126 - 伝えるべきこと(Side:汐見)
──── Chapter06 ー 汐見視点(2) ────
佐藤の家に辿り着くまで、オレたち2人は終始無言だった。
玄関に入ってすぐ右にある部屋を使わせてくれると言っていた佐藤が、持っていた結構な量の資料が入った紙袋をその部屋に置いた。
「これ、この部屋に置いとくぞ」
「ああ、ありがとう」
オレが何を考えているのか、佐藤には検討がつかないだろう。
佐藤に伝えるべきことを道中で考えていたオレは、頭の中で整理しつつシミュレーションしていた。
(何から伝えるべきか……)
佐藤に衝撃が少ない方から伝えていった方が頭には入りやすいだろうな、と思いながら見ていると、佐藤がオレに声をかけた。
「喉乾いてないか?」
「……乾いてる」
「ちょっと待ってろよ」
キッチンでコップを準備している佐藤を眺めながら、オレは今すぐこのでかいソファに寝そべりたいのを我慢して姿勢良く座っていた。
(本当は、お前に言う前に、紗妃に言うべきだったよな……)
伝えられなかった悔恨の念を胸に、紗妃の姿を思い浮かべる。
(オレの決断が早ければ、紗妃も……)
「これ。冷たくないけど」
「その方がいい。夜から冷たい飲み物はよくないしな……」
「だな、怪我にも……痛みは?」
「大丈夫だ」
本当に心配そうな顔をして覗き込んでくる佐藤の表情に、オレは思わず安心する。
2人してソファに並んで座り、コップの水を飲んでまた黙ってしまう。
(オレから話さないと……佐藤はなんの話か、わかってない……)
佐藤の横顔をチラ見すると、コップを両手で包み込んだまま考え込んでいる様子だった。オレが話し始めるのを待っている。
持っているコップに視線を戻し、決意を新たにする。
(お前に伝えて、紗妃にも……今の紗妃じゃない、『オレが知ってる紗妃』にも、伝えなければ……)
隣にいるオレが何を言い出すのかわからずに、佐藤は緊張している様子だった。
佐藤に聞こえないくらいの浅い呼吸を繰り返し、電源が入ってないテレビの真っ黒い画面を見つめた。
「……本当は……もっと早く、紗妃に伝えるべきだったんだ」
横にいる佐藤がビクっとする。
メガネ越しにテレビ画面の一点を見つめながら話し始めるオレの横顔を、佐藤が見ているのがわかる。
「……いや、伝えようとしたんだ……」
オレは思い出していた。
紗妃とゆっくり話し合おうと思っていたこと。
自分と2人になって真面目な話をしようとすると毎回紗妃に避けられていたこと。
(専門医についてもらって、紗妃の心を安定させてから話そうと思ったんだ……)
内容が内容だけに、紗妃の不安な気持ちを助長させるのは良くないと考えていたから──
「だが、その度に紗妃が……」
今ならわかる。
不倫していた紗妃も、オレどころか、自分とすら向き合いたくなかったのだと。
(オレに隠れて不倫していた紗妃と……紗妃に黙っていたオレと……どっちが……)
「……これは言い訳だな。オレが意気地なしだっただけだ。………少しでも長く紗妃といたかったから……」
その言葉は本音だ。
紗妃の嬉しそうな顔、楽しそうな顔。
その全てを隣で見ていたかった。
自分にない美しい造形を持つ、その顔を眺めている時間が、好きだった。
(でも……居心地は悪くなっていったよな……)
日に日に増える夫婦一緒に無言で過ごす時間。
一緒にいたいのに、一緒にいると苦しかった。
無言でも居心地がいいと感じる佐藤とは違い、紗妃との無言の時間はオレの神経を尖らせた。
佐藤がくれる無言は、ここに居てもいいという安心感だった。
紗妃と過ごす無言は、数分後に何が起こるかわからない緊張感で───
「オレ、お前に言ったよな……家族が欲しいって」
「あぁ……」
(だからこそ、お前は……オレを諦めたんだろう……?)
「それ、撤回するよ……」
「え?!」
(この事実は、お前も知っておくべきなんだろう……)
今度こそ、オレは大きく深呼吸して。
そして、ゆっくりと──吐き出すように告げた。
「オレ、無精子症だったんだ……」
「?! ?!」
「笑えるよな……あれだけ子供が欲しいって言ってたオレが、さ……」
「!!」
本当に、笑える。
その事実を知った時、オレは心の中で呪いの言葉を吐き捨てた。
オレには生きてる価値がなかったのか。と──
「……紗妃に言わないとな……ってずっと……思っ、て……」
死ぬわけじゃない。たかが無精子で、と思うかもしれない。
だけど、その事実は、オレにとって恐ろしいほどの衝撃を与えた。
祖母にガンの宣告をされた時と同じくらいの打撃だった。
オレの中にある何かが、壊れて──オレを責め立て始めた。
「そ、れは…………いつ……」
「……今年に入ってから……紗妃に断られるようにな、って……」
佐藤が、慎重に言葉を選ぼうとして、言葉少なに質問した。
だから、オレから話さない限りこの会話はきっと続かない。
「元々……オレたちは……少なかったから……それで……オレ1人で……色々調べて……」
「…………」
【そういう日】をわざわざ設けるような夫婦は、夜の営みの回数が少ないなんて周知の事実だろう。夫婦の双方か、あるいはどちらかがそういう行為を避けていれば、自然とそうなる。
(そもそも紗妃は……)
つい先ほど訪れた池宮弁護士を思い出していた。
事務所を出た直後に佐藤から言われた時としか思わなかったが──池宮先生は、オレと雰囲気が似ている、らしい──紗妃はきっと、彼の面影をオレに重ねたんだろう。
どうして本人に何も告げなかったのかはわからない。
だが、それなら、オレとの行為に積極的じゃなかったのも頷ける。
(オレが……逃げ道にならなかったのも……原因の一つ、だろうな……)
そして、止めを刺すように、検査の結果がオレの中にある蟠りの一つを打ち砕いた。
「……機能としては問題ない、らしい……ちゃんと射精もするし……」
「……」
「だけど……その、精液の中に……精子が無い…………」
その事実は、思った以上の破壊力でオレを絶望させた。
「……はは……おかしい、よな……あれだけ……オレ、は……」
「……」
言いようのない罪悪感。
男として無能であることをコイツにだけは知られたくないと思っていた佐藤に告げたことによる恥ずかしさ。
その両方で、オレは今すぐ消えてしまいたかった。
佐藤の視線から逃げるように徐々に視線を下げていく。
この事実を最初に伝えることになるのが佐藤だなんて、思わなかった。
(本当は、紗妃に……一番最初に伝えるべきだったのにな……)
「さ、最近は、治療で治ることもあるって!」
「……ダメなんだ……」
「え?」
「オレのは治らないんだ……」
「!!」
紗妃には言えなかった。
オレに、子供を作る能力がないなんて────
その事実を紗妃に告げて、夫婦でいられなくなるのが怖かった。
紗妃とは『【家族をつくりたい】という約束』だけで夫婦でいられるんじゃないか、と思っていたから──それだけで一緒にいるんじゃないかと──そう感じていたから。
懺悔するように、自分の中だけに秘めていた事実を開示したオレは、俯いたまま目を閉じ、佐藤に背を向けた。
佐藤の隣で1人、冷たい闇に包まれていくような重苦しさを感じる。
すると────
── 不意に、オレの身体中を、温かい何かが包み込んだ。
(?!)
一瞬、何が起こったか分からず、オレは固まった。
だが、目を開いて認識する。
(後ろから、抱きしめられてる……! ……佐藤、に……)
「っさと……!」
「……汐見、俺で、何か力になれることはないか? ……俺が……」
オレ以上に打ちひしがれ、縋り付くようにオレを抱きしめる腕に力を込める佐藤の感情が、流れ込んでくる。
左耳に触れそうなほど近くに感じる、佐藤の吐息。
紗妃とは違う、自分より大きな体を背中に感じ、接している部分から、じんわりと暖かい何かが伝わってくる。
(……そうだ……もうわかっている……)
オレ【を】必要としているのは誰なのか。
オレ【は】、必要ないと言っているのは誰なのか。
でも。
オレ【が】必要としてるのは誰なのか……まだ、わからない……
久しぶりに感じた他人の体温。
それが紗妃ではなく、佐藤であるという事実。
オレよりは体温の低い佐藤の、それでも暖かさを感じるぬくもりが……泣きたくなるくらい嬉しかった────
(そうか……そうだよな……お前は……でもオレは…………)
佐藤が抱きしめるその腕に、オレは──薬指に銀の指輪が冷たく光る──自分の左手を重ねた。
「ありがとう……佐藤……だが……」
重ねた腕から、じんわりと伝わってくる佐藤の体温。
身体中が包まれる柔らかい何かを感じながら、オレはゆっくりと佐藤の腕と手を解き──佐藤を真正面から見据え──
「汐見?」
驚いたような佐藤の表情に、オレは哀しく笑うしかなかった。
佐藤の気持ちに気づいても、オレは佐藤に応えられない。
(コタエチャイケナイ)
(お前はオレとは違う)
ローテーブルの下に置いてあった自分のボディバッグを引き寄せると、前面ポケットに手を突っ込んで一枚の紙切れを引っ張り出した。
(お前の中にあるその感情。それは、お前の【本当】の気持ち……じゃない……)
「? 汐見?」
「佐藤、これ、説明してくれるか?」
オレは、ローテーブルに一片の【写真】を置いた。
「?!!」
その【写真】からは、佐藤の真っ直ぐな気持ちが伝わってきた。




