そして、帰路につき
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──そして、帰路につき
羽地たちはシャルストーン共和国に帰国した。
航空基地でシェル・セキュリティ・サービスの迎えを受けると、羽地たちはバスに乗ってシェル・セキュリティ・サービスの社屋に向かった。
それからまずは戦闘後戦闘適応調整を受けるように矢代に言われ、それぞれが民間軍事医療企業の精神科医による診断を受けることになった。今回は衝撃的なシーンを目の当たりにしただろうから念入りにという話だった。
衝撃的なシーン、かと羽地は思う。
いくら都市が焦土になっていようともある意味では自分たちとは無関係だ。日本の都市ならばこころをいためたかもしれないだろうが、全く知らない異世界の都市の光景はもの悲し気ではあったものの、傷というほどの傷を残していなかった。
それに羽地にとって廃墟になった都市を見るのは初めてではない。
中央アジアの内戦で散々見てきた光景だ。軍閥の戦闘爆撃機が上空から無差別爆撃を行い、都市が廃墟になる様子は散々見てきた。なんなら、今回の爆撃より近い距離で見てきた。瓦礫に押し潰された民間人も、爆弾で肉片だけになった子供も、炎上する建物の前で泣き叫ぶ人々も、間近な距離で見てきた。
だが、それは『痛み』にはならないものだった。
中央アジアは羽地の故郷ではない。羽地の、ある意味では職場であるものの、ただの戦場のひとつに過ぎなかった。
「ストレスは少ないようですね」
精神科医はそう語った。
まるで羽地にはそれが自分を責めている言葉のように感じた。
もっと苦しむべきだったのだと。先遣隊3名の死を考えるべきだったと。瓦礫になった都市を見て、もっと心を痛めるべきだったと。そう言っているかのように感じられた。羽地はこれが『罪』を感じるということなのだろうかと思った。
「ストレスを感じるべきだったでしょうか?」
羽地は素直にそう尋ねた。
「いえいえ。ストレスはない方がいいですよ。あなたのような特殊作戦部隊の隊員は繊細な任務を行います。そこでは死が間近です。ストレスによって足を引きずられ、精細さを欠くことはあなた自身の死に繋がってしまうのです」
精神科医は穏やかにそう語った。
「そうですね。ですが、あれだけの破滅的な光景と人の死を目にして、ストレスを感じずにいるのは恥知らずではないでしょうか?」
先遣隊3名は死亡した。同じ日本情報軍の兵士が死んだ。
そして、爆撃ではもっと大勢の人間が死んだ。瓦礫の下敷きになって死んだ。火災に巻き込まれて死んだ。苦しみながら死んでいっていった。魂は不可逆な変化を遂げて、死を迎えた。
それなのに羽地は慣れてしまっていた。
恥知らずだと罵ってほしい。ストレスと感じるべきだったと言ってほしい。ストレスを感じたい。病んだティーンエイジャーのようにストレスというナイフで自分の心に傷を刻みたい。突き立て、引き裂き、ストレスによってストレスを感じ、ストレスによって現実を感じたい。
これではまるで現実がないみたいではないか。
「その傾向は前にもありましたね。ですが、前にも説明したように我々は高度に文明化された世界を生きているのです。生命の本能的精神反応は、今では痕跡器官と同じものです。無益なだけ。ある意味では有害ですらあります」
だが、先生。人はその本能的精神反応を何十世紀も持ち続けて、今の高度な文明を築いたんですよ。それは人が人であるために必要であったということではありませんか。たとえ淘汰がなかったとしても、不要なものは忘れ去られる。人が今や熱烈な愛国心などで行動しないように。
羽地はそう尋ねた。
「愛国心とこの手のストレスとでは話が違いますよ。人は好奇心という本能でパソコンのキーボードを叩くことはできるでしょう。だが、好奇心という本能だけではシェークスピアの作品は描けない。そこに必要になるのは学習で得た結果になる知性です。知性は後天的に発達していくもので、本能とは違います。愛国心も後天的なもので、本能ではないのですよ」
「ですが、人は自分の種の繁栄のために、自分の群れを守るために、自分のコミュニティのために立ち上がるべく愛国心を持っているのではないのですか? 愛国心もまた自己保存の法則が生み出した本能なのではないですか?」
「それは少しばかり行き過ぎた考え方ですね。確かに自己保存の法則では自分の家族も守ろうとする傾向があります。自らの種を守るために。ですが、どこまでは自分の種を守るために必要なコミュニティだと判断するのですか? 国だけでは、国同士の戦争が起きたときに自らも犠牲になる。世界ではスケールが大きすぎる」
結局のところ、愛国心は後天的なもので本能ではありません。我々の本能は自分の手の届く範囲の物事に限られるのですと精神科医は言った。
「ならば、ストレスを感じないのは正常な反応であると?」
「ナノマシンを頭に注入した特殊作戦部隊の兵士であるあなたにとってはそうです。あなたの感情はフィルタリングされている。極度の恐怖も、極度の緊張も抱かない。故にストレスを感じることはないのです。それにあなたにとって今回の作戦は身近な人が死ぬような作戦でしたか?」
羽地は『いいえ』と答える。
先遣隊の兵士たちとは現場で初めて会ったような関係だ。同じシェル・セキュリティ・サービスに所属していても、これまで関わり合いになるようなことはなかった。
「たまにニュースで世界の紛争を取り扱っているでしょう。中東であったり、アフリカであったり、東南アジアであったり。だけど、自分とはどこか関係ないと思っている。自分からは離れた出来事だと認識している。人はこの世の全ての出来事に憐れんだり、怒ったりできるほど、処理能力を持っていません。いいのですよ。今回は自分とは関係のない異国の出来事だったと受け流しても。それは大勢が自然にやっていることです」
大勢がそうなのか。大勢が本当にそうなのか。誰かがやっているから、自分もそうしようという反応ではないのか。それが連鎖的に拡張して、大勢という群衆を描いているのではないだろうか。
ビッグシックスが流行を作るときに複数のセレブを使って、いかにも流行の最先端であると宣伝するように、政治活動家たちを誘導してこれこそが政治的に正しい商品であると宣伝するように、小さな火が燃え移って大火事になるように。そういうように大勢の意識とやらは規定されているのではないだろうか。
ひとりひとりは本当はもっと関心を、憐れみを、怒りを、恐怖を持っているのではないだろうか。それが集団意識によって握りつぶされ、集団的『正しさ』というものを持たされているのではないだろうか。
我々は自分たちで意識することもなく、自らを洗脳しているのではないだろうか。
馬鹿馬鹿しい。誇大妄想が過ぎる。被害妄想ですらある。
大勢が正しいと思えばそれが正しいのが民主主義だ。ひとりの意見に共感した時点でそれは自分の意見だ。
そう、大勢が諸外国の戦争に『痛み』を感じないように、羽地も今回のことに『痛み』を感じる必要などないのである。さらさらと流しておけばいいのである。
「元の生活には戻れそうですか?」
精神科医がそう尋ねるのに羽地は『はい』と答える。
元のように大勢の死を受け流し、悲劇を悲劇と感じず、恐怖を恐怖と感じず、怒りを示すべきことに怒らず、ただただ受け流すことはできる。
中央アジアで陸軍のブルーヘルメット任務を眺めていたときのような気分で。
そして、羽地は戦場と日常に線引きをして、日常に戻る。
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