121 - 弁護士事務所(11)
それは一瞬だった。
しまった、という顔をした池宮が咄嗟に片手で口元を押さえた。
無論、佐藤と汐見は、池宮のその表情を見逃さなかった。
「まさか……」
はぁ……とため息をついた池宮が、観念したように呟いた。
「まぁ……故人ですし……もう時効でしょう……」
悲しげな、そしてそれ以上に寂しげな顔をした池宮がいた。
その顔は弁護士という外面を脱いだ、1人の男だった。
「……美津子さんは私の初恋の人なんです」
「「!!」」
「って、ちょっと待ってください──」
思わず佐藤が話しを遮り
「あの、美津子さんとあなたとは年が……」
「はは。そうですよね。30近く年が離れてました」
佐藤と汐見が呆気に取られているのを、苦笑しながら確認した池宮は、諦めたように自白を始めた。
「でも、美津子さんは母と10くらい年下でしたし若く見えたので、違和感はなかったんです。……息子同然の青二才に告白されても困るだろうと思いましたし……世間的にも問題がありそうでしたから……想いを告げたことはないんですけどね……」
異性間ではあっても30歳近く歳が離れて、さらには女性が年上で……と佐藤と汐見はあまりにも自分とかけ離れた池宮の恋愛感情に唖然としていた。
「美津子さんの事情はほぼ把握していました……それでもなお明るく朗らかに軽やかに生きている彼女をとても尊敬していました。母も私を女手一つで育ててくれましたが、美津子さんの状況はさらに過酷でしたから…………」
誰にも言えなかったその告白を、関係ないとは言え、誰かに聞いてもらいたかったのだろう。池宮は美津子への初恋の慕情を語った。
「最初は同情だったと思います。ですが、気がついたら彼女と会って話すのが楽しくて、嬉しくて。母以上になんでも話せる太陽のような存在は、突然母子家庭になって何事にも消極的になった私を勇気づけてくれました。また、大卒だった彼女の知識は私を外の世界に連れ出してくれた」
ぽろりと口をついてしまった胸の内にあった想いを表出したことで、池宮の中にある強張りが解けた。
「弁護士を目指したのも、彼女が、紗妃が生まれるまでは弁護士の元で『パラリーガル』という仕事をしていた、と聞いたからです」
『パラリーガル』とは、弁護士の業務の補助を行う職員の中でも、専門性の高い法率業務を取り扱う職種である。
憧れていた女性が目指したもの。
宝石のような娘を手に入れる代わりに手放してしまったもの。
池宮はそれら全てをこの目で確かめたいと思った。
「尊敬から憧れ、憧れから思慕に変わるのに、時間はかからなかった。そんなものでしょう、誰かに対する恋心というのは」
秘めていた思いの丈を本人ではない他人に、しかも故人となってしまった本人の娘婿に吐露した。
「とても……後悔しています。たとえ、応えてくれることはなくても、彼女が生きている内に、伝えておけばよかった。本人に、知っていて欲しかったと……」
その池宮の独白は槍となって佐藤の心臓を刺し貫いた。
一方の汐見は
(世間体とか…………男女でもそんなに歳が離れて、恋愛感情、を……)
自分の中にある知見と照合して、世間的にハイスペックと思われる池宮が抱える思慕の念に『常識』を当てはめて考える。
(年齢差を……超えて……)
そう考えて、池宮の告白に同じくらい衝撃を受けているであろう佐藤の横顔を見やる。
佐藤は悲痛な面持ちで池宮を見つめていた。
その表情に思い当たるところのある汐見は自分の内側を見つめる。
(佐藤と……オレも…………)
力なく微かに笑った池宮の顔に苦渋が見えた気がした。
「私は、彼女の力になりたいと思って紗妃を助けたんです……ですが、もし何か思い違いをさせてしまっていたとしたら……」
「あ、いや、それは……ですが…………紗妃本人は、あなたのことを想っていたんじゃないんですか?」
まだ疑惑は晴れていないとばかりに汐見が畳み掛ける。
「……疑われるようなことがあった、のかもしれませんが、紗妃は私など眼中になかったと思いますよ」
「? どういう意味です?」
佐藤が聞き返す。
「お金持ちになりたい、一生安心して暮らせるだけのお金を持ってる男性と結婚する、というのが口癖だったんですよ? 母子家庭の私が金持ちなわけないじゃないですか。それに本人も言ってました」
「……なんて?」
「『自分は金持ちイケメンと結婚するけど、秋兄ちゃんはイケメンでもないし金持ちでもないからきっと苦労するね』って」
そう言って池宮は苦笑いした。
「……それ、は……」
無論、それは紗妃本人に聞かなければわからないことだ。
だが、さっきの『迎えに行ってあげる』という言葉と今の言葉が意味するものは。
今度は、池宮が思い出したように爽やかに笑う。
「まぁ、モテない私が紗妃の大学入学と同時に挙式したので、その時は『先を越された!』と電話口で悔しがっていました」
「「!!」」
(東京の短大に行くために紗妃が上京したのと同時期に挙式……)
佐藤も汐見も同じことを考えていた。
そのタイミングの符合と、意味するところは。
「あの……ご結婚はいつごろ、だったんですか?」
考え込みがちになる汐見の代わりに、佐藤が少し合いの手を入れた。
「7年前になりますかね、私が26、妻が28の時、入籍と同時に挙式したんです。披露宴の招待状を送って。届いたその日に紗妃から電話があって」
「……それまで紗妃との連絡は頻繁に?」
気になったのか、汐見の方から質問する。
「いえ、私が上京してからは紗妃と会うことはありませんでした。連絡はもっぱらLIMEででしたので、電話がかかってきて声を聞いたのも久しぶりでした。……そのあと『急に都合が悪くなった』と連絡をもらって、結局式には参加してもらえなかったんです」
佐藤は汐見を見やる、汐見は池宮の表情を一瞬も見逃すまいとしていた。
「その頃の紗妃について、何か知らないですか? 不倫の話とかは……」
「……不倫に関しては、4年前の吉永との件だけだ、と本人は言ってましたし、高校の間は交友関係も狭くて身持ちが固かった、と聞いてます」
「それは、誰から?」
「私が大学時代に家庭教師をしていた、紗妃の同級生からです」
「「……」」
佐藤と汐見はここに来てまたしても沈黙してしまう。
断片的に聞き出した池宮からの一方的な情報では確定できないが、それでもその話を聞くだけでも。
(紗妃は……)
(〈春風〉は……)




