186 - 出社(6)
「し、汐見?! そ、それって…?!」
「……」
真っ赤に腫れた目をした佐藤が、前のめりになって汐見の真意を知ろうと顔を覗き込む。
その体勢に若干引きながら汐見が苦笑いした。すると
ピリリリリ! どこからともなく着信音のようなものが聞こえてきたと思ったら
「はい。どした?」
汐見が何事もなかったかのように、今度は佐藤の右手を離して携帯に出た。
「あぁ……わかった。ちょっと待ってくれ」
佐藤は汐見のその対応と姿にほんの少しの違和感を感じながら唖然としていた。
そんな佐藤を見た汐見が、笑いながら
「時間だ。あとは、終業後に、な」
「え?! ちょ、ちょっと待て!」
「? なんだ?」
「そ、さ、さっきの、ってその、へ、返事?」
佐藤の必死な表情が、置いていかないでくれと縋る犬のように見えた汐見は曖昧な表情をした。
「……返事とは……違う、かな」
「え?! じゃっ、ど、どういう……!」
「……帰るまでに、考えとく」
「えっ?!」
はぁ……と小さなため息を漏らした汐見が佐藤を見て眩しそうに笑う。
「……オレも……今、思い出したんだよ……」
「へ?!」
佐藤はもう、はてなマシンと化していた。それでも汐見に食い下がり
「し、仕事終わったら! ちゃんと! 返事! く、くれるんだよ、な?!」
「……多分……」
「多分ってなんだよ! し、汐見?」
必死に言葉を投げかける。
「そ……お、お前! さっき〈春風〉を見て俺が『女だったら』って! そ、それって、そういうこと? だよ、な?!」
「どういうことだよ……」
手を離した汐見が左腕をL字にし、その手で右肘を掴み、右手の親指と人差し指で顎を掴む、いつもの考えている仕草をした。
食い下がる佐藤を見て、その必死さに破顔する汐見。
「お、お前! お、俺は……お、俺……」
何を言えばいいのかわからず、汐見の次の言葉を待っているのに自分を見つめたまま何も話し出そうとしない汐見に佐藤が目で訴える。
不意に、汐見が立ち上がり、座ったままの佐藤の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「へ?」
「……まだ片付けることがある。もう少し、待ってろ」
「え?!」
「あと、その目。泣いてたの、モロバレだ。少し時間空けてから出てこいよ。給湯室の冷凍庫に濡れタオル入れておくから」
「え? え?」
「腫れると治りにくくなるから、その前にな」
男らしく笑う汐見の表情に見惚れていた佐藤は
「ちょ、っと!」
「今日はもう開発部に顔出すな。お前泣かしたの、オレだってバレる……まぁ……バレてもいいか」
「え? え?!」
「とにかく。今日はもう終業後まで大人しくしてろ。あと、LIMEも禁止。あと……仕事もちゃんとやれ。……オレが仕事しないやつ、大っ嫌いなの、知ってるだろ?」
「!!」
「でもまぁ……」
汐見の表情が嬉しそうに変化していくのを見ていた。
「……あんな事されてんのに……休まずにちゃんと出社してたんだな。えらいよ、お前」
「しっ、汐見っ!」
(汐見! ……あぁ……好きだ……!)
にっこりしている汐見とは対照的に、汐見の内心になんの変化が起こっているのか、どういう状況になっているのか佐藤には全くわからない。だがそれでも、見えにくいところを一番に評価してくれる汐見が嬉しくて愛しくて堪らない。
佐藤は焦って立ち上がろうとした。だが、ぐっ と汐見に両肩を押さえられ、立ち上がれない。
(な、なに? ちから、つよっ!)
佐藤はギョッとして汐見を見上げた。
伊達に鍛えてるわけじゃない汐見の、病み上がりにも関わらず強い力に驚いて。
「しおみ?」
いつもとは目線の高低が逆になった汐見は
(……こいつとは……腕力の差はあまり無い、だろうな……多分……)
体勢のハンデがあるにせよ、佐藤を難なく抑え込めたことに少し安心する。そして
「いいか。今からオレはここを出る。お前は10分後くらいに出てこい。鍵閉めるの、忘れるな。暗証ナンバーは○○○○だ。覚えたか?」
「……」
返事をする代わりに佐藤はコクコクと何度も頷く。
ズズっ、と鼻をすすった佐藤の顔を見て、 ふふっ と汐見が笑う。
「お前は、変わってないなぁ……」
「え? な、何が?」
「そういうとこが」
「??」
汐見はもう一度、佐藤の頭に触れると、くしゃくしゃ とかき回した。
「汐見?」
「この部屋出たら、真っ直ぐ給湯室行けよ。目、冷やして、腫れてないか確認してから、自分の部署に戻れ。いいな」
「う、うん……」
「終業後は、オレがLIMEするまで待ってろ。外で待ち合わせよう。それでいいか?」
「わ、わかった……!」
「変な顔するな。じゃあ、後でな!」
そう言い残すと、汐見は会議室を後にした。
そして、残された佐藤は
「……待ってろ……って、何? どういうこと? なに???」
何が起こっているのか、起こるのかもわからず、佐藤は汐見の言われた通りにするしかなかった。
そして、お昼後にまた女子の噂話を小耳に挟んだ佐藤は、もう居ても立っても居られない状況に地団駄を踏みながら、終業時間まで待たされる羽目になってしまったのである。




