136 - 追憶(5)
◇◇
気づいたらオレは、京太郎に付き添われてヨーロピアンなリビングのソファに横たわっていた。
意識はあるものの、体は重いし瞼は開かない。
見えないのに意識があることに気づいたのは、近くで誰かが話してる声が聞こえたからだ。
事態が掴めていなかったオレは声を殺して数分間聞き耳を立てていた。
『~~~だから! 早く帰ってこいって! なんなんだよ、もう!』
意を決して震える声帯に力を込め、まだ開かない瞼を閉じたまま京太郎に声をかけた。
『京……』
『!! 潮さん! 気づいた!? よかった!』
『まだ、ちょっとダルい……今、何時……』
『っと、今5時だよ!』
『そ、っか……オレが……こうなってから……どれくらい時間、経ってる?』
『んーと、1時間くらい? ってかさ、何があったの?! 兄貴、潮さんを追いかけて降りて来たのに、すぐ後ろから来て何も言わずに家出てったし!』
『!』
『何なんだよもう!』
(加藤は、今、いないのか……)
『それにしても、潮さん結構重いんだね。ここまで俺1人で運ぶの大変だったよ』
『すまん……』
『まぁ、良いけど……兄貴と、喧嘩したの?』
『……』
なんと答えるべきか迷った。というより、答えようがないと言う方がしっくりくる。
(アレは、加藤というよりも……)
『……2人のことだから、俺が根掘り葉掘り聞くのもどうかと思うけどさ……』
『……喧嘩……』
『そうじゃないの? 襟元のボタン千切れて開いてるし、怪我? してない?』
『?』
『ほら、なんか、赤くなってる』
そう言われて京太郎に指さされた胸元を見たくても首が動かない。横たわったまま、うっすら目を開けると心配そうな顔をした京太郎に覗き込まれた。
『えっ、と。ちょっと待って、鏡持ってくる』
程なくして京太郎が掌大の鏡を持ってくるとオレの目の前に差し出して見せた。
そこには。
第一ボタンから第三ボタンまでが千切れた襟元が丸見えで──鎖骨から5センチ程下の胸の谷間に、赤いアザみたいなものができていた。
(これ、は……もしかしなくても…………加藤がオレの胸元に付けた……)
オレ自身、意識を失う前に起こったことがリアルには感じられなかったがそのアザ──キスマーク──が現実に起こったことだと訴えていた。
(オレは……加藤に……)
考えたくないが──加藤に何か盛られて──そういう欲望をぶつけられたのだ────
(勃ってた……)
明らかに恣意的に、加藤はオレを──
(なんで……なにが……どうして……)
心配そうな顔をした京太郎に
『潮さん、大丈夫? まだ顔色悪いけど』
『っあぁ、大丈夫。ちょっと眩暈がしただけだ。睡眠不足だろう……』
(……京には……気づかれてない……)
気づかれていないことに安心すると、京太郎が再度オレの顔を覗き込んできた。
『受験生ってそこまでしないとなんだ……兄貴と違って潮さん、受験組だよね』
『あぁ……あいつとは違う大学だけどな……』
『でも近いんでしょ?』
『そうだな……』
まだ何か、体に普通じゃない重さを感じるが、ひとまず起きあがろうとソファの背に手を掛け力づくで上体を起こす。
近くに他の誰かがいるのに寝そべるのは失礼だという教育を受けて来たので、ほぼ反射だった。
『あのさ……こんな時になんだけど……』
上体を起こしたオレに、京太郎が遠慮がちに話しかけてくる。水が入ったコップを差し出しながら。
『俺、潮さん、信用してるから……聞きたいこと、あるんだけど……』
『……なんだ?』
意識を失う前のことを頭から追い払いたかったオレは、京太郎の質問に答えようと、ソファの背もたれに背中を預けて座る体勢に正す。
『兄貴、今、初恋の人と付き合ってる、って言ってたんだけど……』
『初恋?! そうなのか?』
(加藤の初恋? 今、付き合ってるってことは……今の彼女ってことか……)
そんなこと初耳だった。なんで代わりとか
(あんなこと……)
『それなのに……なんか、最近、いっつも険しい顔しててさ……』
『?』
『こんなはずじゃなかった、とか色々……1人でつぶやいてることがあって……って、あ! 盗み聞きしたわけじゃないよ。ただ……兄貴の部屋、俺の隣じゃん。ベランダに出てそんなこと言ってるのが聞こえて……』
『いつからだ?』
『? なにが?』
『いつから「初恋の人」と付き合ってるって?』
『あぁ、部活引退してからすぐって。結構続いてるだろ、って言ってた』
『?? 続いてる?』
『うん。部活やってる間に付き合ってる子はだいたい1ヶ月しないうちに別れてたみたいだけど、今付き合ってる子とは3ヶ月続いてるって』
『? 3ヶ月?』
『うん。あれ? 潮さん知らないの?』
『……3ヶ月も付き合ってるってのは……』
オレが考えただけでも、引退前も引退後もあいつが付き合った彼女達は誰1人1ヶ月も続いてないし、そもそも今の彼女は引退後から通算4人目の彼女のはずだ。
(なんでそんな嘘を……)
『……その彼女、見たことあるか? 連れて来たりとか……』
『あー、それはない。だって、うち、ほら母さんが嫌がるから……潮さんくらいだよ。家に出入りするの黙認されてる人って』
『そうか……』
『そのうち連れて来なさいって母さんも言ってたけど、兄貴、変なところで意地っ張り? だからさ。だから、家族は誰も見たことないんだ』
『……今、付き合ってる女子は知ってる。けど、本人が言わないのにオレから言うのは……』
『あ、それはいいんだ。ただ、上手くいってないのかな、って』
弟が心配するほど、加藤の様子がおかしいということはさっきの件も、何か原因や理由があったのかもしれない。
そう思い直したオレは、ふと思いついて京太郎に聞いてみた。
『京……お前、彼女の名前、知ってるか?』
『家族全員知ってるよ! 小学校からの初恋なんだぜ!』
『そんなに?』
興奮気味な京太郎が前のめりになる。
『そう! ほとんどわがまま言わなかった兄貴が、中学卒業する直前にさ! 高校はその子と同じ学校通うから地元に戻る、っつって! それ聞いた親父が、子供1人を家に置くわけにいかん、とか言い出して家族全員でこの家に戻って来たんだ!』
『……そうなのか……』
嬉々として話すその京太郎の顔色に思わず笑みが零れる。
だがその一方で、加藤への不信感が高まっていく。
加藤が今付き合ってる「菜摘」って女子がそんな昔から繋がりがあるようには思えなかったからだ。
(オレに「別れたら代わりに……」とか言ったのはなんだったんだ?)
胸中にいろんなものが込み上げていたオレは京太郎の話を聞いて胸に何かがつっかえたような気がした。
『【みう】って名前なんだって』
『は?!?!』
(?! 【みう】?! 初恋?! どういうことだ?!)
『可愛い名前だよねぇ。上の名前は絶対に教えてくれないけどさ、その子の話をする時だけ兄貴、うれしそうな顔するんだ』
そう言う京太郎も嬉しそうだ。
だが、オレは──足元から地面が崩れていくのを感じていた。
(あいつが今付き合ってる彼女の名前は「なつみ」だったはずだ……!)
『うちの親父、頭固いじゃん。俺たち兄弟にも同じような規範とか規律とか、とにかくうるさいんだよ。窮屈だよな、って兄貴とよく話すんだけどさ、今はその子と毎日一緒だから楽しいって』
『!』
何も言えなかった──そもそも加藤から何も聞いてない。
なんであいつがオレと2人きりの時だけそう呼ぶのか、やめろと言っても聞かないのか、それをちゃんと問い質したことはない。
高校になった今では、加藤が戯れでそういうことを言ってるとわかっていたから、そこまで不快に感じなかった。だが───
(初恋、って……)
『兄貴はさ、今では周囲に優しいとか頼りになるとか言われてるけどさ、昔は全然違っててさ。その子のおかげで変わったんだよな』
『……どういう意味だ?』
『兄貴、ジャ○アンみたいな性格だったから、俺も波もしょっちゅう泣かされてたんだけどさ』
苦笑しながら京太郎が思い出を語る。
『学校でも小学校低学年の頃から手が付けられなかったんだって。友達泣かすのも頻繁で母さんしょっちゅう学校に謝りに行ってたって』
『そ、うなのか……』
『それがさ、その初恋の子に構って欲しくて何度も名前を呼び捨てで呼んだら、めっちゃ怒って喧嘩したって』
(……呼び捨てじゃない……あの時、加藤は………)
当時のくだらない喧嘩の発端を思い出す。
『名前に「しお」が2個も入ってるなんて変な名前~! 「しお」をとったらお前【みう】じゃんか! 女みて~! みう~! 汐見じゃないな! お前はみうだな! おいみんな! 今日からこいつのこと、みうって呼ぼうぜ~!!』
今考えても最高にくだらない。だが、そのあとの数日間、加藤の取り巻きたちが一斉にオレを【みう】と呼ぶようになったせいでイライラがピークに達していた。
そんな中、体育の授業でドッジボールをやることになり、その時に加藤が【みう】を連呼したことからブチ切れたオレは、加藤と取っ組み合いの喧嘩になった。
いきなり始まった小5男子2人の大喧嘩に、仲裁に入った担任も手こずるほどだった。双方軽い怪我をしたが、加藤が親を呼ぶのを極端に嫌がったため、小学校で起こった小さな事件は担任の裁量で手打ちになって終わったのだ。
当時を知っている人間は高校ではあまりいないが、オレが鬼の形相で加藤に飛びかかって行ったのを見て、その場にいた全員が『いつもは無反応の汐見は怒らせたら超ヤバイ』と暗黙の了解になったらしい。
加藤が学年の途中でいきなりいなくなった時、喧嘩が原因だったのではと懸念したが、もう絡まれることはないんだ、とホッとしたのを覚えている。
『その子に、「乱暴者は嫌い!」って言われて、めちゃくちゃ反省したみたい。その後すぐ、親父の仕事の都合で引っ越しちゃったからさ。引越し当日になって泣きながら、謝れなかった、謝りたかったって言ってた。俺も小学生だったけど兄貴が泣いてるの初めて見たからびっくりしたよ』
『……』
確かにそんなことを言ったが、違う。『お前みたいなやつ、大っ嫌いだ! どっか行っちまえ!』だ。
『一緒の高校に通えるようになって、すぐ和解したって言ってたよ』
『……和解……』
高校に入って同じ野球部に入部して数週間後。
加藤はもじもじしながらオレに、小学生の時に喧嘩した相手だって明かして、謝ってきた。「あの時はごめん」て──
『でも付き合うまでこんなに時間かかるなんて、兄貴らしくないよな~』
『……』
さっきのことといい、京太郎の話といい──俺は混乱していた。
何がどうなっているのか、わけがわからない。
家族には「引退して3ヶ月も続いてる彼女がいる」と言い、今現実に付き合ってる彼女の名前は「なつみ」なのに、家族には「みう」だと伝えている。
(どういうことだ?! なにがどうなってる?)
混乱していると玄関が開く音がして、オレは一瞬ビクッとした。
『ただいま~。あぁ、疲れた……』
加藤じゃなく、加藤の母親の声だった。安心したオレは身支度を整えようとゆっくり立ち上がった。
『え? 潮さん、大丈夫?』
『あぁ……またな』
『うん』
朦朧としながらも加藤の部屋からリュックを持ってきた自分に感謝する。
『あら、潮くん来てたの?』
『うん、もう帰るって』
『そう……』
『お邪魔しました』
オレは社交辞令の笑顔を貼り付けて加藤の母親に会釈しながら玄関に向かった。
『あ、ねぇ! 兄貴、もう帰ってくるはずだけど、いいの?』
『……学校でな、って伝えといてくれ』
『了解!』
笑顔でOKサインをくれた京太郎には悪いと思ったが──
もしかしたら、今後、加藤と今まで通り友達付き合いできるかどうかわからない、と暗い思いを抱えながらオレは加藤家を後にした。




