144 - 覚醒(1)
闇の中、急速に浮上する身体感覚を感じて、オレはゆっくりと目覚めた。
目覚めると、オレは……泣いていた───
「ゆ、め……」
涙を拭って、仰向けのまま、寝室の天井を眺める。
(いや、夢なんかじゃない。あれは……)
「過去……だ……」
ここ10年は仕事に忙殺され、思い出すこともなかった。
(加藤……顔なんて……もう、忘れてる……)
記憶に蓋をして、感情に蓋をして、何も感じないように、簡単に動じないように
(流されない、ように……)
思い出せなかったんじゃない、思い出さないように、心に鍵をかけていた。
もう2度と、あんな思いはしたくなかった──
(……紗妃のこと、言えないよな……)
紗妃が苦しかった幼少期のことを覚えていないと言ったように、オレも、高校卒業間際の記憶は曖昧だった。
(思い出したくなかった……)
人間の心理的な防衛本能として、嫌な記憶を忘却するという作用がある。
(……加藤はあの後……どうなったんだ……)
高校の3年間、あれほど密な交友関係だったにもかかわらず、オレの記憶の中から加藤の姿が、主に加藤の顔の記憶だけが、ぽっかり抜けていた。
(大学は、卒業、したはずだ……)
少しずつ断片的に思い出してきた。
加藤は、大学野球で割といい成績を出していた。だから卒業後はプロ入り確定とまで噂されていて、だが──
(プロ野球で見たことは、ない……)
なぜか、そのことを疑問に思ったことがなかった。なぜだか。
(カトウ、のこと、コウカイしてる?)
そうだ、加藤のことを考えると、こいつらが──
(コイツラ、ジャナイダロウ)
「オレの思考を邪魔するな」
(ジャマなんか、してナイ)
(オマエニ、チュウイヲウナガシテル、ダケダ)
自分の頭の中で二重音声が響き出し、急に騒がしくなり始めた。
(ネェ、サトウは、サトウはどうするの?)
現実問題、佐藤と加藤の行動は本質的にはあまり変わらないんじゃないかと思う。
だが、過去の加藤より、今の佐藤の方に気持ちが傾くのはなぜなのか──
(サトウは、チガう、ね?)
(サトウモ、カトウモ、カワラン)
(そう、カナ?)
「……」
オレは──うまく言えないが──加藤と佐藤の行動の理由は、根本的に何かが違うんじゃないかと感じていた。
(シオミ、カトウに、コタえなかった。だからサトウも?)
こいつら、特にこの子供の声の方は、オレの無意識の、それでいて幼児のようなわがままを代弁する。
──オレの真意を的確に見抜いている。
(加藤には……あの時のオレには……応えられなかった……)
将来を嘱望されている人間を、古くからの家系を背負って立つ、同じ男である加藤を、あの時のオレは丸ごと受け止めるだけの力も勇気もなかった。
加藤の将来を思えば、その選択と決断は間違ってなかったと、今でも思う。
無力だと絶望して惨めな気持ちになりながら、オレは──
「逃げた…………」
本当は救いたかった。
加藤を助けたかった。
だけどただの高校生だったオレは──これから進学しようとしているオレたち2人で、何も持たずに逃避行したところで2人とも不幸になるだけだ──冷えた頭の中で誰かがそう囁くのが聞こえた。
今のオレならわかる。
あの時オレの中で囁いたのは、こいつだったのだと。
(トウゼンダロウ。オマエダッテ、イマノオマエガイルノハ、オレノオカゲダ)
おかげだ、などと思いたくない。
だが、オレが加藤から逃げたのは事実だった。
そしてそれを──
「佐藤には、知られたくない……」
両手で顔を覆う。
じわりとまた新しく熱いものが目尻を滑る。
逃げたなんて、卑怯な真似、オレがしていたことを知ったら、佐藤はオレに失望するだろう。
「こわい……」
(イマサラ、トリツクロワナクテモ、モンダイナイ)
(ナンで?)
(サトウガ、オトコダカラダ)
(? ナンで? オンナだったら、トリツクロう、の?)
(ケッコンヲ、ノゾムアイテナラナ)
(……ケッコンって、しなきゃいけない、の?)
(アタリマエダ)
「……そんなこと、ない…………」
(ケッコンシナケレバ、イミガナイ)
(そうなの?)
「ちがう……そういう、意味じゃない……」
オレは本格的に話し始めた2人の声と自分の思考を分別する処理を始める。
(違う……そういう意味で言われたんじゃない……)
そういうことを言われた時の状況を思い出す。
あれは──加藤の父に言われ、学校を休んで予備校に通い続けて1週間ほど経った頃だ────
体調があまり良くなかったから、久しぶりに予備校を休んで家でゆっくりしていた。遅い朝ごはん兼お昼を、ばあちゃんと食卓を囲んで食べていた時だ。
ふと加藤の家でのやりとりを一部始終見ていたばあちゃんのことが気になって聞いてみた。
『ばあちゃんも……オレに、同性と付き合うな、って言うか?』
それを聞いたばあちゃんは箸を止めて、オレの顔をまじまじと見て、そしてこう言った。
『同性と……そうだねぇ……私たちの年代だと、そういうことを言う人の方が多いんだろうねぇ』
『……ばあちゃんは?』
『あたしは……お前が好きな人と結婚してほしいと思うよ』
ばあちゃんがさりげなくその問題の核心を避けたのがわかった。
哀しげに笑ったばあちゃんは顔の皺と白い頭髪に相応の年輪を感じさせる。この年までオレのために短時間とはいえ、毎日働いてくれるばあちゃんにはいつも感謝している。
そのばあちゃんにまでそういうことを言われたら、オレは正直、キツいだろうと思った。
『結婚して……そうだねぇ、ひ孫の顔を見てから死にたいねぇ』
『ひ孫って……』
『……相手が同性だと、子供は作れないさね……でも……どうにかそういう方法があれば、ねぇ…………まぁでもね』
そう言ってばあちゃんはオレに話すように食卓に座り直して続けた。
『好き合って結婚した男女でも、子供を授かるかどうかはわからないんだ。神様が決めることだからね』
遠い目をするようにばあちゃんが言った。
『結婚して子供を持つことだけが人生でもない。……私の同級生にね、子供がいない夫婦がいるよ。大変な思いをしたって笑ってた。でも今は夫と2人の人生も悪くないって思うわ、って言ってたんだよ。そう言えるようになったのは最近だけどね、ってさ』
オレは驚いた。ばあちゃんはもう80に手が届く年齢だ。その同級生ってことは──
『結婚して子供ができても幸せじゃない夫婦もいる。子供がいたところで子供を虐げる親もいる。なんだったら夫に毎日殴られて一緒にいる妻もいる。だからね……』
ばあちゃんが、テーブルにある湯飲みからお茶をすすった。
『そうじゃない人を……自分が一緒にいて安心できる人、この人といると癒される、満たされる、幸せを感じる、そういう相手を選ぶのが、正解さね』
『……』
『少なくとも、その人といて不安になるようなら、その相手は、間違い、だね』
ばあちゃんが懐かしむように言った。
『まぁ、あたしは、じいさんといて癒されることは少なかったし、不安になることもあったけど、少なくとも安心感があったから死んだあの人と一緒になったんよ?』
『でも……父さんと大喧嘩して、父さんが家を出たって』
『あれは2人とも悪い。……和解しないまま2人ともおっ死んじまったのはバカだよねぇ、とは思うけどさ』
そして、オレの目を真っ直ぐに見たばあちゃんはこう言ったんだ。
『いいかい。潮。自分の心が正しいと思う方を選ぶんだよ。それを選択して前に進むんだ。世の中にはね、結婚することが1番の幸せだとか、子供を持たなければ生きてる意味がないって言う人もたくさんいるけどね。そんなのどうだっていいんだ。あんた自身が安心して幸せと思えるかどうか、それをあんた自身が間違えずに感じられるか、ただそれだけなんだ』
『……』
『その先にどれだけの苦しいことや辛いことがあっても、自分で選んだ道なら後悔は少なくてすむ。間違わないこと、間違った道だと感じたらすぐに引き返すこと。これが重要さね、わかったかい?』
『……わかった……』
かすかに笑ったばあちゃんが、その話の最後にオレに送った言葉はこうだった。
『思ったよりも人生は短いんだ。自分の好きなことをしてる時間しか、ないんだよ。自分の本当に好きな人といる時間を、たくさん……そういう時間を作るんだよ』
(そうだ。ばあちゃんは、オレに結婚しなさい、とは一言も……言わなかった……)




