103 - 巣立った子鳥(2)
吉永隆、旧姓・三浦隆は、春風紗妃と出会って初めてのクリスマスイブを二人きりで過ごすも、彼女に告げる内容は残酷な事実を突きつけるものだった。
紗妃は、羽振りの良さと名家の跡取りと知って急接近した三浦隆が、自分のことを結婚相手として考えているのだと信じていたからだ──
12月。周りの学友達が次々と内定先を確保していく中、書類審査は通るものの、筆記試験を突破することができず、まだ1社からも声がかかっていない紗妃はかなり焦っていた。
内定が出ないことに焦れた紗妃が合コンの席で愚痴を吐くと『愛人手当出してあげるから、僕の会社においでよ』と堂々と言ってのけた50代の社長も複数いた。しかし、それらを丁重に断り、その当時の紗妃からは想像できないが、努力して結果を出そうと必死だった。
年明けから3ヶ月もない来年の卒業と就職に向けての準備に忙しかった紗妃にとって、結婚相手の大本命である三浦隆から、自分ではない相手との結婚発言はまさに晴天の霹靂、寝耳に水だった。
その時初めて、三浦(吉永)隆は自分の事情を説明した。
自分は親族が経営する会社の役員であること、そして役員としてその会社に入社するための条件が現女社長の婿養子になることだった、などなど。
そして彼にこう言われたのだ。
『就職活動に難航してるって聞いた。僕の会社に入社してもらって、そこで僕が独身になれるまで待っててほしい。僕の実家の経営の関係もあって今すぐには吉永とは縁を切れないけど近いうちに吉永から独立しようと思ってる。そうすれば妻と離婚することができるから』
そう言われ、紗妃は迷った。
つまるところ、【不倫して欲しい】と言われたも同然だったからだ。その提案は他の社長連中からの同様な誘いを断り続けていた紗妃にとって、屈辱的すぎるものだった。
だが、彼のいる会社に入れるというのはまた、それ以上に垂涎の提案でもあった。
なぜなら三浦隆が在籍している会社、つまり妻・吉永志弦が経営する会社は、海外進出を始めて4年に満たずしてファーブスの記事にも取り上げられるようになった吉永ホールディングスの親会社だったからだ。
そして、この時、三浦隆は最も重要なことをあえて紗妃に伝えなかった。
──実家の会社は社長である父の相次ぐ不祥事の露見から社会的信用を失いつつあること。もうすでに三浦家の経営は傾きかけていること。吉永ホールディングスの子会社である三浦隆の実家の会社は、ここ10年ほど吉永家から毎年資金提供を受け続けているが、その次期当主で妻となる吉永志弦と、実父である三浦家の当主が犬猿の仲であること。などを──
三浦隆本人は、身長185センチの爽やかながら男らしい顔立ちをしたスラっとしたイケメンだ。穏やかで優しげな口調で話し、関わった人間を巧みに自分の味方につけることができるほど、説得力を持った話で誠実な印象を与えるカリスマ性を持つ魅力的な男だった。
紗妃と出会った当初、他の40代男性からの紹介を受けて『やがて32になる若造です』と照れ臭そうにしながら自己紹介していた。
だが、その優しく誠実そうな見た目からは想像できないほど、三浦隆は狡猾で冷酷で残忍で計算高く、自己中心的な男だった。
三浦隆はつねづね『嘘の中に真実をほんの少しだけ混ぜると、人は大きなホラ話でも簡単に信用する』というのが本人の口癖であり、他人は全て自分が利用するために存在するものだと本気で思っている人間だった。それは紛れもなく父と祖父から譲り受け、偏った家父長制思考の一端から発露された言葉だった。
幼い頃から上の姉二人は些末に扱われ、家族での計画は全てにおいて祖父、父、隆の順で決定された。三浦家の内情に女性が関わることは一切なかったと言える。
そんな厳然たる男尊女卑の家庭環境に育った三浦隆がどういう人間になるかは火を見るより明らかだった。
関わる女性は全て自分を慰める道具としか思っておらず、結婚を匂わせる女性には三行半を突きつけて別れるのが三浦隆にとって日常茶飯事だった。
なぜなら彼が吉永家に婿入りすることは、彼が高校に進学する前には決定事項だったからだ。
しかし、そんな中で出会った『妖精のような美しさを持つ春風紗妃』は少しだけ特別だった。
年齢と見た目偏差値重視で連れ歩く女性を決めていた三浦隆は、過去から現在に至るまで関係を持った女性の中で最高ランクの美貌を持つ紗妃を手元に置いておきたいと画策したのだ。
『紗妃は就職先が決まるし、僕は離婚準備を整えながら君との新婚生活の予行演習ができる。全てが終われば、晴れて君と僕は結婚できて幸せになれるんだよ。こんないい話はないんじゃないかい?』
三浦隆は、典型的なボンボンのドクズ男だった。
自分で築いたわけではない家の威信と経済力に完全に依存し、そのルックスと他人を狡猾に騙す手口を使って数々の女性を渡り歩く人たらしであり、人を信用させることに関してはもはや天才的だった。
人を騙して信用させるためなら簡単に土下座もするし泣き落としは常套手段であり、彼に泣かれて落ちなかった人間はいなかった。そしてそれらのことに一欠片の罪悪感を感じることもない、典型的なサイコパスでもあった。
三浦隆が吉永隆に改名されたのは年明けの2月。
400名収容の披露宴会場が全席埋まるほど盛大に披露宴が行われ新郎新婦の入場はさながら芸能人のようだった。その会場の片隅に春風紗妃も招待され、その時、紗妃は初めて吉永志弦を見た。自分とは正反対の容姿に一瞬見入ってしまったほどだ。
三浦隆の隣に堂々と並び立つその人は、女性らしいというより『凛々しい』という形容の似合う長身の女性だった。長身の三浦隆をも圧倒するほどの姿で涼やかな目鼻立ちの相貌、海外モデルのような研ぎ澄まされた鋭い美しさとオーラを身に纏っていた。
そんな女性の婿養子になる吉永隆のターゲットになってしまった春風紗妃は、彼の手のひらで踊るか弱く美しい駒でしかない。
吉永夫妻の披露宴に出席していたのは吉永ホールディングス縁の各界の著名人が大半であり、吉永夫妻が直で経営する親会社・YGDC株式会社(Yoshinaga Grand Design Corporation)からの社員は役員のみであった。
2ヶ月後に入社式を控えていた紗妃はなるべく目立たないよう地味な服装と使うことがないダサメガネを掛けて披露宴に出席していたため、後に役員からも披露宴に出席していたことが気づかれることはなかった。
そんな中、入社から3ヶ月経った頃、吉永隆は社内で紗妃と接触する。
表向きの用件は役員の御用達係の依頼という話だったが、実際には社内で仕事を通じて紗妃と接触するための機会を作ることだった。
紗妃は吉永隆の含意を理解しながらその用件を受け、吉永隆が在室する取締役員室に週3回通うことになった。
そこから、愛人として出社する春風紗妃と吉永隆の関係はさらに深いものになっていく。
両者が抜けられない沼にハマっていくのは誰の目からも明らかだった。




