153 - 決戦の日(4)ー 不倫の慰謝料 ー
「彼女とは友人としてメールなどのやりとりはしてます。ですが隆と結婚後は、そもそも物理的に会ったこともありませんから。ご心配なく」
志弦は何か含むところのあるような笑顔で返した。
自分が不利になりそうな指摘にも冷静に切り返すところを見るに、相当頭の回転が早いと思われた。
(やはり……一筋縄では行かないか……)
どうやったらこの女性の要求を減らすことができるのだろうか、と汐見が考えていると。
コンコン と再びノックが聞こえ
「どうぞ」
志弦が汐見と池宮から視線を逸らすことなく応えた。
「失礼します。遅くなって大変申し訳ない」
扉からは、白髪の目立つ、だが、初老というには顔に刻まれた皺の少ない男性が入室してきた。
「遅いですよ、大石森先生」
「すみません、まさかこんな時間帯にここまで混んでるとは思わなくて」
「まぁ、良いです。こちらにお掛けになって」
志弦はそう言って、自分の隣にある1人掛けソファを示した。
「もうだいぶ話し込んでしまいましたわ」
「? 何のお話ですか?」
大石森がぐるりと回り込んでソファに向かうのを横目で見ながら
「こちら、の話です」
志弦が、テーブルの上にあるパンフレットを指し示す。
「あぁ……隆さんの…………」
どうやらこの弁護士も事情は全て承知のようだ。
(この人が、この会社の、この女社長の弁護士……)
池宮や汐見のようながっちりした体型ではない。
スラッとした細長い体躯に、来ている濃紺のスーツの生地が上質なのがわかるほどのもので、気品と知的な雰囲気を感じさせる。弁護士というより、どちらかというと大学教授のような出立ちだ。
「ご紹介が遅れました。こちら、当社の顧問弁護士の大石森五朗先生です」
紹介された大石森は持っていた黒い革のカバンをソファの足元に置くと立ったまま一礼した。
汐見と池宮も立ち上がり、一礼すると
「初めまして。ですね、汐見さん。池宮先生は、お久しぶりです」
「お久しぶりです。と言っても、2ヶ月前に法廷でお会いしましたね」
「別件でしたけどね」
「あれも離婚訴訟でしたね」
「縁がありますなぁ」
そこまで親しいわけではないにしろ、それまで見たことがない池宮の挑むような口調に汐見は驚いていた。
「えー、……春風紗妃さまは本日は来られないんですよね?」
「……あ、あの……」
池宮が汐見を制して代弁する。
「『春風』ではありません。現在は『汐見』紗妃です」
「ああ、そうでしたなぁ」
「……大石森先生も来たことですし、本題に入らせていただきたい」
「まぁ、そうですね。私もそうさせていただきたいですわ」
志弦も涼しげな声で池宮に同意した。
「わかりました。慰謝料の金額について異議がおありとか」
「そうです」
「なるほど。ではどの程度お支払いする予定ですかな?」
(どの、程度……)
あくまでも汐見相手に話を進めようとする大石森に、池宮は鋭い視線を真正面から投げかける。
「その前に。この慰謝料の額は吉永隆さんが三浦家への融資として希望して吉永家が出したお金。それを不倫相手だからとはいえ、損害賠償として請求するのはおかしいでしょう。そんなことがまかり通るなら、彼が勝手にギャンブルで費消した金銭すら不倫相手に請求できることになる」
一気に捲し立てた池宮に驚きつつ、汐見が双方の弁護士を見やった。
「それに加えて、こちらにいる汐見潮さんも、被害者です。吉永隆氏の。彼にも吉永に慰謝料請求する権利がある」
その場にいる全員が、ひりついた空気を感じている。
池宮の怒りのような気配を感じる主張に大石森も若干怯んでいる様子だ。
「……はー。志弦さん?」
「はい」
「この方達にどこまでお話したんですか?」
「……えーと、ほぼ全部?」
悪びれた様子もない志弦が素直に答えると、大石森が座った目で威嚇するように志弦を睨め付けた。
「……なぜ?」
「うーん……ちょっと誰かに聞いて欲しかった、のかも?」
「……遅れて到着した私も悪いですが、これでは私の職務が全うできないのですが?」
「そうですよねぇ……」
そう言いながらも志弦の表情には少し楽しげな気配があり、困惑している様子ではない。
「まぁ、でもそこからでも要求していくのが先生のお仕事でしょう?」
「……あ、あの……」
本来は当事者なのに部外者のように扱われていた汐見が
「その……お支払いするつもりではいるんです」
「汐見さん!」
「いえ、池宮先生。やはり……紗妃の方にも非はありますので」
そう言って志弦と大石森に向き直る。
「ただ、慰謝料の金額としては現実的じゃないと思っているのです。それに、他の方も、その金額を払える人はいないんじゃないでしょうか?」
先ほど、志弦は愛人3人にも同じ内容で慰謝料請求の内容証明を出したと言っていた。ということは4人に3千万の請求をしているということだ。
(4人に3千万なら、等分するとしたら750万。それくらいなら、先日池宮先生から言われた紗妃の相続した金銭でなんとか……)
瞬時にそう計算していたのは汐見だけじゃなかった。
「……おいくらなら支払えるという話なんですか?」
大石森の質問に汐見が答える寸前
「お待ちください。まずは、3千万とした具体的な根拠をお聞きしたい」
池宮がそれを遮る。
「それは通知書で通達したはずですが?」
「融資額の6千万の半額と書いてありました。ですが、そのうちの5千万は海外での不動産詐欺で溶かしたと。とすると、不倫に関して本来請求できる金額は1千万程度という話なのでは?」
(そうか! 不倫の関係で、というならせいぜい……)
だがそれは池宮のはったりだった。
不倫の慰謝料は実際の被害額ではない。
浮気・不倫の慰謝料とは【配偶者とその相手から受けた精神的苦痛に対して支払われる金額】だからだ。
「……志弦さん?」
「はいはい。とりあえず私の方から、もう少し説明させていただきますわ」
「?」
「池宮先生なら不倫の慰謝料の金額に具体的な根拠が不要なのはご存知ですよね」
(えっ?!)
「精神的苦痛の算定とは、という定義が問題ですので。ただ、一応、事実として根拠はあります」
「……」
「夫・隆が、私の銀行口座を引落口座に指定しているブラックカード。そちらから算出いたしました」
「!!」
「こちらです」
そう言って、志弦はテーブルの書類から何かを引き抜いて見せる。
それはクレジットカードの明細をコピーした書類だった。
「明細を私が管理・確認してるなんて知らなかったと思いますわ」




