119 - 弁護士事務所(9)ー 池宮秋彦という男 ー
「ここって……法律事務所……ではなくて弁護士法人なんですね?」
「ええ、3年前に内装の大改造と同時に法人登記(※1)したんです」
「それまでは個人事務所? だったんですか?」
「そうです。元はボス弁……ああ、親方となる弁護士のことをそう呼ぶのですが、事務所の所長のことです。奥さんのお義父さんがやっていた個人事務所だったので。それを今の所長が受け継いで」
池宮はにっこり笑いながら返答する。
「ということは法律事務所を開業してからは、長いんですか?」
「元の事務所から考えると……長いですね、引っ越しも何度かやっているようですし」
(へぇ、意外……弁護士複数での経営だろうな、ってのはわかってたけど……でもきっと……この人、俺たちと年齢、そう変わらないよな……)
「失礼ですが、池宮先生自身は独立のご予定は?」
「まだ考えてないです。そうですね……東京での暮らしが息苦しくなったら地元に帰ろうかとは思っています」
「地元ってもしかして……出張所?」
「ああ、佐藤さんも気づいたんですね……あれは……地元に法律事務所の支所を立ち上げるのが夢だと所長が言っていたので、それをお手伝いする形で法人化して作ったのです」
「?」
佐藤は時折池宮が言うことが理解できなくて、疑問を感じている、という表情をした。
おそろしく察しの良い池宮はそれを見て即座に説明する。
「弁護士事務所が支所を作る際には法人化する必要がある(※2)んです」
「え……ちょっと待ってください……すると、ボス弁先生? と池宮先生は同郷なんですか?」
一拍置いた会話を反芻した後で、佐藤が聞き返した。
「そうです。同郷のよしみでこの事務所に来ました。入所して2年はイソ弁……居候弁護士で」
居候弁護士とは法律事務所に雇われて働く弁護士のことである。
「ここに来るまでは?」
「司法修習後は妻のいる大手法律事務所に」
「? 奥さんが?」
司法修習とは弁護士・検察官・裁判官の『法曹』となるために必須の研修制度だ。
「ああ、言ってませんでしたか。妻は、大手弁護士法人で渉外をやってる現役の弁護士です」
「え?!」
渉外弁護士とは外国とのビジネス法務に関する案件を基本として扱う弁護士のことである。英語の4技能に精通してるのはもちろんのことM&Aやライセンス契約、販売契約、供給契約などの1件あたり億単位の大型案件を扱う、弁護士の中でもトップエリートだ。
先刻から驚愕の情報が飛び出す池宮に、佐藤は唖然とした表情を向けていた。
だが、汐見はただ黙って聞いている。
「はは。妻は私の5倍くらい優秀なんです。司法試験も予備試験を経て、現役の大学4年時に合格した猛者ですから……」
現行の司法試験制度では、大卒後に入学する法科大学院を修了して司法試験の受験資格を得るのが王道だが、大学在学中でも受験資格を得られる『予備試験』というものがある。その受験資格を経て法曹になった受験生は相当優秀だとされる。
なぜなら、その『予備試験』の最終合格率が4%以下であり、現在、国内最難関試験と言われているからだ。
「まぁ……彼女はかなり特殊だと思いますけどね……」
佐藤には池宮のその説明の意味がよくわからなかったが、遠くを見るような表情をしている池宮が苦笑いしながら左手の薬指に光る指輪を擦るのを眺めていた。
(そうだよな……結婚、してるよな……)
その仕草を見た佐藤は先ほど汐見が感じたのと同じ感想を抱いた。
何気なく横にいる汐見を見ると、汐見も同様に池宮の左手を凝視している。それに気づいた佐藤が汐見に小声で話しかけた。
「汐見?」
さっきから黙って池宮と佐藤の会話を聞いていた汐見が、急に池宮に対し剣呑な口調で
「池宮先生は、奥さんとどこで知り合ったんですか?」
会話に参加してきた。少し驚いた表情を返す佐藤を横目に。
聞かれた当の池宮も、今まで黙して語らなかった汐見からの唐突な質問に若干戸惑って返事をする。
「え、っと、妻との初対面が、ってことですか?」
「そうです」
それに対し、無表情で応答した汐見を見て、池宮は困ったような表情を返した。
「……もしかして……汐見さんは、何か私を……疑っておいでですか?」
汐見が好戦的な視線を送っているのを感じた池宮は、苦笑しながら返す。
「汐見……」
「……急にすみません。紗妃に関して最近色々と知ったので、その……人間不信になってまして……」
不躾な質問だということは重々承知の上だが、疑心暗鬼のままでは話が進まない。汐見は続けた。
「慰謝料の交渉に関しては池宮先生に依頼したいです。ですが、やはり……紗妃のことをここまで知ってる池宮先生のことを全面的に信用するにはまだ、情報が足りないと思っています」
「「……」」
(そうだよな……降って湧いたような人が、自分の嫁の過去を色々知ってるとか……胡散臭いよな……そういうところも汐見らしいというか……)
率直な物言いから出たその疑念は、汐見からすると当然と言えば当然だった。
もちろん、池宮に弁護士として交渉してもらうのはありがたい。ほぼ全ての事情を知っている池宮が今後の対応に適任なのも知っている。
だが、そのことを上回るほどの警戒心を汐見は抱いていた。
(さっきの2家の遺産関係の話で、この人が紗妃の味方で信頼に値する人だろうってことはわかる。だが……紗妃の味方がオレの味方とは限らない……)
汐見は自分でもよくわからない警戒警報が身の内で騒いでいるのを感じ取っていた。そしてまた、こういう時の自分の勘がよく当たるのも経験則として知っている。
「そうですね……2年前に一度、一瞬だけ会ったことがあるだけの男がいきなり現れて……結婚してるとはいえ、奥さんの幼馴染と言われて……というところですよね」
「……」
汐見は沈黙をもって池宮の言葉を肯定した。
口元から細い呼吸をこぼしながら、池宮は先ほどのように組んだ手を自分の前に置いた。
「妻との初対面は……彼女が司法修習生だった頃、アルバイトで私が通う予備校のチューターをしていたんです。2歳年上の妻とはそこで知り合いました。論文答案を見てもらったり、受験の相談に乗ってもらううちに交際するように……それで、私の修習後、彼女がすでに就職していた事務所を紹介してもらったんです」
今や司法試験に合格したからといって就職や就職後の将来が保証されているわけではない。合格後に行われる司法修習を経たあと、裁判官と検察官以外の道を示された修習生が行う就職活動はともかくとして、営業活動をしなければならないほど過酷になってきている。
その中で地元の法律事務所よりも好条件の仕事が、後に妻となる当時の彼女から紹介された東京の大手弁護士法人だったという話だ。
「紗妃と地元で別れたのはその予備校に通うために私が上京したのがきっかけです。私が大卒当時、紗妃は中学3年生でした」
遠い目をした池宮が、ふと思い出したような表情で苦笑いしながら一言、付け加えた──
「そうですね……ただ……紗妃は私との別れ際に『秋兄ちゃんが東京で弁護士になれなくて路頭に迷ってたら、紗妃がお金持ちになって迎えに行ってあげる』と言ってましたね」
「「!!」」
※1:法人登記=会社以外の様々な法人(一般社団法人・一般財団法人、NPO法人、社会福祉法人等)について、その商号・名称や所在地、役員の氏名等を公示するための制度
※2:法人化する必要=弁護士は一つの法律事務所しか開設できないが、弁護士法人化することで弁護士法人の主たる法律事務所の外に、従たる法律事務所を開設できる




