152 - 決戦の日(3)
もはや汐見と池宮には言うべき言葉が見当たらなかった。
「気づいた時にはもうその会社に連絡もつかず、アメリカの商業登記(に当たるもの)を確認してもそのような会社はなかった」
はぁぁ……、と長いため息をついた志弦は、情けなさそうな顔をして
「救いようのない無能《馬鹿》だったことが分かったので、もうこれ以上、夫婦として籍を一緒にするのも嫌だと……今の総元締めに訴えました。それで今回の、離婚調停と愛人さんたちへの慰謝料請求に至ったのです」
「そ、それは……吉永家としては」
「えぇ、かなりの醜聞ですね。まぁ、私にはどうでもいいことですが」
「え?」
「私は、近いうちに、アメリカに移住するつもりですので」
「え、ええ?!」
居住まいを正した志弦は背筋を伸ばして言った。
「ここ数年、YGDC社内の組織変更で揉めていましたが、それが片付きました。今は自社ビルの建設と同時に関連会社の整理・縮小などを行っています」
「「……」」
「先日行った取締役会で世襲制を廃止することも決定しましたので、私自身はアメリカに作る予定の支社……その支社長として残りの仕事人生を捧げるつもりです」
あまりにも迅速で強靭な意思で動く女代表に幹部は舌を巻いていた。
元いた場所での人脈を存分に活かした支社の設営にも余念はない。
「会社が生き残るためには世界から広く人材を集めるべきで、狭い日本内部での世襲制にこだわっていたら時代に取り残されると。役員や幹部連中の説得に6年かかりました」
6年とは、志弦がこの会社に代表として入社してからの年月。
入社当時から志弦は自分の居場所を作るために常に尽力していた。そして、その場所は日本ではないと結論づけたのだ。
疑問が拭えなかった汐見が質問した。
「なぜ今更またアメリカに? ご家族もいるのなら、ここで暮らした方が……」
「6年前に……向こうに置いて来た、生涯を共にしたい恋人がいるので」
「え?!」
「隆との結婚を決意して日本に帰国する時に別れました。ですが、彼女は今も独身で……」
「?? ……彼、女?」
「同じ日本人ですが、シングルマザーの女性です」
「?!」
「互いに日本人であることや、異国の地で身一つで頑張っている彼女の姿に親近感など、様々な感情が湧いて……彼女の2人の子供たちとも仲よくしてました」
「「……」」
日常で女性同士での恋人というのはあまり聞くことがない。
それどころか、現役で世界的にも有名な経済雑誌に載るほどの女社長に同性の恋人がいる、という事実に池宮も汐見も度肝を抜かれていた。
汐見は恐る恐る質問してみる。
「そ、その……女性同士って……抵抗は、ないんですか?」
「? なぜ?」
「え、そ、その、やっぱり同性だと……恋人とか、あまり公然とは……」
汐見に言われ、志弦は細長い指で顎をつまんで考える。
「あぁ、……そうですね。日本では暮らしにくいと感じました」
「日本では?」
「向こうでも強烈な拒否反応を示す人はいます。でもこちらほど閉鎖的ではない。公共の場でそういう行為を想起させるようなことをしない限り、表立って否定する人は減ってきた気がします。同性の恋人がいる人口が日本より多いからというのもあるかもしれません。それに……」
どうやらその女性のことを考えているのだろう。志弦の表情には艶が出ていた。
「私は学生時代から男女問わず恋人がいましたから」
「え?!」
「あら、そんなに驚くこと?」
キョトンとした表情だと志弦はかなり若く見える。
現役の社長業をやって生気に満ちているせいか、志弦は若作りではない瑞々しさを感じる。
日本での同性愛や両性愛に対する環境を鑑みるに、志弦のような柔軟な考え方はかなり特殊かつ異例だと汐見には思われたが
「私にとって、その時その時で好きになる相手が異性だったり同性だったりするだけです。同じ人間で、犯罪になるような未成年相手にはそもそも恋愛感情やそういう欲求は抱けないですし……何か問題あります?」
「え……っと、その……」
そのサラっとした何の拘りもないような返答に、汐見だけでなく池宮も呆気に取られていた。
だが、汐見は薄い意識の下でその返答に我知らず親近感を抱き始めている。
(同じ人間なんだから…………)
汐見自身が無意識に閉じ込めていた感情をこの女性は何か問題があるのか? と言い切り、自分の中にある認識として提示した。
それに共感したくなる自分と、一般的じゃないと否定したい自分が汐見の内面でせめぎ合いを始めようとしている。
「こういうことを言うと誤解されそうですが……女性同士の方が思っていることを察しやすい……予測しやすいということもあるような気がするんですよね。お互いの意思疎通に齟齬が少ない気がします。予想した相手の行動や真意に乖離が小さいというか、悪戯に不安になることが少ないというか」
にっこりと微笑むその顔にはなんの衒いも感じられない。
(この人は……何か超越している人は……そう、なのかもしれない……そういえばあのIT企業の社長も、だったな………)
一般常識など何処吹く風、といったところだろうか。
汐見が感慨に耽っていると、志弦が
「他の方がどう思うかはわかりませんが、まぁ、一緒にいて過ごしやすいと感じたのは同性の恋人の方が多かったのは確かです」
自分の意見を述べた。それについて汐見もまた我が事を振り返る。
(たしかにそれは……紗妃といる時は、何が地雷なのかわからなくていつも不安で……でも、佐藤は……)
突然スイッチが入るようになった妻と家で2人きりになるのが辛くて、残業を引き受けるようになってしまったことにも、汐見は無自覚だった。
だが、佐藤といる時は────
志弦の発言で汐見が自分の内にある何かと対話を始めようとした時
「しかし、彼女のことが──」
池宮の冷静な声が志弦にかけられた。
(……もうスコし……カノジョのハナシを、キきたい……)
「夫、隆さんに知られたらあなたに不利なのでは?」
それは志弦の要求を崩す綻びなのではないかと疑った池宮が冷静に指摘する。
「……それは、私自身に婚姻中の不貞行為があれば、というお話ですよね?」




