第一部
私の尊敬する故杉浦日向子先生は、どこかでこんなことを仰っていた。
「北斎を描くのはむずかしい」
この言葉を知ったのは、私がこの小説『嘉永の虎』を書き始めたあとだったので、とてもヒヤリとした。お江戸事情なら何でもござれの先生が、むずかしいと仰る。私なんぞの小童が手をつけていいものだろうかと、本気で考えた。
しかし、書き始めてみたものは仕方ない。トンデモナイ設定にもしてしまった。私はふと、北斎の住んでいた両国へと向かった。
偶々、お天気も良く、近くの北斎美術館や、彼と縁のある神社にも足を伸ばし、何と2日も両国で過ごすことになった。
隅田川の上をびゅうびゅう吹く風にあたって、私は「書ける」とおもった。
……私の独り言はこの辺にしておきましょう。それでは、物語のはじまり、はじまり。
作者まえがき
私の尊敬する故杉浦日向子先生は、どこかでこんなことを仰っていた。
「北斎を描くのはむずかしい」
この言葉を知ったのは、私がこの小説『嘉永の虎』を書き始めたあとだったので、とてもヒヤリとした。お江戸事情なら何でもござれの先生が、むずかしいと仰る。私なんぞの小童が手をつけていいものだろうかと、本気で考えた。
しかし、書き始めてみたものは仕方ない。トンデモナイ設定にもしてしまった。私はふと、北斎の住んでいた両国へと向かった。
偶々、お天気も良く、近くの北斎美術館や、彼と縁のある神社にも足を伸ばし、何と2日も両国で過ごすことになった。
隅田川の上をびゅうびゅう吹く風にあたって、私は「書ける」とおもった。
……私の独り言はこの辺にしておきましょう。それでは、物語のはじまり、はじまり。
第一部
最近、父の様子がおかしい。
前から変な人だったけれど、絵筆を持つ手が止まらない。
「任せた」なんて言ったきり、飯も食わずに仕事場へ。
七十過ぎて、ますますお盛ん。聞こえはいいけど、娘にゃ堪える。
鋭い視線、練達の腕は魚の如く。それが描くは江戸の風。
……申し遅れました、私の名は阿栄。
希代の天才、葛飾北斎の娘でござい。
一 この男、北斎
――天保2年(1831)、夏――
ミーンミンミンミンミーン……
「今日も暑いなア……」
ほんの少し前まで、父はぼうっと外を眺めておりました。世間様では、ちょうど一幽斎廣重(歌川広重)の『東都名所』が出たばかり。世間での評判を相当気にしていたのでしょうか。父とは全く異なる作風があそこまでうける。きっと自信を無くしていたのでしょうね。まあ父にとっては珍しいことです。
「面白くないなア……」
筆も進んでいないご様子。「もう歳だから」なんて言ったら、まあカンカン。烈火の如く怒り出して、「そんなに死んでほしいならば、もうここで今死んでやる!」とまで言う始末。……それは何とか止めました。
大好きなクワイを出しても「いらない」の一辺倒。本当に気の抜けた爺い。そのままぽっくり逝くものかと思っていました。
ある日、版元の西村屋与八さんが来られた時も、無愛想なまま。
「先生、仕事はどうするんです」
「フン……」
「そうこうしている間に、天下の為一の名が、版元から消えますぜ」
「……」
反応がない父に、西村屋さんは何かを察して、私のいるところへいらっしゃいました。
「栄さん、私としては、こう、何というか、大きいものを、作りたいんですがね……弓張月に負けないような、ね」
何が大きいものを、だ。本当は、父に頭を下げたくないだけなのに。
「私の方からも……」
「お願いしますよ!版元の命がかかってるんです!私はもう失礼しますよ」
急に大きな声を出して「命がかかっている」なんて、人から嫌われる元でございますね。
それからしばらくして、奥の方にいた父が突然口を開きました。
「おうい。出かけてくる。もう、帰ってこねえかもしれねえが」
「ああ、そう」
相変わらず田舎者みたいな服装で、そそくさと出てゆきました。
その時の父は、どこか虚な目をしていたように思います。互いに目を合わせて話したりはしないのですけれども、どこか遠くを見つめていました。
こんな暑い中、いったいどこまで行くのだろう。頭を冷やせる所なんて何処にもないのに……。
私はずっと野良猫の相手をしたり、散らかった紙を少しばかり横に寄せてみたりして、父の帰りを待っておりました。しかし、流石に日が暮れてくると、心配になります。心当たりのある場所へ探しに行こうと思いました。
まずは版元。
「父を探していて」
「いや。こちらには来られていませんねえ」
「はあ……」
次は、知り合いのお宅へ。
「父を……」
「来たらすぐ分かる。来たら、知らせる。こっちは今忙しいんだ」
「失礼しました」
中村座にも顔を出しました。
「父が……」
「へえ。そうなのかい。おい!そこのお前、爺さんがいないんだってよ。来たかい?」
「いやあ。私は何も……」
「そうかい。てまあ、こんなもんよ。すまねえなあ」
「ありがとうござんす」
方々歩き回って、ほとほと疲れ切ってしまいました。もうすぐ夜が訪れようとした、その時です。藤の何某といった男が、父の姿を見たと言うのです。
「ああ、あのご老人、両国橋あたりをふらふら歩いていたよ。まるで魂抜けたみたいだったぜ」
「そこからどこへ行ったとかって、ご存じないですか」
男の目の色ががらりと変わりました。
「……あんた、ここから儂の話を、信じてくれるかい?」
「信じますとも」
「あの爺さん、橋を渡り切ったあたりで、すーっと消えていったんだ。いやあ、びっくりしたねえ」
「ええ……」
私は、口をあんぐり開けて、言葉を失ってしまいました。
「おお?信じてねえな」
その軽い口ぶりを聞いていると、無性に腹が立ってきました。こっちは真剣に行方を探しているっていうのに。
「お前さん、なんだい。何を言い出すかと思えば。冗談言っちゃいけねえよ。そんなこと、平賀源内でも言わねえや」
胸ぐらを掴んで、男を問い詰めました。
「いやいや。本当だよ。俺が、嘘ついてるように見えるかい」
「見えるね」
「そりゃ辛いよ。女。離してくれよお」
どうも、本当のことだそうなので、手を離してやると、男はひいひい言いながら逃げてゆきました。しかし、父のことは全くわかりません。どうしたものか。頬杖をついて橋の方を見つめても、何もありゃしない。結局、橋の上で待ちぼうけになりました。戌の刻まで粘って、その日は諦めました。
それから、かれこれ二、三日は経ちましたかねえ。周りの人も心配して、いよいよ大ごとかと思った頃に、奴さんが帰ってきたのです。バタバタ足音鳴らして、何やら紙切れのようなものを抱えて。
「鉄蔵ぉ!どこに行ってたんだよ!」
鉄蔵は、私の父親のことです。
「後で話す。それより、今は天保何年の何月だ」
「……天保二年の葉月!それより、ちょっとは私に説明したらどうなんだい。心配していたんだよ」
「うるせえ!後と言ったら後だ。ふん……“あれ”からあまり時間は立ってないと見える。“あいつ”の話は本当だったか。こりゃいいぞ」
父はにやにやしながら絵筆をばさっと取り出して、せっせと奥へ行ってしまいました。そうなりゃ、誰も邪魔できません。とは言うものの、帰ってきて早々「うるせえ」とは、ひどすぎやありませんか?
例の紙切れが一枚、落ちていました。……こんな材質は見たことがない。変な光沢があって、そこには本物を嵌め込んだような牡丹の花が描かれています。こりゃあ、相当の腕の立つ奴が描いたなと、感心するほどでした。
ちょうどその時です。浮世絵師で父の弟子、渓斎英泉がやってきました。
「おう、栄。久しぶりに来たが、先生、忙しいのかい」
「ああ。そうなんだよ。すまないねえ」
「ちょっと、あがらしてもらうぜ」
「なにサ。用事もあるまいに」
「暇潰し、と……お前、機嫌悪いのか?」
昔から図々しい男です。
「ほっといてくれよ……英泉、あんたは……今、あまり絵を描いてないだろう」
英泉は、苦笑いをして、
「ハハ、それを言われちゃ困るな。いやなに、お前、俺の画風を知ってるだろ?」
「もちろん、知ってるけれどサ」
「あの類、そろそろ禁じられるかもしれねえ、と思ってな。最近、どうもお上の取り締まりが厳しくなってきたような気がするんだ。それもひとえに老中の……」
「これ以上はおよしよ。はは、お前、今頃反省しているのかい。天下の英泉が女を描かなくなったら、何を描くって言うんだい!」
「なにを!女を描くのはお前も同じだろうが!」
「悪いけど、あんたとは違うね」
「くっ。まあいいサ。俺もそろそろ、真っ当に、ね」
「そろそろとは、馬鹿らしい。“そろ”いも“そろ”って、だろ?」
「ちっ。面白くねえや」
ああ、実に、くだらない。そばにあったキセルをくわえてみても、何にもなりゃしない。
「なあ。栄。お前、そこに置いてあんのは、なんだい?」
「ああ。これ、鉄蔵がね、持ってきたんだ」
「へえ。こりゃ不思議だねえ。油絵の類か……?」
「それがわからないんだよ」
「それにしては、よくできてるよな」
英泉は寝転んで、下から覗き込むように見ていました。
「こりゃ、おそらく和蘭のもんだな。先生、どうやって手に入れたんだろう」
「それも、わからない」
話をしていると、仕事場の方からドタドタ、足音が聞こえてきます。
「おい。おめえたち、どうせろくでもねえ話でもしてるんだろ」
「これは、これは先生。今は、えーと、為一……?」
「はっ。雅号なんて忘れた。英泉、おまえ、いい加減描くもの描けってんだ。為永春水のとこに入り浸ってることぐらい、知ってるからな。ったく、せっかくおめえに号をやったと言うのに」
「俺も名前なんて気にしたことねえし……誰かに似ちまったかな」
「ああン?」
「ハハ……。ごめんなさい」
「それよりサ、鉄蔵、ずっと聞きたかったんだけど、これ、何なんだい」
「うっ。見たのかヨ。栄」
父は口を尖らせながら、茶化したように言いました。
「勝手に落としていったんだろ」
「先生、俺も気になってるんです。差し支えなければ、教えてください」
「差し支えって言えば、ないけどよ……」
「じれったい!おめえ、そういうのが一番嫌いだろ!」
「わあった、わあったよう。儂が、この二日、どこに行ってたか……」
ごくり。唾を飲み込んで、父はこう繰り返しました。
「ちょっと、な。“へいせい”七年の、日本に……」
一同、呆気に取られて、言葉がなかなか出ませんでした。
「一体、何を言ってるんだい?」
「先生、へいせいって言うのは……?」
「よくしらん、しかしどうも江戸ではなかったぞ」
父は至ってあっけらかんとしています。
「へえ……。は、ははは、冗談およしよ、そんなもの聞いたことない。つまらない夢でも見てたんじゃないかい?」
「はっ。信じてもらわねえで結構だよ。アゴ」
アゴ、とは栄、私のことであります。
「煩いね。爺い」
「しかし、どうも不思議ですね。我々が知らないような」
「そう。その“しゃしん”とやらが証拠さ」
父は仕事場から何枚か持ってきて、ばさりと床に落としました。
「ほほう。へいせいの世界からの、土産ってわけですか」
「詳しいことはわからんが、面白え代物だと思ってよ。持って帰えってきた」
「勝手に人様の……今に罰が当たるよ」
「そっちの世界の奴が、いいって言ったんだ」
「ははは。先生、そっちの世界の奴っていうのは?」
「ハッ。儂らと同じ人間よ。だが……何とも不思議な世界だった」
「ほう。もっと教えてくだせえよ。先生」
「ふふ。知りてえかい……?」
「知りてえですよ。そりゃあ!」
「へっへっへ……。英泉、誰にも言うなよ……」
その時の父は、久しぶりに子供のような顔をしていました。
二 北斎 平成の世へ
――平成7年(1995) 1月――
「む……。ここは、一体どこだ」
いやに寒い。季節は夏だったはずなのだが、何処かおかしい。目を開けると、そこには濁りに濁った隅田川が佇んでいる。見たこともないような色。地面をさする。なんだ、この経験したことのない手触りは。ハッと見た建物に、木材のかけらもない。また出てきた、見たこともないような色。
ギュン!自身の体の真横を何かの塊のようなものが過ぎ去った。馬をも優に超える速さである。聞いたこともないような音。これは……いや、向こうを見てみろ、もっと大きい、蛇のような怪物が、物凄い速さで川を横切っている。おそろしい。
つぎは、鼻を嗅いでみる。……いつもの潮の匂いがしない!色だけでなく、匂いも変わっちまっているのか。おい。訳がわからん。頭が痛くなってきた。ここはどこだ。本当に江戸なのか。
ほんの十年か前に、天狗に連れ去られたとかいう、子どもの話があったっけか。あんな戯言、儂は構うものかと思ってはいたが……本当かもしれねえ。よく考えれば、こんなことが儂の身に起こっても、不思議じゃねえご時世だった。はあ。一体どうすりゃいいのだ。
「……おい、そこの人。ここはどこだい」
恐る恐る、北斎は道ゆく人に尋ねたが、彼は気づく様子まるでなく、足早に去っていった。
「おい!いくな!ちっ。やつら、儂のことが見えてねえとみえる。変な召し物なんざ着やがって。どうも好かねえ」
彼はいくらか歩いて、こう思うようになった。
へえ、なるほど……。これが極楽浄土ってやつかい、いや、儂には地獄が似合うな。ふん、ついに人魂になったか……どうせなら、いまここで画稿でも描きてえな……。何から描く?画材は?くそっ、手ぶらで出てきちまった……。ふふ、ここが地獄だと思ったら、案外怖くなくなってきたな。妙に納得してしまうのが北斎という男の恐ろしさである。彼の意識は、とっくに周りの摩訶不思議より、一刻も早く絵筆を持つことに向いていた。
「描こうつったって、何もねえ。ようし、こうなりゃ自分の血で……」
思い切り爪を噛もうとした、その時である。
視線の先に、明らかに様子がおかしい者がいる。訝しげに、こちらの顔を見ている。眼鏡をかけた、ひょろりとした外見の男だ。
「あ……」
彼は目が合ってしまったことを後悔しているようだ。……しかし、声にならない。唇の振動だけが淡く伝わった。
「おお、お前、儂が見えるのか?」
「見えま、すけど」
小刻みに頭を上下に揺らしている。
「そうかい、そうかい。そりゃ都合がいい。もう、お前さんしか頼りがねえ。筆、貸してくれねえか」
「……筆?」
「そうだよ。描くものだ。描くものが欲しいんだ」
「筆か……。僕の家なら、ありますけど……」
「そうか。じゃあ、連れて行ってくれ」
「そうは言ったって……貴方、一体誰です?こんな昔の格好をして。イベントの類ですか」
「ああもう、うるさい!はやくに描かせろ!それだけでいいんだ」
苛立った表情で、ぐっと北斎が男に詰め寄った。
「やめてください!分かりました、分かりました!行きましょう!」
北斎はにやりと笑って、
「そうだ。それでいい」
と呟いた。
男の自宅は、歩いて十分の安アパートの一室である。奥にはよく整頓された木の机。左には「画集」とシールが貼られた棚。その中には、幾つもの分厚い本が生真面目に並んでいる。太陽の光が窓から不意に差し込む。
「お前さん。こんな綺麗な部屋で、よく息をしていられるね」
「いや、掃除は当然でしょう」
「けっ。すぐに引っ越せば良いものを。まあ、とにかく、描くものは、と……」
どかりと偉そうに座って、辺りを見回すと、少しばかり変わったものが目についた。
「おい。こんなものなんかで、描けるのか」
「ああ。これはGペンって言いまして……。ご存じないですか?」
「こりゃあ。面白えや。しかし硬いな……。お、ここにもあるじゃねえか」
「これは、どこにでもある鉛筆ですよ!」
「……?」
北斎は首を傾げ、こう続けた。
「手に馴染むかどうかはわからねえが、まあ、いいか。おい、次は紙だ、紙」
「はあ。まあなんでもどうぞ」
「おお。こんなもんか。ちと、質が違えが…。お前、よくこんなに持っていたな」
「一応、マンガ家志望なもんで……」
男がこう呟いた時には、北斎は目をかっと見開いて、ひとり、真白の海に漕ぎ出でていた。
地べたにぐぐっとしゃがみ込み、爪の先から、髪の毛の一本まで、一切が北斎の視界を共有しているようだった。そう、彼の体すべてが、眼。ものを見るために生まれた眼なのである。それが偶々、絵描きになった、と言わざるを得ない。特に、北斎の作品を一度でも見たことのある人間は……。
さて、北斎のこの姿を見て、男は「先生」と初めて会った日を思い出した。かれこれ6年も前のことである。
「ぼくの、アシスタントになりたいって?」
「はい。この通り!先生!」
「若いねえ、君。そうか」
汗に塗れた手拭いを、ぐっと締め直し、何も言わずに机に戻った。その背中である。
彼は小さく
「先生?」
と呟いた。こぢんまりとした一室は、その輪郭をどんどん失って、緩やかに奇妙な時間へ溶け出していった。
三 地獄旅行
「ふう。どれ、手に馴染むかと言われれば微妙だが……」
「これは……」
思わず声を失ってしまうほどだった。この爺さん、一体何をみた。何より、出来上がるのが早い。これは恐らく、形からして両国橋。向こうに、大蛇?それにしては四角いな。ここに描いてあるのは、人間か?妙に直線的だな……。足の形も角張って……。何を描いたのか?
「これは、なんですか」
「いや、これはここへ来た時みた、風景さ」
この爺さんはどうもニヤリと笑う癖があるようだ。この人物、何者だ……。
男は不審がりながらも、絵から目を離せなかった。
「さて。そろそろ閻魔様のところへ連れて行ってくれるか。次は閻魔を描く。手本がありゃあ、儂は伝説の良秀にも負けはしねえ。早く連れてけ、連れてけ」
北斎は両腕をずいと差し出す。男が不思議そうな顔をすると、北斎はこう繰り返した。
「おい。だからよ、早く連れて行け」
「貴方、変な格好して、何を言ってるんです?ここ、日本ですよ」
相変わらずきょとんとした顔をしている。彼は繰り返した。
「本当にわかってないのかな……。ここ、日本」
「そんなわけないだろうよ。……ここがあの世じゃないだって。それはおかしい。そうじゃなけりゃ、儂が見たのはなんだったんだ!」
北斎は自分の描いた絵をばっと指差した。
「これは、両国の……」
そう言い切らないうちに、北斎は大きな声で怒鳴り立てた。
「とっとと儂を榛木馬場あたりまで還しやがれ!」
「うん?お爺さん。今、榛木馬場は跡地に……」
そこまで言って、彼ははっとした。待て、この奇怪な身なり。現世の人間とは思えない。いや、小説じゃあるまい。ありえない。恐る恐る、聞いてみる。
「……お爺さん。今、平成何年?」
北斎は両の目をぐいっと右に上げて、こう答えた。
「へいせい?そんなもん知らねえな。……儂がいるのは江戸の……。忘れちまったよ」
ぎょっとした。江戸、あの江戸か?教科書に出てくるような?動揺が隠せない。
また、先生の言葉を思い出した。
「某大先生が、締切直前まで、あの傑作のアイデアがでなかったって、知ってたかい?」
「へえ。そうなんですか」
「新連載の予告ですら、描けなかったらしい。……やっぱりね、不思議なことって、漫画家なら、一度や二度は当たり前にあると思うんだ」
「はあ」
「岡田くん。きみ、信じてないでしょ」
「先生、譬え話でしょう?そんなわけがありません」
「違うの!きっとあるの、この世の摩訶不思議っていうやつは!」
彼は思わずふっと笑ってしまった。
「おい!何が可笑しい?」
北斎はぎょろりとした目で問いかけた。
「いや。貴方……多分、江戸時代から来たんですよ。きっとそうだ。ははは。そうか!本当にこんなことがあるんだ!」
「おいおい。一人で納得するな。早く説明しやがれ。江戸時代とはなんだ」
彼は目を見開いて、
「つまり、貴方は未来に来たんです。時を超えて、未来の日本に」
「みらい?なんだ、それは」
「貴方の生きている時代から、ずっと先の日本のこと」
「ほう……」
北斎は、あれこれ頭で思案している。その眼は天井よりも遥か先を見ているようだった。
「ふん。なるほどな。ところで、お前さん、名は?」
「岡田です」
「ほん。そうか。仕方ない。帰り方もわかんねえな。しばらく、地獄旅行といこうかね……」
「だから、ここは地獄じゃないですって」
北斎は歯と歯の間から大きく息を吸い込んだ。
四 隅田川
「それにしても、どうして“みらい”なんかに来ちまったのかねえ」
「わかりませんが……。先の世界に、興味があったりしましたか?」
「そんなもんねえよ。そういえば、お前さんも、なんで儂のことが見えるんだ」
「いや。なんとも。僕も突然……」
二人は顔を見合わせたが、何も解らなかった。
「じっとしているのも癪だ。おい、出かけるぞ」
「一体どこへ」
「知らねえよ!」
ぐいと手をつかむと、それは凄まじい力で引っ張った。
「おい。来て早々に驚いたのが……あれだ、向こうに見える、あれだよ」
指差した向こうを見た。
「あれは……ああ、電車って言います」
「“でんしゃ”だと。最初は蛇かと思ったぜ……。じゃあ、真横の速いのは」
「これは車です」
「“くるま”とな。なんだ、この世界のものは、これほど皆速いものなのか」
「ええ。そうです。昔じゃ想像は難しいですよね……」
「儂は、馬より速いものを初めて見た。こりゃあ面白いな」
面白い、そう言うが口は笑ってはおらず、眼を大きく見開いていた。瞳孔が開いている。
岡田は小さく、
「まあ、江戸人からすれば、無理はないよな……」
と呟いた。
「あと、この色はなんだ。お前の召し物、この色をどう出す」
「あ、ああ。鼠色ですか」
「儂の知っている鼠色ではない!もっと違う色のはずだ」
岡田は困った顔をして、
「流石に、知らないです……」
と答えた。
「……じゃあ、この匂いはなんだ。この匂いは!隅田川近くはこんな匂いではなかったはずだ」
「ううん…空気が汚くなったのか……」
北斎は呆れたような顔で、
「何とも頼りのない返事だな……。しらねえのか」
「ごめんなさい……」
「ったく……。いつの時代も、知っているふりをしている奴は多いもんだな。儂の周りの絵描きもそうだったよ。そんな奴はろくでもねえってんだ」
岡田は、蜂が首筋を刺したかのような感覚を受けた。息が詰まり、白い意識としか言いようのない、止まったような時間が、岡田に突如流れ出した。
「絵描き」か……。岡田もまた、その端くれ…のつもりである。しかし、そうでありながら、このよく見知った土地のことさえ、説明できない。何も知らなかったのだ。その事実に不意に気付かされた。
……そうだ。力不足だ。だから、僕の漫画は一向に面白くない。昔から、絵を描くのが好きな少年だった。しかし、それは専ら想像に任せたもので、描くものの「本当らしさ」は、何もなかった。本当のものではなく、想像なのだから、リアリティなど必要ない、と言い聞かせてきた。しかし、実際はどうだ。この爺さん……恐らくこのとんでもない絵描きは……卓越した写実的才能に甘んじず、まだ知ろうとしている…。きっと自分が頭では理解できないようなことまで。そう、彼の言うところの、「地獄」の隅々まで。
「そういえばお前さん、そういえばさっき“まんがか”と言ったな。それは絵描きの類なのか」
考えている途中、急に北斎が話しかけてきた。しかし、その眼は岡田ではなく、“でんしゃ”に向けられていたのだが。
「…!ああ…そうです。絵描きの類です。もっとも、連載も持っていないですが……」
「そうか。……じゃあ、お前、描いてみろ、この隅田川を」
予想だにしない言葉に、岡田は驚いた。
「どうして。せっかく外に出てきたっていうのに。まだ十分も経っていない」
「ふ。もう飽きたのさ。この地獄はどうも繰り返しが多いことに、気づいたからな。戻るぞ。いいから描け、描くんだ」
岡田の肩をぐっと掴む北斎の手は、思ったよりも大きく、熊のごとくに強かった。
五 黒い夜 黒い川
二人は、早々と部屋に戻ってきた。
「儂はな、弟子に教えんが為に、いくらか漫画を描いたことがある。森羅万象、描き切るつもりでやったが……」
「……」
岡田には北斎の言葉が入ってこない。岡田は背中を完全に丸めてしまっている。思い出したくなかった記憶が呼び覚まされたのである。
「先生。どうでしょうか」
「うん。上手くなったねえ。けど……」
「けど……?」
「君の描くようなものって……果たしてこの世にあるものかい?」
「あります。……たぶん」
「この服は?」
「たぶんどこかで見たことが」
「ファンタジー世界が、最後に頼るべきなのは、リアリズムだよ。岡田くん。がんばれ」
「はあ……」
……
「おい!聞いているのか!これと筆だけつかえ」
北斎は投げ捨てるかのように、岡田に定規を渡した。
「!……はい」
言われるがままに、ペンを握る、が、どう描けばよいのだろう。構図は?角度は?色付けは?そうだ、鳥瞰図にしようか。斜めから見えるような……。
北斎は岡田の描く姿を、じっと見つめていた。誰かしら弟子の姿を、想起したのだろうか。彼は多くの弟子がいたことでも知られている。同業者であるらしい岡田に、師としての感情が芽生えたのだろうか。
それからしばらく経った時である。
「できました」
岡田はぐいと右手をあげた。北斎はうとうとして、首をガクリと落としかけたところで目が覚め、
「うお……よし、できたか」
と言いながら、岡田の作品の方へ目を向けた。
「ふむ……お前さん、器用に仕上げたな……。そうだよな、こうだよな……」
何やらぶつぶつと呟いている。岡田は気付かぬうちに、しゃきっと背筋を伸ばしていた。内心には、不思議な疑問が芽生えていた。
この爺さん、かの有名な浮世絵師、葛飾北斎なのではないか?たとえそうではなくとも、相当な絵描きであるのはたしかだ。信じられないのと同時に、畏怖の感情も湧き上がった。彼はなにせ、神様と呼ばれる偉人の一人なのだから。
「ふふふ……。お前さん、隅田川をこう黒くしたのは、どうしてだい?」
突然北斎が岡田に尋ねた。
「黒に塗りたくった理由、ですか?ええと……」
「じっくり考えてみろ」
「汚いのは事実で、それは黒で描くのがいいかなと……」
岡田の返答に対して、北斎の言葉は意外なものだった。
「それは確かに理に適っている。わしがもしあれを描けと言われても、隅田川の色には苦心するだろう。だが、本当にこの色かい?これじゃあ、夜の闇と、違いがないんじゃないか。夜でもあの色は、きっと目にすることはできると思うがな……儂なら、こうする」
おもむろに北斎は鉛筆に手を伸ばし、岡田の描いたインクの上から、撫でるように何本かの線を引き始めた。……これは水紋であろうか。部屋の光とも反射して、うねるような隅田川が、紙の上にうかびあがった。
「なるほど……」
「ふふふ……この“えんぴつ”とやらは、一眼見て使えると思っとった。この世に筆は一本ではないのよ。そう思い込むからいけねえ。色ひとつでも、昔から摺師に頼り切るのはきらいだったんだ」
北斎は顎に手を当てた。
六 春の夢
「ふああ。今日は疲れたな。儂は一眠りする。場所、借りるぜ」
「え、勝手に……」
返事もよく聞かないうちに、ごろんと横になって北斎は寝てしまったようだった。
岡田の疑念は、確信に変わった。
この爺さんは、葛飾北斎に違いない。でも、どうしてこんな場所に?夢か?北斎に握られた肩はたしかに痛かったのだ。まあ、夢でもなんでもいい。……岡田は、今日この日、死んでも構わないと思っていたのだから。
「先生」の亡き後の一年間、岡田はひとりでマンガを描き続けてきた。いい出来だ、と思ったものも何作か仕上げた。しかし、彼は連載を手中にすることはなかった。狭き門である。平成7年の冬、とは週刊少年ジャンプの最多発行部数を達成する頃である。マンガ少年とは日本中、いや世界中に存在していたのだ。
編集者のことばは、いつも冷たかった。
「岡田先生。二番煎じはよくないよ」
「はあ……」
「なんかねー。どっかで読んだことがあるんですよね。先生の作品って」
「オリジナリティは……あるはずです」
「でも、読み手にわからなきゃ意味ないでしょう」
編集者のAは、長い黒髪をかきあげて、足早に去っていった。
「どうすればいいってんだ……」
思い切り壁を蹴ったが為に、右足の親指がじいんと痛んだ。
岡田は、マンガを嫌いになりつつある自分が、哀れに思えて仕方がなかった。少年期、授業中もずっとノートに落書きをしてきた思い出。美しい空を美しいままに、自由に描きたかった。想像の世界の中では、何でもできて、何でも叶った。
しかし、この世界は何だ。編集者は、売れることしか考えていない。二番煎じだって?そんなもの、この世にごまんとあるじゃないか!何で僕だけ……、何が悪いんだ……。
岡田はついに、すべての物事に対する意欲が失せてしまった。ぼうっと、隅田川を眺めて、ここに真っ逆さまに落ちたら、どんな気分だろうと考えた。死んだら、あの編集者も、手のひらを返して、評価を一変させるだろうか。それとも、嘆き悲しんで、一生残る後悔を与えることができるかもしれない……。悪魔はこう囁いた。でも現実は……そこまで自分に論じかけて、やめた。
自分の人生が、急に退屈の象徴であるように思えてきた。何だ、「先生」の葬式場から泣きながら出ていったときから、僕は何をやっていたのだろう。ぼくがやってきたことは、至極つまらないことだったのか。彼の姿勢がどんどん悪くなっていった。その時、北斎が目の前に現れたのである。
北斎は方はと言うと、目を瞑りながら、自分が江戸にいた時のことを思い出していた。
街ゆく二人の女が、こんな話をしている。
「見たかい、東都名所。あれはいいね」
「ふん、わたしゃ昔からあの絵描きが好きだったのよ。いつかこうして……」
「分かってたっていうのかい」
「そうサ。あんたより目はいいからねえ」
北斎はわなわな震えながら、外に向かって思い切り怒鳴りつけた。
「うるさい!」
女たちは驚いた顔をして、北斎の家の前から逃げるように向こうへ行った。
「鉄蔵。気にするのはよしなよ」
栄が優しく声をかけた。
「ちくしょう……分かってらあ」
感情に任せて筆を持ってみるも、一向に手が動かない。絵の輪郭が見えてこないのだ。
かつて自身で手がけた「北斎漫画」で描いた人物たち。そいつらも北斎をコケにして笑っているようだ。
「ケケケ、耄碌が近づいているのも、分かっている癖に」
「まだ画業なんて続けているのか。ははは、お前さんも馬鹿だな」
「描かないのが無難だと思うぜ。じいさん、隠居だよ、隠居」
全て幻に違いない。そうに決まっている。そう……。
「儂に命を吹き込まれていながら……。くそっ、口を閉じさせてやる」
北斎は物凄い勢いで三つの口元に一本線を描き足した。そのとき、一本筆をだめにしてしまったことは、北斎は生涯公言することはなかった。
その次の日も、また次の日も、北斎は一つも描けなかった。悔しいやら何やらで、爪を噛むと、ぶわっと血が出てきた。その朱を紙に一滴垂らしてみた。どんどんと広がり、紅い穴が空いたようになった。
「この血……儂は画業に血肉を捧げてきた……はずだ」
様子を見かねた栄が、どうやらクワイを買ってきたらしい。しかし、北斎は一つも手をつけなかった。じっと一日中、小さな小さな血の池を眺めていた。目線が吸い込まれる感覚である。
「はっ。儂もついに潮時か……?」
ふと、悟ったかのように、北斎はぽつりと呟いた。何を描いている。何のために?儂のやることなんざ、何の意味もないではないか。幼少の頃から、退屈凌ぎで、やってきただけではないのか?どうせ描かなくたって、無彩の日々が戻るだけ……。
ある日、版元が来ても、何の話もできなかった。つまらん。実につまらんのだ。何を描けって?儂に描くものなどない。
「おうい。出かけてくる。もう、帰ってこねえかもしれねえが」
こう言ったところまで、憶えてはいるのだが。
七 宵闇せまれば
気づけば岡田も眠りこけていたようだった。さっきまで真昼だったような気もするが、もう辺りは暗くなり始めていた。
北斎は相変わらず……と思っていると、急にがばっと起き出した。
「おい。腹が減ったぞ。お前は、どうだ」
「少し早いですけど、飯でも食いまし……」
岡田は重要なことを思い出した。この爺さん……あらため北斎の姿は、自分にしか見えていない。二人前を頼むのか。飯代が嵩むなア……。
「……ただし、安いところで」
急いで付け足した。
「おう。贅沢は昔から好かねえ。なんなら、お前の余でいい」
天才の中には食い意地を張っているやつもいる。岡田はすっと胸を撫で下ろした。
「どうせなら、安くてうまい、究極のメニューにしましょう」
「なんだあ?その“きゅうきょくのめにゅー”ってのは?」
「ははは、昔の流行りです。行きましょう」
北斎は暫く首を傾げたままだった。
二人が向かったのは、両国駅前である。
「ほう、中々に賑わっているな。ここは」
「駅前ですからね」
「えき、とな」
「彼処のあたりには力士の絵とかありますよ」
「おお……」
北斎は勝手に改札を抜けていったので、慌てて止めようとしたが、他のものには見えていないので問題はなかった。
「懐かしい。ふふ……昔々ことだが、儂は雷電を描いたのさ。……多分今なら、下手で見てられねえが……。当時のことはよく覚えている」
「あの伝説の」
遠いので少し大きめの声を出す。そのせいで周りがぎょっと立ち止まってしまった。
「ああ。今思うと、どうしてあんなふうに、描いたのかな……。じつに若造だった、悔しい、悔しい……」
北斎は静かに目を閉じた。当時はまだ三十代である。
「勝川春朗(北斎の当時の雅号)、おぬし、一段と腕を上げたな。兄弟子である俺の目から見ても、この雷電爲右エ門は、実に見事なものだ」
「春英か?年下のくせして何を偉そうにぬかしてやがる。お前の絵は昔から嫌いだ。お前が勝川の名を継いだこと、いまだに気に食わねえんだぞ」
「まあ、誉めてやっているんだから、素直に聞けよ」
「くそっ。どうせ俺ならこうする、ああする、やら言いにきたんだろ」
「そんなこと俺はしたことないだろう……全く、お前は昔から話を聞かない奴だな……」
「他人の言うことなんざ聞かねえ。……儂は今日でも、あんたのところから抜け出てやるつもりなんだからな」
「おぬしの好きにするがよかろう。はあ、去年あたりから、おぬしは態度が悪くなる一方だな。先代春章が生きていれば、どんな顔をするやら……」
それから間も無くして、北斎が長く世話になった勝川一門のもとを飛び出すのは、歴史の事実である。
「雷電も春英も、先に逝っちまいやがって……」
北斎の小さな呟きを、聞くものは誰もいなかった。
二人は結局、近くにあった蕎麦屋の暖簾をくぐった。
「御免ください」
「あいよ」
蕎麦屋の主人は少し、驚いた様子を見せた。
「座っていてください。頼んできます」
岡田は一人で注文口へと向かった。蕎麦の選択は、自分でも悪くないな、と思った。
「すみません。かき揚げ蕎麦ひとつ」
何気なく頼んだ、その瞬間である。
「ふふふ、お客さん、二人前じゃなくて、いいのかい?」
「えっ?」
あまりに突然のことであった。動揺のあまり、息が詰まった。主人はうつむいており、目元はよく見えない。口元はどこかほくそ笑んでいる。
「だ、だいじょうぶです……」
岡田はそそくさと撤退した。先に席に座っていた北斎が尋ねる。
「おい、どうした」
「いや……あの主人、貴方のこと、見えてるんじゃないかって……」
「そんな訳がないだろう。今の今まで、儂の姿はお前しか見えていないんだぞ」
「そうですよね、そうか、錯覚か……」
ずるずると啜っている時も、頭から離れない。うーむ、こんな痩せ形の自分が、食いしん坊に見えたのか?あの微笑みは?この店、何かがおかしいのか……。気になりだすと、飯は腹に入っていくが、身に入っていかない感覚がする。
「ごちそうさま」
箸をおいて、店の戸を背にした。主人は不思議な言葉を残した。
「お客さん。あんたはきっと、また来るよ」
ぞわっと寒気がした。また来てください、ではなく、また来るよ……?まるで運命付けられているようじゃないか。気味が悪い。
「……やっぱり見えてましたって」
そんな岡田をよそ目に、北斎はぽつり呟いた。
「はて……?あいつ、どこかで見たような気がするな……」
宵闇せまる、両国だった。
八 ANIMATE
アパートに戻ってきたのは戌の刻であった。
「飯を食い終わっちまうと、することがねえな。寝るのも惜しい……」
「退屈凌ぎに、映画とか観ておきますか」
「ほう、“えいが”とは何じゃ」
「観ればわかります。きっと驚くんじゃないかな」
岡田はテレビの下の小さな棚からビデオテープを取り出した。そこには、油性マーカーで『バンビ』と記されていた。
「これは、僕の先生が、凄く好きな映画でしてね、死んだ後に譲り受けたんですよ。何でこんな古臭いのを……」
「はっ。儂にはわかる。その先生とやらが、尊敬している奴が好きだったんだろ。そういうもんなのさ」
北斎は妙にわかりきった口ぶりだった。
「岡田くん。マンガ家っていうのはね、漫画から着想を得たらダメなんだ。過去に漫画でできたことを、もう一回やるのは、面白くないじゃない?」
「たしかに」
「だからね、映画を観るんだよ。小説も読むんだ。……でもぼくは文字が苦手だったから、映画一辺倒だけど」
「なるほど」
「ぼくは特にアメリカ映画が大好きでね。『スターウォーズ』もいいが、うーむ、やっぱり『バンビ』が一番だね。いつの日か、ああいうのを描きたいんだよなア……」
「いいですね」
「岡田くん、きみ、知らないだろう。貸してあげるから、早く見なさい」
先生はニヤニヤして、たいそう愉快に語っていた。残念なことに、バンビの世界を描く夢は、叶うことはなかったのだが。
「ちょっと待ってくださいね……」
小さなテレビ画面である。しばらくすると、ビデオ会社のロゴが出てきた。
「うわあ」
当然の反応である。子供なら親から叱られるぐらいの距離で、目を皿にしていた。その時、殆ど条件反射のように、紙と筆を手に取る。その速さには感服せざるを得なかった。
「おい。この箱の中に……」
北斎の手が素早く動く。
「ええと。説明は難しいんですが……。これは、アニメーションって言いまして、簡単に言えば、パラパラマンガの要領で、動いているように見えるって訳です。要は、これは絵の連続なんです」
「ぱらぱら?」
「あー……僕が実践してみましょう」
岡田は簡単な落書きをメモ帳に描いて、実演してみせた。
「どうです。動いているでしょう」
「ほおん」
意外にも反応が悪い。この人は江戸の人である。もっと、わかりやすく驚かないのかな、と思った。
「それの応用で……」
「そうか。なるほど。儂も実はな、そういうことをずっと考えておったのよ……。ひひひ、儂は正しかったのだ……」
「ん……?」
「いやあ、昔のことよ……」
ある日、北斎の若弟子が、こんなことを聞いてきた。
「先生、この間お描きになった踊獨稽古、あれはやっぱりおかしいと思います」
「ん?どこがおかしいっていうんだ?」
「一度踊るのに、人間はこんな余計な動きはしていない」
弟子は絵を指指しながら言った。
「おいおい。そいつは違うぜ。儂はあれでもまだ描き足りないと思っているぐらいだ。だから、北斎漫画の方では、それより多く描いているっていうのに」
「だって、踊る時にあんな格好はしてません」
「いや、お前が気づいてねえだけだ」
「いや、おかしい」
「お前さん、まだものが動くっていうことの、仕組みがわかって無いと見える……。勉強しな!」
この時は突っ返して終わった。
北斎の鋭い指摘が飛んできた。
「しかし、こう滑らかに動くのは……なぜだ」
「そうです、相当な枚数です」
「そうだろうな。色も摺師も……」
やはり、北斎の感性はずば抜けている。アニメを見て、その仕組みを感覚的に理解する江戸の人間が、いくらいるだろうか。どうせ、まやかし、幻術の類だと言って腰を抜かすのが関の山であろう。しかし、冷静な判断と確かな技量に裏打ちされた北斎の眼は、遥かに一般人を凌駕したものだった。
「しかし、それじゃ音の説明がつかねえ」
「音は、別で撮っているんです。実験しましょう」
岡田はパラパラマンガのキャラクターに母音を発音する際の口の形を描き足し、「あ」「い」「う」と自分の声を合わせてみせた。
「なるほど。これは面白い、面白い」
北斎は得意の一筆書きで、岡田の真似をした。
「絵から声が聞こえたら、確かに面白いのになア。おい、これ、持って帰れねえか」
「流石に無理……帰り方まだ解らないでしょう」
「そうだったな……」
急に我に帰ったように、北斎は頼りない声を出した。しかし、すぐに勢いを取り戻し、
「まあ、何とかなるだろ。ようし、儂は寝るからな」
近くにあった毛布を奪い去るように取り上げ、早くも包まってしまった。
「あ、それ僕の!」
……どうやら一足、遅かったらしい。
九 先生と遺書
岡田はその夜、眠れなかった。それは決して寒さのせいだけでは無い。ふと、彼の中の遠い記憶が呼び覚まされた――じつに、一年と三ヶ月前のことである。
突然、仕事中に先生は倒れた。原因は間違いなく、過労である。偶然に岡田が仕事場にいたから良かったものの、後数分でも連絡が遅れていれば、最悪の状況であった。お見舞いに行ったのは、2日後のことである。
「先生、……?」
「はは、大丈夫さ。それより仕事を……」
急に痩せこけてしまった先生の姿を見て、岡田は言葉が続かなかった。もう少し、僕が気付くのが早ければ、もう少し、先生の仕事を手伝えれば……よかったのに。後悔の念がずきんずきんと、胸を締め付ける。
「岡田くん、ファンレターが来ているみたいだ……。返事を……」
「だめです、先生」
「貸しなさいと、、、言っているだろう!……」
先生の怒号を聞いたのは、これは最初で最後だった。弱々しい指先を引きずりながら、何十通と届くファンレター、応援メッセージにサインを描いた。先生のサインは蝶々、その両羽にイニシャルを添えた、非常に可愛らしいものだった。元気な時と、寸分狂わない絵柄に、岡田は驚いてしまった。長いメッセージには、先生は何と蝶々を二頭も描いていたのだ。まるで番いのように。
「何週も休載してる……これではだめだ」
「何週って……まだ二回しか、休載してませんよ」
「いや……休んではいられない……新作の構想も、山ほど……」
看護師の話によると、夜な夜な起き出しては、ネームを描いていたそうだ。見回りに来た看護師の一人が注意をしたが、まるで聴こえていなかったそうである。それが先生の寿命を縮めたのは、もちろん否定はできないのだが。
岡田は先生の一番の兄弟子であり、後輩たちは殆ど連載を抱えていた。皆、仕事があって忙しいというので、岡田が毎日病院に赴いた。
「せっかく来てくれたんだし、ここで……描いていきなさい」
「ありがとうございます。先生」
「岡田くん、入院したって言ってもね、悪いことばかりじゃ……ないんだ。ぼく、今まで朝日もろくに浴びてこなかった。でもこの201病室をみてよ。……すごい日当たりがいいじゃない。これをネタに新しい話でも描けそうだ」
岡田は一瞬考えて、こう口にした。
「そうです、先生。いっぱい描いてください。何でも」
「そうだよね。描かなくちゃね……。そうだ、ちょっと趣向を変えてみよう」
先生の声色が元気になった。岡田としては、それだけで満足だった。
入院して一ヶ月が経ち、先生は活力を取り戻しつつあった。
「先生、今日も来ました」
「おう、よく来たね。最近は筆の進みも良くてね。医者もびっくりしてるんだ。そろそろ、連載に戻ってもいいか?って聞いたら、まだ大事を取ってくださいだって」
「そうでしたか……ところで先生、趣向を変えてみるって仰ってましたけど、新作ですか?」
「いや……ぼくね、一度自分のことを、マンガに描いてみようって思ってさ。若い頃の自分をモデルに……はは、何を驕り高ぶっているんだろうね……」
「いいじゃないですか!読ませてください」
「まだ完成してないから、だめ」
「……それは楽しみです」
「さて、今日もファンレターを返さなくちゃ。ほら、帰った、帰った」
「お元気そうで、何よりです。僕、これから忙しくなりそうで、ちょっと来る頻度が落ちるかもしれません。今日は、これで」
「ありがとね」
先生はニコニコ笑っていた。
今から考えれば、漫画の神様が先生に、最期の力を与えていたのかもしれない。それ程までに先生の創作意欲は旺盛であり、全盛期とまではいかなくとも、それに追随するほどの精力を見せていた。ある朝、ペンを握りながら眠るようにして亡くなったと、担当の看護師から知らされるまで、岡田は何も意識することなく、生活していたのだ。
葬儀の場で、先生の年老いた両親から、とあるものを預かっていると聞かされた。
「これ、息子が岡田さん宛に……」
中には原稿が入っているようだった。紙のしなり具合から、熱心に描いていたことが窺える。汗もよく乾いていないようだった。それを手で触れた瞬間、抑えていたはずの涙が滝のように溢れ出た。宛名が記された下に、鉛筆で書かれたタイトルらしき文字が見える。
岡田くんへ 『平賀幻想譚』
前書き
マンガの癖に、前書きとは!と思うかもしれませんが、一つ断っておきたいことがあります。この話は全て、実話に基づいた物語であることです。僕のこの話を、誰も信じませんでしたが……
岡田はここまでしか読むことができなかった。後悔と自責の念で、どうしても、手がわなわなと震えて動かない。岡田はついに原稿を棚の奥にしまって文字通り封印してしまったのである。その後長い間、ひとつも手をつけなかった。
ジリリリリ……
騒々しく目覚ましが鳴る。朝日が部屋の埃を黄金の雪のように照らした。北斎はまだ床に横になっている。時たま、耳元をガリガリ掻きむしりながら。
この人は北斎だよな……ううむ、先生の「平賀幻想譚」……“ひらが”……?平賀源内?……この話は、実話である……?誰も信じなかった……?この状況、先生の話と、近しくはないか?
「うう、朝か。なんだか五月蝿いな。もう少し寝させろい」
そんな爺いの戯言は岡田の耳にまるで入っていない。手当たり次第に棚の中を探した。……!この古い茶封筒は!
「あったぞ……『平賀幻想譚』」
勢いよく封筒の中から取り出したが、岡田はふと思った。これほど薄かっただろうか。もっと枚数が嵩んでいたような気がするが……気のせいだったのかもしれない。横から北斎が覗き込む。
「何だあ、これは」
「いや、北斎さん、帰れるかもしれないですよ」
岡田は無意識に「北斎さん」と言った自分に少し驚いた。
「おう。そうか。ところでお前、儂の昔の雅号をいつ知ったんだ?」
「詳しい話はあと!まずこれを読まないと……」
岡田は目を閉じ、よしと決心して、原稿を捲った。変わらぬ前書きである。文章は、こう続いていた。
僕のこの話を、誰も信じませんでしたが、きみにだけは、伝えておこうと思います。そして出来れば、このマンガをきみの手で“完結”させてほしいのです。それが、ぼくの最後のお願いです。
十 平賀幻想譚
――『平賀幻想譚』は、未完だったのである――
「最後のお願い」か……やっぱり、先生、解っていたんじゃないですか……。ゆっくりと次のページを捲った。
――舞台は、両国――
思った通りだ。読み進めてみよう。あ、先生そっくりなキャラがいる。
「何だこれは。中々腕の立つやつが描いたな。自力が見えるぞ」
北斎が耳元で大きな声を出した。
「ちょっと黙って!」
「おう、こりゃあ、わりい……」
すごすごと北斎は退いた。
初めて先生の作品を読んだ子供の頃のように、岡田は夢中になって読んだ。
……なるほど、主人公は売れないマンガ家で、一度、絶望のあまり吾妻橋から飛び降り自殺を図る、と……。その時、そこに偶然現れたのは……平賀源内だって!教科書でみた、肖像画にそっくり。へえ、源内の知恵を借りて、描く意欲が湧いてきた、と。ははは、源内はこんなこと言わないでしょ!ほんとかな?「杉田玄白は真面目すぎるやつ」だって?そんなこと言っちゃダメだろう。他にも、先生がマンガを描いてるところを源内が邪魔して、そこから新作のギャグが生まれるところもいい。……先生のマンガ、やっぱり面白いなあ。岡田は思わずため息が出た。
先生の作品は、基本的にギャグマンガである。ナンセンスではあるのだが、優しさに溢れているようで、元気になる。「ぼくのマンガは誰かのビタミン剤にならなきゃいけない」は口癖で、門下にもそう教えていた。下戸で、酒にすぐ酔っ払うと、自分のマンガの登場人物を、まるで友達のことのように喋っていた。
先生のセンスはギャグだけではない。それは何と言ってもコマ割りに現れる。それは恐らく映画に根付いたものであろう。街の女性をハッとクローズアップで捉えれば、それはまるでグレタ・ガルボの輝きであるし、すっと市場を俯瞰で捉えれば、その世界はベン・ハーの闘技場に匹敵する。それほどに、ダイナミクスの使い分けが天才的であった。
いよいよ最後のページまで読み進めた。なになに……二人の会話で終わりを迎えるようである。「作品が売れてきたから、ぼくは引っ越さなくちゃいけなくなった」「それはおめでたいね」「きみは……江戸に帰らなくていいのかい?」、「ああ。構わないさ」「それじゃあ、江戸に残した人はどうするんだね」「いや、本当にいいのサ……だって……」
マンガはここでぷつりと終わってしまった。
『平賀幻想譚』は、実話であるらしい。ついこの間であったならば、また冗談を、と言って笑っていたかもしれない。岡田は傍で暇そうにしている北斎を見た。先生、僕に「完結させる」自信はありません。けれど、何かできることがあるかもしれない。足掻いてみよう。
岡田の胸に希望の光が灯った。
……完成させる鍵は、平賀源内。恐らく、彼もまた江戸から現代日本に来たひとりだろう。もしこのマンガの話の通りであるなら、平賀源内は、“江戸には帰らなかった”ようだ。おかしい、確かに江戸時代に死んだはず。もしや、まだ両国のどこかにいるのか?
岡田は原稿の端を綺麗に合わせて、もとの封筒の中へ戻した。
「北斎さん。江戸に帰りたいですか?」
「そりゃあ、帰れるなら帰りてえけどよ」
「貴方のように、未来に来たと思われる人がいます。その人物の名は、平賀源内。ご存じですか」
「ああ。知っているとも。天下一の変わり者で、評判だった。しかし、儂が若い時に、とっくに死んでいるはずだがね」
「僕もそう思っていたんですが……どうも、この両国にいるみたいなんです。北斎さんと近い状況、きっと力になってくれます」
「そんなことありえないだろうよ!」
「いやいや、貴方がここにいるのも、訳がわからんでしょうが」
「おうおう。そうだった、そうだった」
二人は大口を開けて、笑いに笑った。
十一 えれきてる
源内を探し出す、とは言ったものの、ヒントがあまりにも少なすぎる。
「北斎さん、出かけますよ」
「儂は……いやだ。今日は外に出る気分ではない!」
「そう言ったって、帰れるかもしれないのに……」
「いやだと言ったら、いやだ!」
テコでも動かないつもりらしい。部屋の真ん中で丸まったままである。仕方なく岡田はひとり部屋を後にした。描きかけの原稿が、実はまだ残っていたのだが……。
両国といえども、その土地は広大である。どこに行けばよいやら、てんで見当もつかない。
北斎から隅田川の色の話をされてから、水面の見方が変わった。以前よりも、より克明に澱みが見えるというか、ある種の恐ろしさを感じるようになった。するとどうだろう、普段見慣れている両国その土地が、完全な異世界そのものに生まれ変わっているように感じた。もしかすると、迷い混んでいるのは、北斎ではなく自分自身なのではないか……。そんな話を誰にしたとしても、首を傾げるに決まっているのだが、そう思わずにはいられなかった。
岡田にとってもうひとつ有意義だったのは、源内探しと銘打って、人間観察の機会を得たことである。ランニングしている男のフォームは、岡田の想像していたものと大きく異なっており、小さい子どもは思いもよらないところで転びそうになる。
「先生、お子さんには興味ないんですか」
「岡田くん、それ聞いちゃうの?僕は奥さんにも興味がないし、子育てなんか大の苦手なんだ。わかるだろ?」
「そうでもないと思いますよ。先生みたいなタイプは、きっと子煩悩ですね。娘なんかが産まれた日には……」
「ふん……女の子なんて、マンガの中だけで十分さ」
いつか冬の時期だったかと思うが、先生はなぜかその夜いつもより深く布団をかぶっていたのを覚えている。
歩き通して、清洲橋のあたりまで来た。
「何か手がかりになりそうなものは……」
ふとあるものが岡田の目に止まった。
「平賀源内電気実験の地、だって……?」
石碑には、確かにそう刻まれていた。注意しなければ素通りしてしまうほど地味な石碑である。
「へえ……歴史で習ったエレキテルの実験場所ってここなんだ……」
岡田が感心していると、
「知らなくっても、無理ねえな」
背中から突然男の声がした。
「わあっ!誰?」
岡田は慌てて振り向いた。その声の主は、あの蕎麦屋の主人であった。
「あなたは……蕎麦屋の……」
岡田が言い終わらない内に、
「ひらが、げんない、ね……あいつはうちの、常連だったんだ。マンガ先生と一緒によく来ていたのさ。どこか、あんたと似ていてね……」
「それって……」
岡田は念のためにバッグにしまっていた原稿を取り出し、主人に見せた。
「おお……この絵は実にそっくりだね……。あんた、やっぱり弟子か何かかい?」
主人はしみじみと原稿を眺めて、岡田に尋ねた。
「そうです」
「はは……似ている訳だな。先生は元気か?」
「先生は……亡くなりました」
主人はひどく驚いて、
「……そうだったのか。まだまだ若い才能だったろうに……」
と俯いた顔から小さな言葉を漏らした。
「僕は……先生を知っている方がいるだけで、嬉しいです」
「あんた……。ふ。奴もいい弟子を……。おっと、俺はもう行くからな。それじゃ」
主人は見かけによらず、歩くのが早かった。
「あ!待ってください!」
「ん?」
「さっき仰っていた、平賀源内……さんは、今どこにいるか、ご存知でないですか?」
「源内、ね……ははは。奴は今どこに居るんだろうなあ!はははは!」
主人は両の手をポッケに突っ込んで、陽気にその場を去っていった。
十二 富士の高嶺に
岡田が家に帰ると、驚くべき光景が目の前に広がっていた。本、紙、それに鉛筆までもが、縦横無尽に床に転がっていたのだ。
「おう。帰ったか。ちと、散らかしちまったが……」
ちと、どころではない。人生のうちに何度も引っ越しをしたことで知られる北斎だが、その逸話は、どうやら本当であるらしかった。
「……ちょっとは部屋を綺麗にしましょうよ」
「うるさい。そんな暇があったら一枚でも描けっていうんだ……。そうだ、お前さんに聞きたいことがある。おい、これは一体なんだ」
北斎が差し出したのは、日本にある自然を余すことなく記録した写真集である。
「ああ、これは写真で……マンガの資料に使っていたんです」
「しゃしん?こんな忠実な絵が……この世にあるのか?」
「えーと……僕も仕組みはよく解らないんですけど……うーん、なんて言ったらいいのかな……?」
「儂は森羅万象、全てを描き切る覚悟で今まで生きてきたつもりだ……。万物を写すことに限っては、自信もあった……。しかし、これは……」
「北斎さん。これ、絵ではないんです……」
「これが絵ではないだと?」
「光を、こう反射してて……だめだ、僕には説明できない」
「そうか、いや……。儂の目についたのは、この富士だ」
北斎が指差す先には、朝焼けに燃える富士が映っていた。
「ああ、これ、いい写真ですよね」
「ううむ……。こちらに来てから、ろくに描きたいものがねえと思っていたんだが、こいつは凄い。悔しいなあ……」
「いや、北斎さん、貴方の絵では富士山が一番ゆうめ……」
そこまで言いかけて、岡田ははっと気づいた。待て、雷電爲右エ門の時は、前に描いたと言っていたが、今回は富士の山のふの字も出てこない。おかしい。もしや、まだあの歴史に残る大作、『富嶽三十六景』をまだ、生み出していないのではないか。
「北斎さん、これ、みてください」
岡田は本棚の奥にしまわれていた歴史資料集を取り出した。そこには確かに「江戸時代の文化」と書かれている。
「何だ……?儂には白一色にしか、見えないぞ……」
北斎の目には、何も映っていないようだ。過去の人間に、自身の未来を知ることは不可能なのである。
「そうか。無理か……。北斎さん、貴方は、やっぱり江戸に早く帰らないといけない」
「?」
「貴方は将来……世界が認める絵師になる。富士山の絵を描いて、それが凄く有名になるんです。まだお描きになっていないようですけど……」
「おい、何でも知ったような口を!もしや儂の運命を、お前は知っているのか……?」
「……はい。誰でも習います。天下一の浮世絵師、葛飾北斎は……」
「であれば、儂の死に様も知っているのか……」
「調べれば出てくるとは思います。ただ……」
「おい、勘違いされちゃ困るぜ。儂は運命なんぞ知りたくない。天下一の画工になんざ、微塵もなれたと思っちゃいない。ただ、儂は……心底驚いたのだ。その、しゃしんとやらを見て……。あれほどの写しは初めて見たと……」
アニメーションはその原理をすんなりと理解し、写真にこうも驚くとは、何とも北斎らしいではないか。……北斎の魂は、確かに揺れた。
「……儂は、これに勝たねばならない」
「……は?」
「儂はいつか富士を描くのだろう?その時には……このしゃしんとやらを、超えなければ意味がない……。帰るのはまだだ」
北斎はそう呟きながら、北斎は筆をぐっと握りしめ、吸い込まれるように紙と向き合った。岡田はその時、連載に取り組む先生の姿を思い出した。
「先生……」
岡田はしばらく突っ立ったまま、北斎の異様な猫背をただただ見つめていた。
十三 六等星
北斎はろくに水も飲まず、取り憑かれたように富士山を描き続けた。岡田は隅で、自身の原稿を仕上げていたが、妙に懐かしい感覚があった。先生が奥で黙々とマンガを描き続け、アシスタントたちがその後ろでベタ塗りを担当する。薄暗い部屋で、ペン先が擦れる音が響く。岡田は特に先生の直線を引く音が好きだった。先生の描く一本の線で、いかなるものにも命が宿った。これは決して比喩表現の類ではない。先生の描くキャラクターたちは、老いも若きも、人も獣も、こんなに優しい顔をする……。
「先生、さすが!今回もすっごく面白いです!」
「いや……。僕なんてまだまださ」
「僕は……このイヌの顔が好きなんです。めちゃくちゃ可愛くないですか?」
「お。いいとこ突くねえ。あんまし出番はないけれど、僕のお気に入りなんだ。……実を言うと、アイデアは他の人から拝借したもんなんだけど」
「ええ?僕でも知ってますか?」
「ははは。日本中が知ってるよ……」
先生が誰のことを言っていたのか……岡田はずっと後に気づいた。
気がつけば夜も更け、北斎の描いた富士の絵はまるで山のようになっていた。
「……夜風にでもあたりに行こうかね」
北斎はこう呟くと、手ぶらでドアのほうへ向かった。
「北斎さん、待って!」
「ああん?」
「窓の外、見てください。今日は満月ですよ」
星が幾千も輝き、丸い月がまるで夜空にぽっかり穴を開けたかのようにこちらを見ていた。
「ふん……こちらの世界は、昨日も思ったが、夜がつまらねえよなあ」
「えっ?」
「明るい、明るい。夜でもものがよく見えるなんてえのは、実につまらないと思わねえか」
「ああ……」
「思い出すねえ……昔々、儂は仮名手本忠臣蔵を描いたんだが……ふふ、あれには自信があったんだ」
「どうして?」
「お前さん、忠臣蔵の絵は、いくらか見たことがあるかい?」
「ああ……一回はたぶん」
「その時、あれは真夜中の事件なのにも関わらず、堀部安兵衛、大石内蔵助なんかの顔が、見えすぎやしないかと思わねえか。辺りは、夜の闇に沈んでいるはずなんだぜ」
「考えたこともありません。だって、あれは人物絵なんですから、夜でも、顔をはっきり描くのは当たり前でしょう」
「儂はその考えが嫌いだったんだ。しかし……忠臣蔵を描く以上、顔が見えねえってのはよくねえよな?そこで儂は……ふふ、どうしたと思う?」
「どうされたんですか?」
「はっ。儂はそこに星や月を描いたのよ。そうすることで、夜でも光が確かにあって、顔が見えることが説明つくだろ?有明の月は出鱈目なんだが、我ながらいい手だった……。でも、この世界は何だい。お星様が見てて呆れらあ」
岡田は苦笑いをしながら、
「……ところで、北斎さんは知らないでしょうけど、明るい星、小さい星と色々あるでしょう?一見、明るくて大きい星がここから近いと思われがちですが、そうでもないらしいです。ここから遠く遠くにある星が、実はとっても大きかったりするんです」
「儂の知り合いには幾らか学者の類の奴もいたが、そいつも天文学が好きでねえ。今度、その話でもしてやるとするか。中々面白いじゃねえか」
「ついでに言っとくと……ここ最近じゃ月に変わってお仕置きする女の子もいます」
「何だそれは。異国の伝説の類か?」
「伝説……間違っちゃいないですかね。はははは」
「けっ……おかしな奴だ……英泉にでも逢わせてやりたいよ」
「えいせん?」
「ああ……儂の……弟子だ。腕は悪くないが……」
「へえ……」
「本当に、うるさいやつらだ……」
岡田はのちに、英泉の名をとある資料から見つけ出すことになる。
『北斎肖像 渓斎英泉筆』
十四 おもひで
――昭和53年(1978)、春――
「源内さあ、なんかいい考えとかない?何も浮かんでこないんだ」
「ん……?お前はもう、一人前のマンガ家先生なんだぞ。それくらい自分でやれい」
「ごむたいなあ、源内。お江戸の誇る天才なんだろ?」
「ありゃあ幾つか間違いがある。誤解されちゃあ困るぜ」
「そういうことじゃない……。もう僕ら一緒にいてもう長いじゃないか」
古びたアパートの一室で、まるで正月の羽付のような会話である。
「お前はもうすぐ独り立ちするんだろう。引っ越しが決まって、よかったじゃないか。やっと連載も始まるっていうのに」
「源内……僕はね、だんだん自信がなくなってきたんだ。マンガっていうのはさ……凄く……何というか、エゴじゃないか?」
「えご?」
「つまり……我儘じゃないか。僕の描いた絵と物語を、人様に見てもらう、読んでもらうってこと。それを読んで……読者を幸せにしなくちゃならないんだけど……。果たして僕にそんなことができるのかって……」
「何を言ってるんだ。俺はお前に初めて会った時から、これあ、大物だと思ったんだぜ……。心配することあるもんか」
「源内、君は天才だから、そんなことが言えるんだ。僕みたいな凡才は……」
「ははは……お前、つくづく思うが、俺の弟子にそっくりだなあ」
「弟子?」
「そいつは、小野田直武というんだが……立派な絵描きだった。しかし、どうも謙虚すぎるところがあってな……『解体新書』にも余計な一文を書くような男だ。その面影を思い出したよ」
先生は少しばかり黙って、俯いたまま呟いた。
「……僕はマンガ家として、これからやっていけると思うかい?」
「何回言わせるつもりだ。お前は、大丈夫だ」
先生は顔を上げた。
「源内、僕はいつか、ここ両国に戻ってこよう。君がいなかったら、こうも上手にマンガを描くことはできなかった。ありがとう、感謝してるよ」
「おう。ありがとよ、待ってるぜ。その時には……お前さんと俺だけが知ってる“秘密”を話の種にして、新作だな!」
「ははは。“それ”をネタにするのは、僕にとっては禁じ手だ。やっても人生最期のときにだね」
「禁じ手だと?きっと面白い話になると思うぜ……ひひ……歴史がひっくり返るかもなア」
「面白いからこそだよ、源内。事実は小説よりも奇なり、僕はその言葉は嫌いなんだ」
「嫌い?」
「ああ、小説やマンガの類は、現実なんかよりも面白いから価値がある。現実に起こったことに僕のマンガが超えられたら、それはもう敗けなんだ。君との出会いは、現実だろう?」
「なるほど。……お前の顔は、もう立派なマンガ家だよ」
「ふふ……」
数日後……
「じゃあね、源内。ここの鍵だけ渡しておくから、元気でね」
「おう。……源内、と呼ぶのはよしてくれ。俺の、本当の名前は……」
「……!」
「……お前は、天下一の男だ!」
「ありがと!それじゃ!」
はははは……!
はははは……!
「人生最期に、やったってわけだね?……先生」
蕎麦を湯がいていた主人の手が、一瞬だけぴたりと止まった。
十五 決意の春に
平成七年の冬は終わりを告げて、春を迎えようとしていた。
「北斎さん。暖かくなってきましたね」
「そうだな。久々に桜でも描くかね……。こっちの桜はどうなんだ」
「いやあ……綺麗だとは思いますけど」
二人は両国公園へと向かった。
「江戸と違って、桜に邪魔が多いなあ……」
「北斎さん……さすがに江戸時代と比べたら……」
すっと腰を据えようとした時、耳馴染みのある声がした。
「おい、岡田、元気かよ。お前」
「森山!」
「誰だい、こいつは……」
「ああ、それは……同じ門下生っていうか……」
「岡田、隣にいるお爺さん、だれ?」
「えっ?見えるのか?」
「何を言っているんだ?いや……変な格好だけれどもさ」
北斎の姿が見える男が突然現れた。それが同業者の森山であったとは、岡田も予想だにしなかったが。
「えっと……この人は……葛飾北斎……」
「ほおん……。あの、葛飾北斎、ね」
森山は覗き込むように北斎を見つめた。
「何かもっとわかりやすい反応とかないの?」
「……いや、先生も、よく言ってたじゃないか。この世に、摩訶不思議なことはあると。目の前に天下の浮世絵師、葛飾北斎が現れようと、何も驚きやしないさ。岡田」
「普通はもっと驚くだろう」
「マンガ家の道を選んだ時点で、普通の人間だと思うかい」
北斎は二人の会話に微塵の興味もなく、桜の花をじっと見つめていた。
「儂は花ばかり見て、その周りの虫を何も見ていなかったな……この香りも……くそっ。若かったのか……?」
近くにあった枝を拾い、地面に何やら描き始めた。思いついたことがあるようである。
「森山、何をしに両国に来たんだ?」
「ああ、ちょっと次のマンガの取材にね」
「忙しそうだなあ」
「岡田、最近調子はどうだ」
「ううん……相変わらずダメ出しだ。でもね……」
「でも?」
「北斎さんが来てから、ちょっと物の見方が変わったよ」
「あのお爺さんね。変わったことがあると、そりゃ見方も変わるだろう。どんなふうに?」
「世の中、僕が思っていたよりももっと……繊細だ」
「繊細?」
「走る人ひとつをとっても、走り方は人それぞれ。泣く人ひとつをとっても、泣き方は人それぞれ。僕は今まで、極端な話、全部一緒だと思ってたんだ」
「ほう……お前、成長したな」
「どうして?」
「お前の良さは、子どものような想像力だったが……それに頼り切っていたふしがあった。独りよがりっていうかな……。しかし、今のお前は、ちがう」
「そう思うか?」
「ああ、別人のようだとも。口ぶりから、どうやら写実に目覚めたようだ」
「僕はそんなに自覚してないけれど……」
「ところで……あのお爺さん……北斎との交流は、格好のネタになると思うが、マンガとして描く気は?」
「いや……禁じ手だ」
「禁じ手って、どう言う意味だ?」
「僕の身に実際に起こったことを描くのは、創作者として失格だと思う。現実に負けないフィクションを描く以上、北斎さんを描くのはやめておく」
「お前も言うようになったな。……ひとつ、予言してやる。お前が連載を持つのは、もうすぐだ」
「本当か?」
「お前はマンガ家として、一つの山場を迎えている。現実を越えようとする心意気。それはクリエイターの必須の矜持だと思うんだ。今のお前には、それを感じる」
「ありがとう。自信にするよ」
「じゃあ、俺は取材に行く。北斎が居候、か……羨ましい限りだが、大事にしろよ!」
「ああ、森山。お前も頑張ってくれ」
手を振る後ろ姿を見て、森山が上等なカメラを肩にかけていたことに気がついた。痩せ型だが芯の強いのは昔からだが、そんな趣味があるとは聞いたことがなかった。……人は変化する生き物なのだ。
「北斎さん、帰りま……」
北斎は集中しているようだ。この時、話しかけられるものは、平成にも、もちろん江戸にもいない。
十六 この世のすべて
家に着いたのは夕方頃だった。
「思ったより長い花見でしたね……」
北斎は窓の外をじいと見たままである。
「北斎さん?」
北斎は不意に岡田に問うた。
「なあ、お前さん。人はなぜ、絵を描くと思う?」
「ええ?」
「……この世に生きとし生けるものを、儂らはなぜ、わざわざ絵にするんだ?」
「それは……」
「小鳥のさえずりから、草花の息吹、人間の生き死にまで、儂らは描く……それはなぜだ」
「……」
「儂は今まで、桜を描く時には桜を、富士を描く時には富士をと、思うておった。しかし、今気づいたのだ。桜の周りを飛ぶ虫たちを見て……それは、ちがうと思った」
「それは?」
「生きるものを描くのよ。……いや少し言葉が違うな。“生きようとするもの”を、儂らは描かねばならないのだ。雄大な自然、とある歴史人物、何を描いても良いだろう。しかし!そこに生への活力がなければ……儂らの仕事に意味はない」
「……」
「それを一番見てきたものは何だ……?人の命は短い。そう、一番高くから……歴史の栄枯盛衰、生き物の生き死にといった、この世のすべてをみてきたものは……」
「富士山……」
岡田が震える唇でそう答えた。
「そうだ……儂がこの数ヶ月、富士に憑かれたように魅入られていたのは、それに気づくためだったのだ……」
「……」
北斎は静かにこう続けた。
「……岡田、儂を江戸に帰してくれないか……儂はそこで生きて、そこで真の画工として描いてみたいのだ……。ここの世界の住み心地も気に入ってはきたが……どうも、儂は江戸の人間らしい……大切なことを、思い出したような気がする」
冬の終わり頃から、両者ともに、江戸に帰ることを諦めていた気があった。その上、北斎は画狂人である。自身の技術のみ格別の関心があり、己が身を置く“場所”など、考えたこともなかった。しかし、これは不思議なことだが……初めて北斎は江戸の人間であることを自覚したのである。
「そうですよね。一刻も早く、帰る方法を……」
「今日は……ひとまず眠ることにする」
「えっ?」
「帰りたいとは言ったが、ばたばたと動くのは嫌いだ。……ふああ」
北斎は目を瞑ってしまった。
岡田はふと、北斎の周りに散らばっている富士のスケッチに目を向けた。
面白い、どんどん、富士が表情を持っているように見えてくる。
「すごいな……さっすが北斎」
岡田は一枚拾い上げ、しげしげと眺めていた。
翌朝、岡田が目覚めると、北斎は相も変わらず富士を描き続けていたが、その画風に変化が見られるようになった。
「岡田、これを見てくれ」
「……?これは……富士が小さいですね。手前で仕事をしている人が大きく目立っている」
「そうだろう。少しばかり、考え方が変わってな」
『富嶽三十六景』に描かれた富士の中には、一度見ただけでは気づけないような、異様に小さいものが見受けられる。しかし、その中にも日の本一としての威厳は残されているのは確かであり、北斎の観察眼の鋭さと卓越した技術に、現代の我々は感服するばかりだ。
「なるほど」
「今日は、儂も出かけることにする。平賀源内を早く探し出さねえとな」
「わかりました」
「おっと。お前、紙と筆は忘れるな」
「どうして?」
「ふん。今のお前さんなら……」
「お前さんなら?」
「隅田を、どう描くかと思ってね」
十七 両つの国
今にも雨が降り出しそうな空色だった。
「さて、岡田。今日は外だ。この、目の前の隅田川を描いてみろ」
「はい……」
岡田は緊張で震える手先を必死に抑え、一心不乱に川を見つめた。その時である。
ううう……びゅうう……
風の音だろうか。何やら呻き声のような音が聞こえてきた。
「幻聴か……?」
岡田は頭を傾げながらも、必死に手を動かした。その様子を見ていた北斎は、どこか満足げである。
「北斎さん、出来ました」
「おお……」
北斎はじっと岡田の作品を見つめていた。
「どうでしょう」
「うむ……この間より、良い黒だ……!」
「黒……?」
「お前さん、何かに気づいただろ?何が聞こえた?」
「いや……風の音……」
言い終わらないうちに、北斎は、
「この川は……業が深い。何せ明暦の時に、死人を幾人と出したからな……。あの火事で……溺死した人間が多かったっていうのは、知ってるかい?ああ、恐ろしい。しかし、その恐ろしさを込めてこそ、隅田川なのだ。よく出来ている、腕をあげたな」
岡田は明暦の大火のことなど、実は詳しく知らなかった。
「あ、ありがとうございます」
その時である。
「お二人とも、こんな天気に外出かい?」
声の主は蕎麦屋の主人である。
「あっ!」
「……なぜ、ここ両国には、こうも不思議なことが重なるんだろうね……。あんた、考えたことあるかい?」
「いや……偶然?」
「聞きたいかい?俺の仮説を……そこの、勝川春朗……いや、葛飾北斎さんも」
「……なぜ儂の古い雅号を……」
「まあまあ、気にするな。ここ……両国はなぜ、りょうごく、というのか、先ずはそこからだ」
主人は滔々(とうとう)と語り出した。
「両国という地名は、振袖火事をきっかけに、二つの国……即ち武蔵国と下総国を、大橋が結んだことが由来する。それが後の両国橋なわけだが……橋は昔から、“渡り”と非常に結びつく」
「“渡り”?」
「そう、“渡り”だ。古くは京の一条戻橋……。それらはあの世とこの世、未来と過去、人間が一線を超える手助けをする。そもそも、橋を作るのは、何かを越えるためだ。川なり、谷なり……何を越えてもおかしくなかろう」
「それが……」
「そう、この土地は橋が架かった江戸時代から、強烈な霊気を放っているんだ。だから……どこかふらっと魔が過ると、途端に境を跨いじまうのさ」
「魔が過る?」
「魔が差す、とはよく言うが、それよりももっと広い意味だ。普段よりも黒がより黒らしく見えたり、死を身近に感じたり、沈黙が沈黙としてより一層顕然したり……そういう時が誰しもあるだろう?その類いさ」
「ということは、儂に……魔が過ったのか?」
「あんた、おそらく……大袈裟な意味ではないが……死を強く自覚することがあったね?退屈だったか、それとも病か」
「……!」
「そういう人間こそ、“渡り”に出会いやすい」
「北斎さんが最初この世界を“地獄”と言っていたのは、あながち間違っていなかったんですね」
北斎はこう尋ねた。
「おい……あんた、妙に詳しいね。どうしてだい?」
ぴんと空気が張った。
主人は答えた。
「ふん……この際、言ってしまおう。俺にも“渡り”の経験が、ね」
十八 非常の人
――安永八年(1779)、冬――
史実において、平賀源内が世を去ったとされるのは、この頃である。北斎はその時まだ二十歳にも満たない若者であった。その若い北斎おろか、この世の誰も知ることのない、とある屋敷の中での出来事を、今ここに記そう。
「おい、“完成”したのか?源内さんよ」
そう尋ねるのは杉田玄白である。
「エレキテルの修理は、とっくに終わってるぜ。あとは……」
「源内先生!お待たせしました!」
「しっ!声が大きいぞ、南畝。どれどれ……おおっ、こいつはすげえや」
源内の目の前には、山のように積まれた書物が押し合いへし合いしている。
「ようし、この古の怪談話から、人が忽然と消えた話を探すんだ……。おい、そこの若いの、お前らも手伝え。何もしないでここに来るっていうのは、なしだよな?」
「へい」
「わかりやした」
返事をしたのは二人の男。烏亭焉馬と沢兵蔵である。大田南畝に誘われ、この密会にやってきたのだ。二人はともに好奇心が旺盛であった。不思議なことが起こるかもしれないと聞いて、いてもたってもいられなかったのである。焉馬は江戸落語中興の祖として、兵蔵は四代目鶴屋南北として、のちにその名を広く知られることになる。
いくらか時間が過ぎ、東から朝日が昇らんとする頃。
「先生!ありました!」
「おお!よくやった!早く読んでくれ!」
「ええと……ふむふむ……昔、とある村に不思議な翁がおったそうな。翁は……」
「話の筋はいい!最後だ、最後!」
「あああ……うう。ええと、翁は、元の世に帰ると言い残し、雨乞いをした。すると、俄に空が曇り、翁の頭上に雷が落ちた……」
「よし、そのままだ」
「すると最後、“……”という呪文を唱えた翁は……跡形なく失せにけり……?」
南畝も不思議そうな顔をしている。
「ふふ、雷は俺の想像通りだ。しかし何だ、その呪文とやらは。おい、兵蔵、お前さんは立作者(歌舞伎における座付き狂言作者の第一人者)を目指しているそうだな。文人ならば、これを読んでみろ」
「いや……これが掠れていてよく読めねえんだ、旦那」
「おうい、玄白。これ、どう思う?」
「ううん……難しい。予想もつかん……蘭語を初めて目にした時のようだ」
万策つきたかと思われた時、南畝がとあることを口にした。
「……一つ、思い当たる言葉があります。どこで読んだかは忘れてしまったのですが、生と死を越える、呪文があると」
「何だそれは」
「“……”と申しまして、某も由来はわからぬのですが、恐らく仏教と関わりがあるものではないかと……」
「ほう……それに賭けよう。よし、決行は一度寝てからだ」
「……」
焉馬だけは皆が解散したのちも、黙ってその呪文についてずっと考えていた。
夕暮れ時、源内は玄白にも手伝わせ、エレキテルを奥から引っ張り出してきた。
「源内よ、これまでお前は数々のものを作ったり、書いたりしてきたが、これは一体、どういうことだね?」
「玄白……お前にだけは、教えておこう。俺は……実は江戸の人間ではないんだ。遠い遠い未来から、やってきた男なのさ。だから、そこに帰らなきゃなんねえんだ」
「みらい?帰るって、何がだ?」
「ここから百数十年のち……昭和っていうんだが……」
「しょうわ?」
「そうだ。これも教えといてやる。玄白、お前の業績は、確かに歴史に残る。日本人誰もが知る偉人の一人になる」
「……お前との付き合いも長いが、お前の話はいつだってよくわからん。今回はとくにさっぱりだ。一体何を言っている?ただの見世物だと言っていたじゃないか」
「……それは今回で恐らく最後だ。上手くいけば俺は、この世界から消えるだろう。我が身常にあらず、だ」
「消える、だって?……おい、あんな古文書に記された世迷言を本気で信じているのか。お前さんは」
「お前も信じていなきゃ、人の体の中を覗こうなんて、思わなかっただろ?それと同じさ」
「……もしや死ぬつもりなのか?」
「いや、生きるんだ。元の時代でな」
「儂には結局……わからん。平賀源内という男が……」
玄白は涙を流した。本人にもなぜ涙が滝のようにこぼれてくるのか、一向に解らなかった。
「しばしの別れだ、玄白。全てが終わったら、俺は死んだことにしておいてくれ。お前は医者だ。医者の言葉には世間の信用もある」
「お前ほどの才人を、失うのは惜しい……」
「才じゃない。薬草の名前にしても、ちょっとした機械の仕組みにしても“全て知っていた”だけだ」
その夜、源内はごく限られた人間をとある場所へと呼び出した。
「源内先生……本気……ですか?」
「ああ、南畝。本気だとも。さあ、ここにいるのは昨晩を共にした好奇心旺盛な若人と、俺の知己の友だけだな。小野田直武がこの場にいないのは残念だが……よし、それでは。源内、江戸での最後の大舞台、とくとご覧あれ!」
大きく手を叩いて、源内はエレキテルを操作し、かの呪文を大きな声で唱えた。すると、昼と見紛うほどの閃光がそこに走り……源内の姿は煙のように消えた。
「先生……」
「旦那、ほんとに消えちまったよ」
「……」
「源内……お前という奴は……」
その場に居合わせた四人は、この夜のことを終生忘れず、他言もしなかった。
玄白は源内の言いつけ通り、偶々破傷風で亡くなった人斬りを源内と偽り、それが実際の歴史に語られることになった。
これは余談だが、玄白は源内に対し、このような言葉を残している。
ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや
十九 秘密の呪文
「どこかで見たことがあると思ったら……おめえが……源内本人だったのか」
「……どうして今まで黙っていたんですか?」
「俺は、あんたたちが羨ましくてねえ。これから二人がどうなっていくのか、ちょっと見ていたかったのさ」
「ご主人……本名とかって……?」
「いや、源内で結構。それより、お前さんたち、もう一度“渡り”に出会いたいんだろ?」
岡田と北斎は頷いた。
「それには、実は一つ問題があってだな」
「問題?」
「俺がかつて修理したエレキテル。あれは“渡り”に必要な雷の擬似発生のために必要だった。それは、なんとかなる。問題は……その時の呪文を、忘れてしまったことなんだ」
「え?」
「まさか俺も、帰ってきてからもう一度“渡り”を、しかも人に教えるとは思わなかったよ!」
「頑張って思い出してください!」
「いやあ……ややこしい言葉だった。何か手がかりはないものか」
その時、北斎がふとこんなことを口にした。
「おい。お前さんの“渡り”を見届けたのは、四人だったね?」
「おう。大田南畝に烏亭焉馬、沢兵蔵、そして杉田玄白だ」
「そいつらは覚えていないのかい?」
「どうだろうなあ……確かめる術もなかろうが」
「儂は焉馬と兵蔵に、何度か会ったことがあるが、その時は名を変えていたぞ」
「そうなのか。名は何だ?」
「焉馬は立川焉馬、兵蔵は……たしか四代目鶴屋南北を襲名した後だった。二人とももう死んでしまったがね。南北はついこの間だったか」
「いや、北斎さん。今ここは平成です。彼らが何か、残しているかもしれません」
「何を残すって?」
「呪文の秘密を解く鍵を、この世界のどこかに……」
――安永9年(1780)、春――
「おっ。焉馬じゃないか。……久しいね」
「これは兵蔵……実にあれ以来……む、何か言いたげだな」
「ふっ。ちょっくら耳だけ貸せ」
「何だい一体……」
そう言い終わらぬうちに、兵蔵は思い切り焉馬の腕を引っ張り、細い裏路地へと連れ込んだ。
「おいおい、えらく強引だな。何用だ?」
「お前、源内のこと、今どう思っている?」
「源内?ああ……」
「ああ、じゃねえだろうよ!お前も見ただろう?あんな話があってたまるもんか!俺はなあ、あの日以来、夜になってもまるで寝られらしねえんだ。旦那が他言するなというから黙ってはいるが……ありゃ、一体何だったんだ!」
「落ち着け、落ち着け。勿論、俺も忘れちゃいねえよ.。忘れられねえくらいなら、それで怪談一編でも書けば良かろうに」
「そういう事じゃねえ。俺は……悔しいんだ。俺の書く本より、面白えものを見ちまったことがよ。お前も、その気持ちがわかるはずだ」
「俺の噺よりも……奇天烈だと思ったぜ」
「なあ……焉馬。俺たち二人なら、あれを元にして、面白い浄瑠璃でも、歌舞伎でも書けそうじゃないか?きっと受けるぜ」
「いや。お前さん。それは良くない」
「どうしてだい!」
「目の前であんな面白いものを見て、それをそのまま物語にする?それはだめだ。禁じ手だ。噺は、現世よりも面白いから価値がある。お前さんも物書きの端くれなら、一から作るっていう気概を持つべきだと思うがね」
「ちっ……。厳しいねえ。しかし、二人で何か書くってのは、前向きに考えておいてくれ」
「おう。わかったよ」
二人は別れたが、同じ事を心に秘めていた。
「やるなら人生の最期にやるか、俺の弟子にでも、やらせるかね」
二十 立川流
両国の地に激しい雨が降り始めた。岡田、北斎、源内の三人は、絵巻物に描かれた人物たちと同じような格好で走り、慌ててアパートへと転がり込んだ。
「はあ、はあ。歳か……」
「ぜえ、ぜえ。男三人には、ここは狭すぎるだろ……」
「……新入りなのに……贅沢言っちゃあ、いけませんよ……」
北斎は息を切らしながら二人に問うた。
「さて……どうすればいい?」
「何かヒントといえば……平成にも残っているような、江戸町文化ですかね……」
「相撲、歌舞伎、寄席、といったところか……?」
「そうか、薄々わかってはいたが、浮世絵を描くやつは、もう一人もいないのか」
北斎は少し悲しい顔をした。
「元気出してください。立派な文化として、認められているんですよ」
「ぶんか、だと?何だそれは。はっ。過去の遺物が“認められて”いる、とは笑わせるぜ」
返す言葉もなかった。
岡田は、思案を重ねるうちに、自身が両国に住んでいながら、寄席、相撲の一つも見たことがないことに気がついた。いや、かつて機会はあったはずなのだ……。
「岡田くん。来週の土曜日、空いていたりしないかい?」
「ええと……何かあるんですか?」
「いや、もう鬼籍に入っているんだけど、僕の尊敬する師匠がね、何の縁故か、かつて落語会の顧問だったんだ。その縁が幸いにも続いて、今回招待券を手に入れたんだよ」
「すみません、その日は……」
「ああ、忙しかったらいいの、いいの」
「ちなみに、何ていう人が演るんですか?」
先生は後ろの頭を掻きむしりながら答えた。
「たしか……立川……」
……この名前の響きは!
「北斎さん!烏亭焉馬は、名を変えていたと言っていましたよね?」
「ああ、そうだよ」
「名前は何に変わってたんでしたっけ?」
「立川焉馬、だ」
「やっぱり!」
「何がだい?」
「その立川の名を、受け継いでいる人がいるんですよ……!」
岡田は山積みになったチラシから、とある一枚の宣伝を見つけた。そこにはこう書かれている。
立川談志 春の落語会 特選!蔵出し名席
「ほう、江戸からそのまま連れてきたような奴だな」
「北斎さん、この人なら、きっと何かを知っているはずです」
「確信があるのか?」
「僕はこの人しか、知りません」
落語会の日付は、偶然にも明日を指していた。
――次の日――
小さい演芸場は、最近できたばかりのようで、客の入りはまずまずである。
「お二人ですか?」
「いえ、三人です」
受付の女性は不思議そうな顔をしていた。木戸銭はきっかり三人分支払った。
「ここに座っていいのか?」
「ええ、どこでも」
そうこうしているうちに、落語会は始まった。流れる様に時は過ぎ、いよいよ真打、談志のご登場である。席が静まり返った。出囃子が鳴る。拍手だ。さて!
ああア えエェ 毎度同じ噺で、退屈、、、でしょうなア……
マクラを……ってネエ……ハハ 何をはなそうか……
談志が目をふっと上げると、その先には北斎が頬杖をついていた。
おお…… こりゃ、珍しいお客がいるようだネ
ホンモノの江戸のお人に 落語をする、のハ きんちょうするね ハハハ、どうしようかね……
ううン…… すまねえ……演目、変えて、いいかイ……?
今日は 『死神』を、、、ひとつ……今回ワ 真面目にネ、演るから……
会場は談志のアドリブにどっと湧いて、談志は恥ずかしそうに目を逸らしたが、その鋭い視線の先は明らかに北斎その人であった。
二十一 呪文の所以
――文化元年(1804) 秋――
「よお。焉馬。わざわざ河原崎座まで、来てくれたのか」
「ああ。お前の『天竺徳兵衛』だが、周りの奴らにも偉く評判だ」
「周りの奴らってのは、立川の名を慕う奴ら、三升蓮だろう」
「そう。よく知ってるじゃねえか。それより、あの呪文……南無さったるま グンダリギャ はらいそはらいそ ってのは、何だい?」
「おう。それはなあ、切支丹の言葉らしい。調べたのサ。たしか、楽園という意味だったか……」
「くくく……お前さん、本当は、“あれ”を使いたかったんだろう?あの言い回しといい、舞台の仕掛けといい、まるで……“あの日”を見ているようだった」
「はは……お前ならわかるよな。しかし……元はと言えばお前が言ったことだろうが」
「何がだ?」
「物書きの端くれなら、一から物語を作れって言ったろう」
「ははは……ああ、それでこそ立役者だ。ふふ、鶴屋南北の襲名の日も近い」
「何を偉そうに!黙ってろい」
「思い出してみるとあれは……つくづく変な呪文だったな。お前、まだ覚えているか」
「ああ。だが、ふっと気を抜くと、忘れちまいそうだ」
「もう、だいぶん昔のことだから、口に出してもいいか」
「誰に怒られるってエこともねえしな」
すうと息を吸って、二人は口を揃えてこう言った。
「アジャラカモクレン ショウワゴジュウニ テケレッツのパー とはなア!はっはっは、笑っちまうぜ!」
実に月並みな表現ではあるが、談志の落語は江戸時代の市井に生きる人々を見てきたかの様な逸品揃いである。彼は『死神』を最後まで演り終えたのち、小さくこちらに手招きした。
「北斎さん。どうもお呼びみたいですよ」
「ん?だれが?」
「談志が、です」
「ああ、あいつか。それじゃあ、見えているのか?」
「たぶん……ううむ、ずっと見えてたのかな……」
三人は裏の楽屋へと向かった。誰も入ったことなどない場所である。そこには、談志が椅子にふんぞりかえっていた。
「おお。来なすったネ。おそらく……葛飾北斎と、そのお仲間さんヨイ」
「何だお前は」
談志には何も聞こえていない様子だ。
「ハハ、合ってたネ。俺はいつかネエ……こういうことが起こるんじゃないかと、思ってたんだ。お前さんたち、俺がなぜ今日『死神』を演ったのか……分かるかい」
「いや、ぜんぜ……」
「立川にはネ。面白い噺があってサ。俺が襲名した時に聞いたんだけども……。どうも、“アジャラカモクレン”っていう言葉を大事にしなさいと。初代から伝わる不思議な呪文だと。人智を超えた、ものすごい言葉であると。……こうも熱弁されたら、俺は天邪鬼だから、それなら一生言うもんかと思って、エンヤカヤハヤ、にしてたんだけれどもネ……」
源内はハッと思い出した顔をした。談志はそんなことを意にも介さず噺を続けた。
「そこでだよ。あんたを客席に見かけちまったんだ……。ホンモノの江戸人、北斎、あんたにネ」
「どうして儂が北斎だと、分かったんだ」
「そんなの勘だよィ」
「フン……」
「そこでだ、そこで。そうすると途端にネ、初代が見ている様な錯覚に陥ってだなア……。困ったもんだ。こりゃちゃんと噺をしなくちゃと。アジャラカモクレン、が出てくる噺をネ」
「そうだったんですか」
岡田のことなど見向きもせず、談志は北斎に語りかけた。
「北斎。あんた、江戸へ帰らなくていいのかイ?」
「今、あんたの噺を聞いて、帰れるようになったんだ」
「どうやってぇ帰るの?」
ぽかんとした顔で談志が尋ねた。
「ええと、何だ……おい、源内」
「雷、さっきの呪文。それだけサ」
「源内だと?あんたはもしや、平賀源内か」
「いかにも」
「嘘つけい。お前そんな……現代の服なんざ着やがって」
「これを見てもか?」
源内はあの有名なキセルを蒸すポーズをとった。
「ハハ、そっくりだねえ」
しかしながら目は笑っていない。どうやら談志は信じてはいないようだった。
「とにかく、北斎さん、これで恐らく江戸に帰れますよ。良かったですね。談志さんも、ありがとうございました」
三人が帰ろうとしたその時である。
「オイ。俺はほったらかしか?」
「え?」
「北斎が、タイムスリップしてえ、江戸に帰る。そんな面白え瞬間に、俺が立ち会わないわけにはいかないだろう」
談志は連絡先を書いた紙を岡田に握らせ、かなりの力で左の肩を二回叩いた。
二十二 やり残し
源内は蕎麦屋の方に用事あるとか何とかで、足早に帰っていった。
「北斎さん、江戸に帰れそうで、よかったじゃないですか」
「ああア……うん……」
北斎はどうも明後日の方向を向いている。
「どうしたんですか」
「いや、まだまだこの世界を描き足りねえ、と思ってな」
北斎はその晩年まで、世のあらゆる対象を絵に落とし込もうとしていた。描き足らないのは当たり前である。北斎にとっては、江戸ですら小さな世界であったのだ。
「岡田、明日は出かけるぞ」
「どこまで?」
「まだ決めとらん」
こうした北斎の我が儘が、いつしか愛おしくなっていた。
明くる朝、二人が向かったのは隅田川テラスであった。
「初めこそ滑稽だったが、この町はこのままで、良いかもな」
「え?」
「儂は、ここを最初地獄と言ったろ。でもなあ、地獄には地獄の、花がある」
「どういう意味ですか?」
「岡田をはじめ、この町の人間と出会って、これはこれで面白えと思ったのよ。町は人が作り、人は町に造られる。儂は墨田という町が好きだ。そして、おそらく……儂らが描く絵も同じ。絵は人が作り、人は絵によって作られる。だから……」
「だから?」
「嘘があっては、いけねえよな。ははは……」
その時、遠くの方から子供の声がした。
「おじいちゃん“たち”、何描いてるの?」
この子は、見えているのか……。岡田は微笑みかけながら、
「そう。君にはこのおじいちゃんが見えるのかい?」
「うん」
「がっはっは。童の顔は、どうも江戸とそれほど変わらんらしい。どれ、一つ似顔絵でも、描いてやろうか」
北斎はニコニコ笑いながら、滑る様に筆をすすめた。
「思い出すな……春章はこうして、人を描くのが巧かった……」
北斎はこう呟いたが、もちろん子どもには意味がわからない。
「できたぞう」
北斎は紙を破いて、子どもにそっと手渡した。わずか二、三分の出来事である。
「ありがと!」
後ろから、その子の母親と思しき人物が近づいてきた。
「すみません……ちょっと、心配したじゃないの!」
「ごめんなさい……」
子どもは右の人差し指を口の中に入れた。
「ご迷惑をおかけしました……」
母親は岡田に頭をぺこぺこさせながら、その子の腕を掴んだ。その時である。
「あら、なあに、この紙。真っ白のただの紙切れじゃない。どこで拾ったんでしょう」
どうもそう聞こえた気がするが、子どもの方はぎゅっとそれを強く握りしめていた。
アパートの前では、源内が待っていた。
「おやおや、先生方、お出かけしてなすったんだね。北斎、江戸へ帰るのはいつにする?」
「できるだけ早く、だ」
「よしきた。蕎麦屋をしばらく閉めて、エレキテルの修理をしよう。できるだけ早くとなると……三日後でどうだ」
「いいだろう」
北斎の江戸帰還は目前となった。
「北斎さん、何かやり残しは?」
「いや……まだこの世界を描き足りねえのは、確かだよな……」
「江戸で描いたらどうです?」
「憶えていられる自信がねえ」
岡田は頭を捻った。
「うーん、どうしようかな……分かりました。ちょっと待っていてください」
岡田は森山に電話をかけた。
「おう。岡田、どうした」
「お前、最近よく写真を撮っているだろう」
「そうだよ。何で知ってんだ」
「花見の時に、カメラを持っていただろ」
「はは……よく見てたねえ。それで、どうした?」
「今手元にあるだけ現像してほしいんだ」
「それまた……何でだよ?」
「北斎さんが、江戸に帰るんだ。でも……この世界のものを描き足らないっていうから……向こうでも描けるように……写真集を買うのは高すぎるだろう?」
「平成の手土産ってかあ?」
「まあ、そうなるね」
「そもそも江戸に持っていけるのかよ」
「知らない、知らない」
「ふ……まあ、いいだろう。しかし、一つ条件がある」
「条件?」
「北斎が江戸に帰る瞬間に、俺も立ち会わせろ」
「そうか……ようし、わかったよ。三日後だ」
「そんな早いのかよ!……じゃあ、何枚か新しいのを撮りに行きますか……」
「おい、やけに機嫌がいいような気がするが、何かあったのか?」
「いや……ふふ、また話す。とりあえず、じゃあな」
電話はここで切れた。
「北斎さん、写真を持って帰るのはどうです?」
「しゃしんか……。おお、それは良い考えだ。ところで、それは持って帰れるのか?」
「これは賭けです」
「ほっ。そうかい。そうだろうと思ったよ……だが、そういうことは、昔から嫌いじゃないぜ……」
北斎はじいっと、自分の爪を見つめていた。
二十三 不思議な夢 遠い昔
あっという間に三日が過ぎた。さあ、愈々という時に、北斎はこんなことを言い出した。
「岡田。最後に、儂の似顔絵を描いてくれ。その代わり、儂もお前を描いてやる」
「ええ?」
「つべこべ言うな。早く描くぞ」
「はあ……」
お互いに向かい合った。
岡田は、必死に先生のマンガを写していた自分を思い出していた。小学三年生の時である。一人きりになれる放課後の教室が大好きで、夕暮れ時、カラスの鳴き声を横目に、一心不乱に自由帳へと描き込んだ。「自由」とはこんなに素晴らしいものなのかと思った。それは今どこに行ってしまったのか解らないが……もし見つかれば、食べてしまいたいほどである。
北斎は、春章の元に初めて弟子入りをした頃の自分を思い出していた。このとおり、と頭を下げた若き日の北斎は、浮世絵の世界のなんたるかも知らない青二才だった。大きな春章の背中は氷山のように聳えており、ちょうど彼の役者絵の人物のような目は、北斎の心の奥の奥までを見通していた。その時の冷たい土の感触を、北斎は今でも憶えている。
「ようし、出来たか」
「出来ました」
「ほう……こりゃあ……まるで仙人だな」
「いや……僕、こんな顔でしたっけ?」
「画工が描くのは真のみ、よ」
「真のみ……か」
北斎は突然、大きな声でこう言った。
「岡田、儂は江戸に帰ったらば、ますます筆を振るうぞ!お前は、どうする?」
「はい……僕も、ペンを振るいます」
「棲む世界は違えど、儂らは絵を描き続けなければならない。それが生者のつとめだ。儂は……百歳まで生きる!」
「百歳……?」
「その頃には、真の画工になっていると思う……あと二十余年か……」
岡田は一瞬考えて、
「そうです。北斎さん、百歳まで生きて、生きてください」
目頭が思わず熱くなった。
「おう!」
北斎の力強い返事は、齢七十を微塵も感じさせなかった。
岡田は約束を守ろうと、各々に電話をかけた。
「談志さんですか?」
「はい。私マネージャーですか……」
「北斎が帰ります、と談志さんに伝えてください」
「ホクサイ?……今日談志は昼から呑んでいて、おそらく相当酔っていますよ」
「ううん……どうしましょう……」
岡田が思案していると向こうから、
「北斎が帰るう?……すぐ行くから、待ってろ!」
威勢のいい声が聞こえてきた。
もちろんもう一人の人物も忘れてはいけない。
「森山。北斎さんが帰るのは今日の夜になりそうだ」
「ああ、すまん、すまん。今現像してる最中だ」
「ああ、俺もお前をすっかり忘れてた!」
「おい……人に頼んでおきながら、そりゃないぜ……まあ、かなり俺の趣味も入っているが、いい写真だと思う」
「ありがとう、ありがとう」
岡田は電話越しに頭を下げた。
源内のエレキテルの修理が終わったのは、夜の十九時を回った時だった。
「源内、呪文は、何だったか」
「アジャラカモクレン 元号 テケレッツのパーだ」
「げんごう?」
「あんたが最後に江戸にいた時、何年だった?」
「ええと……たしか天保……二年だな」
「本当だな?じゃあ、それだ」
「ったく、変な呪文だな」
「俺が作ったわけじゃない」
「あと、えれきてるは、痛むのか」
「いや、全然。バチッと一瞬さ」
それからしばらくして、森山が写真と共にやってきた。
「おお、これがしゃしんだな。一枚残らず持って帰るぞ、いいな」
「花やら建物やら、だいぶん良い写真が入ってる筈……いやあ、葛飾北斎に手土産を渡す役目とは、面白えなあ、ははは……」
「ありがとうよ。礼を言うぜ」
森山は、にやにやと恥ずかしそうにしていた。
談志はまさに酩酊状態。一人で行かせてくれと言ったようで、お付きの人はいなかった。
「あア、づいだづいだ」
「立川談志といったな、お前さん、この間と随分違う声をしているじゃねえか」
「全部、ざけのせいだヨ。ホクサイ」
「儂は画工で、目と手が命。あんたは噺家、喉が命だ。大事にしろい」
「ああ、分かってる、わあっでる……ふふふ、天下の北斎から、説教されるとはネ……ッハハ」
その時の談志の目は半開きであった。
「北斎さん、では、気をつけて」
「おう。岡田も達者でな。儂はまだまだ……描き足らんことに気がついた。それだけでこの地獄に来た甲斐があったということよ」
「大丈夫。あなたは天下の浮世絵師です」
「お前は天下のまんがかだ。一人前になるのを、楽しみにしてるぜ」
二人はぐっと手を握りしめた。
時間旅行は一瞬である。
「アジャラカモクレン……」
北斎がこう唱えると、稲妻のような光が暗闇を照らし、周りはあっけにとられ……。気づけば跡形も無くなっていた。
「北斎さん……」
「北斎、消えたよ……」
「……ふっ。ほんとだったのか……」
「よし、無事に帰ったな……」
その場に居合わせた四人は、この夜のことを終生忘れず、他言もしなかった。
岡田はひとりアパートへと帰ってきた。
「がらんとしちゃったな……でも、すぐになれると思う」
そう呟くと、岡田は静かに扉を閉めた。
終 運命の螺旋
――天保2年(1831)、夏――
「それで、はるばる先生は帰ってきたって言うんですか!」
「おう。そうだよ。このしゃしんに写っているのはだな……」
父は偉そうに説明しています。え?今何だって?ここに写っているのが、くるま?訳のわからないことを申しております。
「はあ……凄い。面白い。どうも夢の類じゃなさそうだ。僕も今度連れてってくださいよ“へいせい”に」
「行き方でも教えてやろうか」
「本当ですか?先生!」
「いや。やっぱりやめだ。面倒臭い」
「またまたあ。先生は相変わらず厳しいなあ……」
「ところで鉄蔵、さっきまで何を描いてたんだい?」
「おう、富士だ。富士の山だ」
富士……いくつか父は描いたことがありますが……。
「へえ。そんなものに興味があったのかね?」
「栄、これは中々の大作になるぞ。さて!そろそろ続きに参るとするかね……」
どうも父は自信ありげです。ついこの間まで、へなへな萎れた老人だったのが……おかしくなったのはこの頃からです。絵筆を持つ手が一向に止まらず……まあ、娘としては良きことに違いありませんが。
もしかして父が盛り返したのは、“へいせい”のお人のおかげですか。うちの父が、ご迷惑をかけてはいませんでしたか。鉄蔵のことです、ああ、考えたくない。一度お詫びにでも行こうかしらん。“へいせい”への行き方は分からないけれど。
その時には、これでも持っていきましょうか。まだ完成はしていませんが、どうも父の自信作のようで……ええと、何だったかな……そうそう、『富嶽三十六景』。
――平成7年(1995) 7月――
「岡田さーん。ハガキがきてますよ」
「はーい」
差出人は森山からだった。
謹啓 仲夏の候 皆様にはますます御清祥のこととお慶び申し上げます
さてこのたび私たちは結婚式を挙げることになりました
皆様に見守られながら
新しい人生の始まりを迎えることができれば幸いです
ご多用中 誠に恐縮ではございますが
ぜひご出席くださいますようご案内申し上げます
謹白
1995年7月吉日
森山亮介
鶴屋直子
森山は結婚を控えていたのだ。写真を始めていたり、電話の声がどこかうわずっていたりしたのは、そう言う理由だったのかと、岡田は納得した。
「結婚式の前に、まずこれを仕上げなくちゃなあ……」
彼は棚から『平賀幻想譚』を引っ張り出した。今なら、続きを描ける気がする。
『作品が売れてきたから、ぼくは引っ越さなくちゃいけなくなった』
『それはおめでたいね』
『きみは……江戸に帰らなくていいのかい?』
『ああ。構わないさ』
『それじゃあ、江戸に残した人はどうするんだね』
『いや、本当にいいのサ……だって……』
この後を……一体どう描く?源内は実は現代の人間でした……というオチにするのか?それとも、北斎のように、江戸に帰してやるか?
いや……それはマンガ家として、禁じ手だ。
「これしか……」
岡田はセリフを付け足した。
『だって……俺はこの時代を、まだまだ生きていきたいのさ。俺も、お前さんも、生まれた時代がどうであろうと、今を生きることに変わりはねえだろ?』
『うん。確かにそうだ』
『だから、これからも一緒に暮らそう。この瞬間を、お前と過ごしたい』
『まさか、ついてきてくれるのかい』
『俺は天下の平賀源内。出来ないことなど、初めから何もねえのさ!』
はははは……!
はははは……!
岡田はペンを置いた。
「ごめんなさい。先生、どうしてもこの二人を別れさせて終わるのは……出来ませんでした……」
その時、後ろから声がした。
「岡田くん。うまく出来たみたいだね。……不思議なことは、この世にたくさんあっただろう?」
「先生?」
岡田ははっとして後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。さて、物語は第二部へと移ります。
第二部では、源内を慕い、北斎とも交流があったキテレツな江戸人たちに焦点を当てつつ、現代(平成)との不思議な縁を描いてゆく予定です。彼らの物語はまだ終わっていませんので、どうぞよろしくお願いいたします。