140 - 追憶(9)ー 断罪される恋 ー
オレは一瞬、状況が飲み込めず、固まった。
それなのに加藤は、父親に促されるまま、父親の隣のソファに腰掛ける。
加藤の父親がにこやかに対面している祖母の隣を手で指し示して言った。
『潮くんは、おばあさまの隣へ』
有無を言わさぬ加藤の父親の圧を感じながら、オレは目を見張ったまま、指示通りばあちゃんの隣で加藤の父親の正面に座った。
横にいるばあちゃんは、怯えたまま、横にいるオレに縋るような視線を送ってくる。
オレは、ばあちゃんにしか聞こえないような小声で囁いた。
『ばあちゃん……なんでここに?』
『加藤さんに……お話したいことがあるから、って車に乗せられて……』
心当たりは一つしかない。
オレは左斜め向かいに座った加藤を見やる。
手を組んだ両肘を両膝に付いて前のめりになり、対面したソファの間に置かれたローテーブルに視線を落としている。
応接間にいる4人で、終始にこやかにしているのは加藤の父親だけだった。顔面上はニコニコしていながら、その目は笑っていなかった。
オレの顔をじっと睨め付けるように見ている加藤の父親の視線に不気味なものを感じて、背中に冷や汗が流れていく。
少しの沈黙が流れ、コンコン と応接間のドアがノックされ、加藤の母親がオレと加藤の分の飲み物を持ってきた。
加藤の父親が、ソファの前にあるローテーブルに置かれたその二つのコップを見る。
『飲み物だけか……茶菓子でも出しなさい。本当に気が利かない家内で、申し訳ない』
用意されたセリフのように言った加藤の父親の、張り付くような笑顔に不気味さを通り越し、恐怖を感じた。
これほどまで場を圧倒する空気と気配を感じるのは初めてだった。
生活指導担当の鬼体育教師の比じゃないほどの威圧感に気圧され、世の父親が全員こうであるならオレは迷わずにその世界を飛び出すだろうと思った。
加藤を見ると、やがて追いつくほどの父親に負けない程の体躯を、これ以上ないくらい縮こまらせ、ずっと沈黙を守っている。
『お、お待たせし、ました……』
加藤の母親が、カチャカチャと小刻みに震えるような音を立てて盆を持って入ってきた。
盆には4つの皿が置かれ、その上にそれぞれチーズケーキのようなものが乗っている。「のようなもの」とは、緊張のあまりよく見えてなかったからだ。
母親が応接室を出ていこうとすると加藤の父が制した。
『ああ、佐絵子。君もここにいなさい』
『! ……は、はい……』
その会話のやりとりは夫婦というにはあまりにも他人行儀すぎるものだった。
加藤の母は、遠慮がちに加藤の隣にある簡易ソファに座る。
オレは加藤を窺うが、ずっと下を向いたまま視線を合わせるどころか、顔をあげてもくれない。
この状況を一刻も早く説明して欲しいのに、加藤は沈黙を守ったまま、オレに釈明も弁明も弁解もしてくれない様子だった。
にこやかに微笑む加藤の父親の表情。その上に乗った胡散臭さがピークに達して
『潮くん。ここに……呼ばれた理由が、わかっているね?』
オレはどう答えれば良いのかわからず、加藤を見る。
だが、加藤は俯いたまま何も語らない。
先週の金曜日と4日前の月曜日のような饒舌な表情も言葉も、見えないし、聞こえなかった。
加藤が今の状況になるのをわかった上でオレを呼び出しているのだとしたら、口裏くらい合わせてくれてもよかったはずだ。
その疑念と不信がオレの胸に渦を巻き、加藤の父親を無視して加藤自身に詰問したいと思っていた。
だが、実際問題、現実に今、そういうことができるはずもなく。
『私はね……恋愛というのは個人の自由だと思っているんですよ』
『!!』
父親が歯に物が挟まったような言い方をした。
横にいる祖母は何が始まったのかわけがわからず狼狽えている。
『他人であればね。……ですが、それが息子の、身内のこととなるとね、放ってはおけないじゃないですか』
頬が盛り上がり、表情筋は笑っているのに、目も口も笑っていなかった。
『あ、あの……それが、うちの潮とどういう……』
恐る恐る、ばあちゃんが加藤の父に問いかけると
『ああ、汐見さんはご存知ないのですね』
『なにが、でしょうか……』
加藤の父親は大仰にコーヒーを飲み干すと
『うちの息子が、付き合ってるそうなんですよ。そちらの』
今度こそ、睨むように、蔑むように、オレを見て言い放った。
『潮くんと』
『え?! はっ?! う、潮とっ?!』
『ええ、そうです。潮くんとです』
『えっ? な? なに?! う、潮?!』
狼狽するばあちゃんと、冷静にオレたちを見ている加藤の父親との間に、激しい温度差を感じた。
それにも増して──
父親のその言いようを黙って聞いている加藤にオレは一抹の寂しさを感じていた。
『私たち親子は、7年前に一度この家を出たんです。主に私の仕事の都合だったんですがね』
腕を組んでふんぞり返り始めた加藤の父親は、オレをじっと睨んでいる。
『元々私は転勤で全国を転々としていましたし、家族は常に共に暮らすべきだと思っていましたので、その度に転校させていました』
加藤は言っていた──地元のここから離れたあとも1度、転校したと。
『私の方針に家族を付き合わせているのでは、と思ったこともありました。ですが、私は子供たちを正しく教育するために、子供が親と共に暮らすことは最も重要で必要なことだと考えているのです』
父親が同じ国家公務員だった友人がいたこともあり、その友人によると父親が転勤する度に転校するのは珍しいと言われた、と。転校は本当に嫌だった──とも。
『子供にとって、親というのは必要不可欠なものです。それは経済的なものだけではない。親が注ぐ、子供への愛情が重要なのであって……』
滔々と語るその言説の出どころはわからなかったが、加藤の父親の言わんとするのは、つまるところ
【子供はいついかなる時も親と共に暮らすべきであり、それが親にとっての責任であり、その責務を自分は果たしている】という美しい建前と
【親として子供を監視しながら教育することで、自分が最も理想とする従順な傀儡を育成する】という本音が透けて見えた。
父親の演説を黙って聞いている加藤は何かに耐えているように見えた。
俯いた表情は見えないが、その肩が小刻みに震えている。
オレは加藤の父親の話を脳の半分だけで聞いて処理し、残りの半分は加藤の気配を感じ取ることだけに集中していた。
『耕史は、大学野球の推薦を受けて大学に行くんです。今、そんなことをしてる暇はない』
『……』
『潮くん、それはわかっているだろう?』
今、加藤の父親があり得ない言っている「そんなことをしてる暇」が【本当の問題】だとすれば、加藤の親が『そのうち連れて来なさい』と言っていたという京太郎の話と筋が通っていない。
つまり、あれは【女子高生だったら】連れてこい、という意味だったのだ。
『この家に戻ってくることになったのも、耕史が今の高校に通いたいから、と初めて自分の意思を貫こうとしたからで……』
初恋の人と──「高校はその子と同じ学校通うから地元に戻る」と言ってたのも───
『潮くんとは、親友として仲良く過ごしているものだと思っていたんです、私は。ですが、こんなこと……』
(こんなこと、ってなんだ……)
『汐見さんなら、おばあさまならわかりますよね? こんな、非生産的な……男同士で付き合うなんて、でしょう?』
不意に、加藤の「男同士で付き合えるわけないだろう」という口癖がオレの脳裏に木霊した。
『別にね、私とは無関係の男性同士が付き合うのは問題ないのですよ、勝手にしていただければいい。ですが、自分の息子がそうだと知ったら……汐見さん、あなただって止めようと思うでしょう?』
『う、潮??』
(なんで、その同意を、自分の固定観念をオレの身内に押し付けようとしてるんだ……)
隣にいるばあちゃんはオレの顔と加藤の父親の顔を交互に見ながら、狼狽えている。
『初恋……それも小学生の頃の恋心なんて、友情の延長みたいなものです。耕史は今、受験や進学の不安もあって勘違いしているだけなんですよ』
(だから、なんで加藤本人じゃなくて、あんたが加藤を代弁してるみたいになってんだ!)
加藤の父親の言葉に、加藤の肩が震えたまま、ギリギリと握りしめている指が白くなっているのが見えた。
高圧的な態度の加藤の父親は、まるで地獄の審判を下すかのように、オレに向けて吐き出す一言一言が目に見えない槍となって──
オレではなく、息子である加藤を刺し貫いていた。
数々の槍が突き刺さった加藤の【心】が、今、目の前で大量の血を流しているのに、この父親は気づかない。
母親に至っては、盆を胸元に抱きしめて青ざめた表情をしたまま、夫である加藤の父を見つめているだけだ。
オレは──【うしお】という名前を持ったオレは、加藤から【まだなんの言葉も、もらっていない】
加藤が「みう」にこだわっている理由も聞いていない。
だが、この父親の発言の端々から様々なものが見えた。
加藤はこの家に、独裁者に縛られて、血を流しながら耐えてきたのだ。




