118 - 弁護士事務所(8)
入金は2回。
1回目の入金と2回目の入金に日付の間隔はほとんどないが、2回目の入金は、美津子が亡くなる半年前だ。
「1回目の入金額が多いのですが、それは私が預かっていた春風幸三氏からの相続分で、春風家から預かっていたものをその口座に移動したからです。美津子さんが遺言書の作成で来所されたときにお渡ししようとしたら、受け取りを拒否されました」
「なぜ……」
「何か……予感があったのかもしれません。自分が亡くなった後に、紗妃が来るようならその時に、遺言書と一緒に渡して欲しい、と」
そう言った池宮はファイルの上に置かれたなんの変哲もない長3形の封筒を汐見に渡す。
その表面には『遺言書在中』と書かれており
「!!」
裏面には大きく『平成○○年 10月20日 遺言者 春風美津子』とだけ書かれていた。
池宮は椅子から立ち上がると大きくため息をついた。
「美津子さんはパワフルな女性でした。こんな地方都市で……パートで食い繋ぐような生活をするような人じゃなかった。私の母よりももっと……」
汐見は何故そう感じたのかわからないほど、池宮の目には悲愴感が漂っていた。
気を取り直したように、立ち上がったままの姿勢で池宮は汐見を見つめた。
「美津子さんが春風幸三氏から相続で受け取ったのは相続税を支払った残額540万。そして、同様に久住家からは315万円。どちらも、現預金のみの半額を受け取っています。合計で855万円。……まぁ、それでも請求された慰謝料の3分の1もありませんが」
「い、いえ! そんなこと……」
(残り2,150万……どうにかして……)
汐見がそんなことを考えていると、池宮は顔をうつむけたまま、メガネの上縁の隙間から汐見を見ていた。
「これは、提案なんですが……」
「はい?」
「相手方との……吉永からの慰謝料請求の交渉に、私も同席させてもらえませんか?」
「え?!」
「春風……母娘とはこれだけ懇意にさせてもらっていますし、美津子さんの遺言の執行にもなりますので」
「遺言の執行?」
「『紗妃がなんらかのトラブルに巻き込まれていたら助けてほしい』と頼まれました」
(そんなことを……お義母さんは池宮先生に…………オレは婿として頼りなかったんだろうか……)
一瞬にして表情が陰った汐見を見た池宮は、何かを察して付け加えた。
「汐見さん、勘違いしないでください。私に依頼したのは美津子さんなりの、紗妃への親心だったのだと思います」
「……」
「ただ、今回の話だと、私も同席させてもらった方が話は早く進むんじゃないかと感じています。もちろん、汐見さんが私の提案をお受けできないというのなら無理は……」
「いえ! それなら是非お願いしたいです。僕も、弁護士相手に交渉とか……素人ができるのだろうかと不安だったので」
「……そうですか、なら良かったです」
双方がホッとした表情を確認し合うと、2人して僅かに笑顔が出た。
外はもうすでに真っ暗で、来所した時から時間が経っているのがわかる。
「少し休憩しましょう。もう8時を過ぎていますし」
「あ、はい。大丈夫ですか?」
「何がです?」
「あの、こんな時間まで……」
「問題ありませんよ。私が相談対応の際には事務員も1人は残ってもらうように伝えてありますから。ああ、佐藤さんを待たせっぱなしなので、ご一緒しましょう」
そう言った池宮は、テーブルの上にある電話機の内線を押して呼び出した。
「悪いんだけど、茶菓子とコーヒーを持ってきてくれるかい。3人分。待合室にいる佐藤さんにもお声掛けして相談室に入るように言ってくれ」
◇◇
「佐藤さんご案内します」
相談室がノックされた音と、事務員の女性の声が聞こえて
「どうぞ」
池宮が立ったままで、案内の声に応えた。
「失礼します」
神妙な顔をした佐藤は、汐見を見て少し微笑んだ。
(心配するほど具合は悪くなさそうだな)
汐見の表情に疲れを感じなかったので安心する。
「佐藤さん、お待たせしてすみません。少し休憩しようと思いましてお呼び立てしました」
「あ、はい」
「ちょっと失礼して私は席を外しますが、何かあれば、この電話の内線ボタンを押して事務員をお呼びください」
「わかりました」
そういうと池宮は相談室を出て行った。
入れ違いに事務員が入ってきて、3つのコーヒーカップとお茶請けをテーブルに置いた。お茶請けの中はティラミス~と、何か書かれている赤い個包装のお菓子のようだ。
「お召し上がりください」
「ありがとうございます」
佐藤は、この相談室に向かう時に事務スペースを見渡したが、もうこの女性事務員しか残っていなかったことを思い出し、残業させているのだとしたら悪いことをしてるな、と少し罪悪感を感じた。
会釈して出ていく事務員を見送った後、当然のように汐見のすぐ隣の椅子に腰掛けた佐藤は、広い相談室の室内と観葉植物の緑を見ながら
「さっき見た時も思ったけど、すごいな、この部屋……」
「だな……」
感嘆の声をあげる。だが佐藤とは裏腹に、汐見は浮かない顔をしている。
「汐見? どうした?」
「え、あぁ……」
(情報量が多すぎて頭の中だけでは整理がつかないな……資料として譲ってもらえるものは持って帰ってから、それと……)
佐藤は、汐見が脳内で独り言を呟いて計画を立てていることを察した。
(何か考え事してるな……こういうときは邪魔しないに限る)
黙って汐見の隣にいるだけでも佐藤の気持ちは落ち着く。
それがどこであろうと【汐見が自分のそばにいる】というたったそれだけで安心できる。
その感覚は汐見にとっても同じだった。
だが、互いにそれを伝えたことも伝えられたこともない。
汐見に伝えて拒否されるのが怖いと思っている佐藤と、伝えることに特別な意味があるとは思っていない汐見とは、双方の思惑が完全に食い違っていた。
汐見が黙っている間、佐藤が手持ち無沙汰にスマホをいじり始めた頃。
「お待たせしました」
その声とともに池宮が相談室に入ってきた。
「すみません、事務員を帰さないといけなかったのでちょっと処理をしてました」
池宮がそういうと、佐藤が
「そうですよね、残業させてしまって悪いな、とちょっと……」
ついさっき考えていたことを述べた。
「はは、いや、もう毎度のことなので慣れてしまっていますよ。それに私の相談者さんが来る場合の残業代には少し色付けてますから、大丈夫ですよ」
爽やかな声でそう応えながら池宮はさっきの席に座り直した。佐藤は会うまでに想像していた人物像とかなり違っていた脳内にある『池宮秋彦情報』を書き換えなければならなかった。
(想像してたのと全然違うな……)




