156 - 決戦の日(7)ー 1年前 ー
1年前────
紗妃にスイッチが入るようになったきっかけ。
それは、たまたま不運が重なっただけだった。
暴力的な紗妃が忌み嫌い、温厚な紗妃が心の拠り所にしていた母・美津子の死。
そして────
(ソレダケジャナカッタ、ダロウ?)
結婚して同居が始まってから、1年と半年の間。
今思うと新婚で、蜜月のような甘い時間を過ごしていた。過ごしていたはずだった。
(……オレは……仕事優先で……)
妊娠しているわけでもないから働きたいという本人の希望もあって退職していなかった。
同じ会社で働いているのに、紗妃と過ごす時間は徐々に減っていき……
(どうして、シンコンなのにザンギョウばかりしたの?)
(サキノソバニイルジカンヲ、フヤスベキダッタ)
(仕事が……きちんとしないと、と思って……)
(ホントウに、ソレだけ?)
(サキハ、マッテイタ)
(……わかってる……わかってた…………だけど、なにか……)
(ナニ? ナニがわかってた?)
(ナニモ、ワカッテイナカッタ)
(ちがう、違うんだ……なにかが、間違ってる、と……思、って……)
(……ナニもかも、マチガってたね?)
(サキハ、キヅイタ)
「汐見さん?」
「あ! はい!」
「どうかしました?」
「い、いえ、なんでも……」
「汐見さん、具合が悪いようでしたら無理せずに申し出てください」
池宮の心配そうな声を聞いて、汐見は少しほっとした。
(どうかしてる……こんな人がいるところで……)
内なる声が聞こえるのは常に孤独の沼に墜ちている時だった。
白昼の、しかも人がいる時に聞こえてくるのはこれまでにないことで──
(なんだ……オレの中で何が……)
心の闇に目を凝らし耳を澄ますが、敢えてそうしていると聞こえなくなるのが常だった。
「その……ちょうどその1年前……だったんだと思います。妻が……心の拠り所にしていた実母が亡くなって……荒れ始めて……」
「……そう……」
「今日、来れなかったのもその関係で……」
「……」
「あの……僕は妻が……貴女の夫から頂いた物の金額を知らないのです。その、慰謝料としてどのくらいを見積もっておられるんですか?」
汐見は回りくどいことを言うのをやめた。
この女性にはきっと直球の方が効果的だと直感したからだ。
「……おいくらならお支払いできるんです?」
「……その……」
「そちらの方での算定額はもう決まっているんでしょう。勿体ぶらずに提示なさったらどうです?」
池宮が鋭い目つきで質問する。
「池宮先生は、噂とは違って言葉に棘がおありですね」
「汐見さんの代理人として単刀直入に申し上げているだけです。今回こちらに出向いたのはそちらから提示された慰謝料の要求額が荒唐無稽なほど高額だったからです。その減額交渉に入る余地がないのであれば……」
「交渉しないとは言ってないわ。話し合いの中で落とし所を探っているところ……紗妃さんは入院することになったんですね」
「!? い、池宮先生?」
汐見は池宮が紗妃の状況を漏らしたのか? と疑念を持って見やると
「……なぜ貴女がそれを知っているんです?」
池宮が冷たい声音で志弦に問いかけた。
「当社御用達の偵察隊がいるので。その方から」
「「……」」
汐見と池宮は、この女性から何が飛び出しても驚くことはないと思った。
志弦は目を伏せて、ゆっくり瞬きするとこう言い切った。
「不倫関係の継続期間が一番長かった紗妃さんに使用した金額は、もう定かではありません。彼の初めての不倫相手は彼女ではありませんでしたが、夫が愛人を抱えようと考えたのは彼女がきっかけだったようですので」
右手で顎に触れると、志弦は続けた。
「紗妃さんとの交際費として費消した金額を年間で100万と考えて、その3年分。プラス私の精神的苦痛の慰謝料3年分ということで300万の合計600万。……いかがですか?」
「……それは、その、会社の損失の分の補填には」
「全然足りません。それこそお1人、3千万支払っていただいてやっと、というところですので」
「そ、それでは……」
「汐見さん」
池宮がそれ以上何も言うな、と視線で制する。その意味を知ってか志弦が
「良い社会勉強だと思うことにしますので。それに……」
今度は大石森の顔を見る。
「そうですな」
「夫を切ることで、新たな大口の取引先を確保することができましたし」
「え?」
また新たな事実が出た。だが
「……まぁ、その話はこちらの内情ですので」
志弦はそれ以上言う必要はない、と話を切り上げた。
「で。どうなんですか? それだけのお支払いは可能なんです?」
汐見は池宮と目配せした。
──昨日のカラオケ店で打ち合わせの最後に池宮からこう言われたのだ──
『向こうが、500万以下を提示して来たらそのまま受けましょう』
『大丈夫なんですか?』
『あまり減額させて、後々新たにトラブルになるよりは良いと思います』
『それより少し上だった場合、どうします?』
『その時は……サインを決めましょうか』
『え?』
『汐見さんがその額で十分だと思ったら、拳を胸に当ててください。ダメだと思ったら、人差し指を下に向けて同じように胸に当ててください。そうすれば、持ち帰って後日、交渉を重ねます』
汐見は拳を胸に当てた。
それを確認した池宮は、ふっと苦笑いして志弦と大石森に向けて言った。
「わかりました。それでお受けしましょう」
ほうっ、と大石森が小さく安堵の吐息を出したのが場にいる全員にわかった。




