、今度はボードに『脱価値化』と書き記した。


「ターゲットに逃げられたあとは、他の獲物を見つけるためにコミュニティを移動してまた狩りを始めます。ですので、基本的に自己愛性PDの人とターゲットの関係性は短期間で……1年から2年ほどで閉じられます。……結婚している男女でもなければ」


 DVで、殴る蹴るの暴行を加えられてもなお『本当は優しい人なんです』という妻の話をどこかで聞いたな、と汐見と佐藤は考えていた。


「DVや最近問題視されているモラハラも自己愛性パーソナリティー障害者だと言われています。ただ、このパーソナリティー障害というのは最近ようやく日本で周知されつつあるものなので診断も細心の注意を払い、かなり慎重に診断を行うため、認知されることが難しく……」


 DVを行う男性も自己愛性パーソナリティー障害のことが多く、ほとんどが自分の感覚に疑問を持たない。そういう意味でも自己愛性パーソナリティー障害というものの病理は根深い。


双極性そうきょくせい障害(躁鬱病そううつびょう)だと思っていた身内が、実は根本にある病理は自己愛性パーソナリティー障害だった、とか、薬物依存症だと思っていたら実は境界性パーソナリティー障害だった、という症例が報告されていたりします。それぞれが複雑に絡み合っていたり、程度が人によってばらつきがあったりと、なかなか診断が難しいのです」

「……じゃあどうして先生は……どうして紗妃がそう、だと思うんですか?まだ直接本人に詳しく問診したわけじゃありませんよね?」

「……私の知り合いに……紗妃さんとほぼ同様な症状を持った友人がいたんです」

「え……」


 ぽつり、とこぼした原口医師の視線が虚空を漂い、ついさっきまで理知的な光を灯していた瞳が、瞬間的に陰った。


「彼女は……壊れてしまいましてね……もっと早くに気づいてあげられれば、と悔やんでも悔やみ切れません……」

「……」


 それは、身近な人を救えなかった人間の後悔。


「でも、だからこそ、同様の症状で苦しんでいる人を救わなければ。と思い直しました。この世の中には同様の症状で生きづらさを抱えて苦しんでいる人が大勢いる、とわかっただけでも私は幸運だったと思います」












※PD=Personality Disorder パーソナリティー障害の略称。


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君知るや〜 最強のΩと出会ったβの因果律 〜



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