185 - 出社(5)汐見の欠片
顔を隠そうともしない佐藤の垂れた鳶色の瞳から、蛇口が壊れたように止めどなく涙が流れる。
(……お前って……中身はあの頃と、変わってないんだな……)
汐見はぼんやりと佐藤の涙を見ていた。
(お前が……オレの前でこんなに泣くの、あの時以来だなぁ……)
汐見は、無意識に出会った当初のことを考えていた。
そして、佐藤は────
(限界だ……汐見、俺は、もう……)
「もうイヤだ……もう、嫌なんだ……」
汐見はただ黙って聞いていた。
(これ以上、傷つきたくない……だけど……)
「……お前が、俺以外の誰かに……心を奪われ、のが……耐えられ、ない……」
佐藤の叫びを。
(お前に見捨てられたく、ない……俺を、選んで……)
「俺、を……選ばないなら、ハッキリ、断って、くれ……」
心から血を流す
(……お前が俺の前から消えるなら……その前に……)
「そしたら、俺が、お前の前から消える、から……」
佐藤の慟哭を。
(……お前がいない世界に……何の価値もない……けど……)
「俺がこの会社を辞める。連絡先も消す、連絡、し、ない……」
失意の末に決断した
(お前を忘れるために……お前から……)
「もう2度、と……お前の前に……現れ、ない……」
佐藤の覚悟を。
(佐藤は……オレだけを……こんな、に……)
汐見は、自分だけを切望する佐藤の想いに触れた。
(美形の泣き姿はアレだな……涙まで眩しいな……)
他人事のような感想を抱きながら。
(紗妃、より……)
その時、バキン! と、汐見の中で何かが割れる音が聞こえた。
紗妃と出会った時の映像が脳裏に浮かび上がり──その時に思ったことが──鮮やかに蘇る。
(紗妃……)
(ココロが、タダしいとオモう、のは?)
(オマエハサキヲ、ドウオモッテイル?)
『あんた自身が安心して幸せと思えるかどうか、それをあんた自身が間違えずに感じられるか』
(シアワせ、だった? サキといてアンシン、した?)
(サキトケッコンシタ)
(……結婚、か……)
『間違わないこと、間違った道だと感じたらすぐに引き返すこと』
(サキに、ヒトメボレ、した? ホント?)
(……そう、だな……間違ってた、な……)
(ヒトメボレ、ジャナイ、ナラ、ナゼ……)
ボタボタ零れ落ちる涙のせいで、佐藤のズボンに黒いシミが広がる。
ずっと胸につかえていた言葉を言い切った佐藤は、目を閉じて項垂れている。
(汐見……俺は……お前に、選ばれたい……お前にだけ、選ばれたい。他は、いらない……)
沈黙が流れ────
そして不意に、佐藤の両手に暖かい何かが触れた。
「?」
佐藤が目を開けて、自分の太腿に置いた握り拳を見ると
「!?」
汐見が、佐藤の両手を握っていた。それも、それぞれの手で。
「し、汐見?!」
驚いて佐藤が汐見を見ると、汐見は泣きそうな顔で微笑んだ。
「お前さ、オレに暗示かけるの、やめろよな」
「え?」
「オレ……紗妃に一目惚れ、してなかったのに」
「へ?」
突然の話で、何のことかわからずに、佐藤は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
汐見は佐藤の左拳を捕まえていた右手を自分の尻ポケットに突っ込むと、男一人暮らしになってアイロンなんか掛けてない皺くちゃのハンカチを差し出した。
「拭けよ。すごい顔になってる」
「あ……うん……」
そう言って、でも佐藤の右手を離さない汐見の左手が暖かくて、じんわりと佐藤の心に何かが染み込んでくる。
汐見は涙を拭う佐藤を見ながら、静かに心の声を聞いていた。
(マチガッて、た?)
(そうだな……引き返さないと、な……)
(ダガ、サキニミトレテタ、ダロウ?)
ハンカチで涙を拭った佐藤が、汐見を見つめ返す。
「暗示、って……?」
「お前、初めて紗妃を見たオレに、言っただろうが」
「え、っと……?」
「『あからさまに美女に一目惚れしてんじゃねえよ』って」
「?」
言われても、佐藤には何のことかわからなかった。言った事を覚えていなかった。
汐見は、ハンカチを握ったままの佐藤の左手をもう一度捕まえて、握る。
「!! し、汐見?!」
「確かに……見惚れてた……紗妃に……」
(あぁ、思い出した……やっと……オレも、馬鹿だ……今頃……)
「あの時……紗妃の、栗色の髪が……目の色が薄くて……色白、で……小さくて……可愛いな、って、思ったのは……」
「??」
汐見は──最初に閉じた──最後の蓋を、抉じ開けた。
そこには
「……お前が女だったら、こんな感じだったのかな、って……思ったんだ」
「?!」
欠片が1つ、残っていた。




