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おまじないは一人きり

作者: 仁部中つぎ



 一通り目を通した雑誌をごみ箱に捨てた。

ポケットを探っても見当たらず、誠一は部屋の中を見渡した。ライターと煙草はテーブルの隅にまとめて置いてあった。

 久美がもうこの部屋に戻らないことを誠一は知っていた。だから、ベッドに座ったまま煙草に火をつけた。


 誠一がカメラに興味を持ったのは高校生の頃だった。入学式を終え、真新しい制服に身を包んだ新入生たちはそれぞれの教室へ入っていく。遠方の中学校から進学した誠一には知り合いがおらず、黙って担任の話を聞いていた覚えがある。

 教室の真ん中あたりからは、ドアの外も窓の外も見ることができる。授業中の暇つぶしに困ることはなかった。担任がこのクラスでの抱負を熱弁している間、誠一は教壇側の出入り口に視線を移した。

 それが、誠一と写真の出会いだった。

 新入部員募集の張り紙に、大きくプリントされた生徒の笑顔。横には景色や花を写したポスターも掲示されていたが、誠一はその笑顔に心奪われてしまった。

 体育祭、もしくは文化祭か、どこかの部活動の大会に取材に行ったのかもしれない。背景にグランドの砂がぼやけて写っている。写真の中の生徒は夏の太陽の下、これ以上嬉しそうな顔ができるのかというくらい満面の笑みを浮かべていた。

 高校生と言えば、中学生よりもさらに大人に近い社会的な生活を送っていると思っていた。嬉しいことを素直に嬉しいと言えないような、しかし嬉しいと何かしらで表現しなければいけない場面にも気づけるような、そういう自分の気持ちと他人が求める自分の折り合いをつけている年代。だからこそこの嬉しくて仕方がない、という笑顔は誠一の興味を鷲掴みにした。

 こんなに嬉しそうに笑う人が、いるんだな。

 途中から担任の話も完全に耳に入ってこなくなった。部活動の入部は来週いっぱいで決めるように、という言葉だけがホームルームの後で誠一の頭をつついた。


 セイ、と部員から呼ばれるようになる頃、誠一はカメラを購入した。正確に言えば購入してもらった。親に頼み込んで、初めての定期テストではそれなりに良い成績を収めた。物をねだったことがなかった誠一の両親は快くカメラの購入を許可した、というわけである。

 それでも自分のカメラであることには変わらなかった。同級生には一足遅れたが、誠一はさっそく写真を撮り始めた。朝早くから学校近くのバス停に向かい、昼は昼食を頬張るクラスメイトに密着、放課後はあらゆる部活動を回った。おかげで、誠一の撮った写真が新入生だけが応募できるというコンテストの代表に選ばれた。いつの間にか枚数が増えていた、笑顔の写真だった。技術よりも被写体の素直な感情が表れている部分に、部長や顧問は新入生らしさを感じたらしい。

 あの笑顔が撮られた夏よりもう少し早い時期だった。

「斉藤くん、おめでとう」

 顧問の鈴木先生だったか小野先生だったか、とにかく男性の穏やかな声が部室に響いた。部員の誰しもが沈黙していたから、その声はプレハブの壁全体を覆うようにゆっくり広がっていった。

 誠一は自分の苗字が斉藤であったことを思い出した。そして、ひと月前くらいに応募した写真が優秀作品に選ばれたことを理解した。

「ありがとう、ございます」

 拍手が沸き起こる。先輩も、同級生も、誠一と誠一が撮った写真を交互に見ながら歓声を上げた。

 当時、誠一は口下手な少年だった。あれからコンクールのたびに被写体やカメラのレンズについて講義をしてくれた先生の名を忘れるくらいには、会話した記憶がないのだ。クラス内でも笑顔の写真を撮るため、常にカメラを持ち歩いていたほど夢中になっていた。


 高校を卒業してからは夢から覚めたようにカメラに触れる機会は減った。代わりにバイトや授業で忙しい日々を過ごしていた。

 誠一たちの学年が卒業するとともに異動することになった鈴木先生は、時々写真を教えてくれるようになった。大学では写真部やサークルをいくつか見かけたが、入る気になれなかったということを話したからかもしれない。バイトの前、もしくは後の時間を使って一対一の講義をしてくれるようになっていた。

 大学三年になり、誠一はバイトよりも研究に追われるようになった。講義の場所も喫茶店からチェーンのファミレスに変更され、夜遅い時間に設定されることが増えた。

「斉藤くんはもう、二十歳になったかな」

 カメラの話しかしたことがない鈴木先生が、ある時誠一に聞いた。金曜夜のファミレスには二次会かぶれの学生、不良まがいの中高生、さくっと一杯ひっかけてきたサラリーマンなど、誠一にとって魅力的な被写体が揃っていた。

「はい、先月で」

 視線を鈴木先生に戻し、誠一は答えた。誠一の誕生日は七月だった。

 もしかしたらあの写真と同じくらいの誕生日だったかもしれない、と思った。

「そうか。なら少し、休憩してもいいかな」

 どうぞ、と誠一が頷くと、鈴木先生は隣のテーブルから灰皿を持ってきた。

 そして、ロゴマークが彫られたライターを取り出し、火をつける。その火に煙草が一本かざされ、鈴木先生の口元に運ばれていった。

 穏やかな鈴木先生らしい、ゆっくりした動作だった。煙は誠一を避け、風下の方に吐き出された。

「先生、煙草を吸ったんですね」

「びっくりさせちゃったかな。家では吸えないから、一本だけ許してね」

 鈴木先生の家には、奥さんと確か三歳になる娘さんがいた。結婚する前に、とか娘が生まれるから、とか理由をつけては禁煙し、そのたびに失敗してきたのだそうだ。

「生徒の前でも吸えないからね、大変だよ」

 誠一は、大人として認められたのかもしれない、と誇らしい気持ちになった。口下手だった少年が、ファミレスで先生の煙草休憩に付き合う。カメラの話は進まなかったが、その日誠一は賞ではない何かを学んだような気がしていた。


 八月の期末試験が終了し、静まり返った学内は写真の練習に最適だった。人からの視線を気にすることなく、誠一は午前出勤の時間まで首からカメラを提げて花や無人の食堂を撮って回っていた。

 久美に出会ったのはその練習中だった。

「写真部なんですか?」

 レンズから目を離すと、正面に女子学生が立っていたのだ。長い黒髪が風に揺れていた。

「違うよ、趣味」

「そうなんですか……。もしよかったら、写真、見てもいいですか?」

 文を区切って声に出すタイプの女の子なのかな、と思った。誠一は頷いて、手持ちの何枚かを黒髪の女の子に見せる。

「ふふ、みんな笑ってる」

 はにかみながら写真につられるように笑う女の子を見て、誠一は高校生の時に想像した笑顔を思い出した。

 嬉しいことを素直に嬉しいと言えないような、しかし嬉しいと何かしらで表現しなければいけない場面にも気づけるような、そういう自分の気持ちと他人が求める自分の折り合いをつけている年代。それは、もしかしたら大学生でも同じなのかもしれない。

 許可を取る前にシャッターを押し込んでいた。あっという声が上がる。

「ごめん、考えてたイメージにぴったりだったんだ」

「……私が?」

「いや、君の笑顔が――君が」

「言い直した。面白い写真部さんですね」

「写真部じゃないって。僕は、」

 斉藤。斉藤、誠一。女の子が久美、と名乗っていないことにも気がつかず、誠一は先ほどの女の子のように区切って名前を発音した。

「斉藤さん、ですね。私は酒井、久美です」

「真似?」

「ううん。フルネームを言うのって、意外に恥ずかしいですね」

 誠一は頷き、はにかむ久美にまたレンズを向けた。



 久美が誠一に対してはにかんだのはこの時くらいだった。

 笑ったり、怒ったり、たまに泣いたり、久美は誠一の代わりにいつも感情に正直だった。あれからはにかまなくなったということは、出会って数日で久美は誠一に緊張しなくなったということなのだろうか。

 いや、そんなことは久美にしか分からない。

 煙草の灰を長くしながら、誠一は久美のことを思い出していた。




 久美は好奇心旺盛で、はっきりした性格だった。誠一のカメラは高校時代からの付き合いであるということ、バイトの時間まで写真の練習をしていること、来年卒業するので研究が忙しいこと、どんな話もまっすぐ誠一の目を見ながら聞いてくれた。

「誠一さんって、彼女はいるんですか」

 休みの日も空いている学食に入り、遅めの昼食をとっていた。

 白いシャツにスキニ―パンツを合わせていた久美はいつもより運動が得意そうに見えた。トレードマークの長い黒髪も、今日は後ろで一つに束ねられていた。毛先まで綺麗にまとまっている。乾かすのが大変だろうな、と思っていたところだった。

「なに?」

「誠一さんって、彼女はいるんですか」

 聞き間違いではなかった。久美は同じ台詞を繰り返した。

「いないよ。忙しいし」

 いらないよ、と言えないところが我ながら男らしくない。実際は勉強やバイトを励ましてくれる彼女が欲しかったし、今まで親しくした人間が数えるくらいしかいないというのは寂しい気がしていたからだ。彼女でなくても友人が欲しかったのは本心だった。

 誠一はカレーを一口食べた。ほとんどがルーとライスのカレーライスは安くて学生の腹を満たしてくれる、誠一にとってありがたい食べ物だ。

「酒井さんは? 彼氏」

「いませんよ」

 ふう、ふう、とカレーを冷ましながら久美は言う。こともなげに言って、美味しそうにカレーを食べ始めた。

 久美は誠一と学食に入る時、高確率でカレーを注文していた。誠一と同じ意図であったかは分からないが、友達と食べる時にはパスタや定食も頼むと言っていた。

「もしかして、僕に合わせてくれてる?」

「そうかもしれませんね」

 久美ははっきりした性格だが、ものを断定しないときもある。

 それが事実を指摘された時だと気づくまでには数年かかった気がする。

「休み明ける前に、どこか出かけようか」

「海が良いです」

「じゃあ、海で」

 カメラを持って、横には久美がいる旅行の第一回目だった。


 久美と過ごすうちに、学内の被写体を探すよりも久美の表情の変化をカメラに収める方が楽しいと思うようになった。彼女の感情はいつでもはっきりしていて、いわば毎日がシャッターチャンスなのであった。

「良い彼女さんを見つけたんだね」

 娘さんが成長しても鈴木先生は変わらず、ファミレスで煙草をふかしていた。誠一は学習して、分煙の席を選ぶようにしていた。銘柄の混じった煙が辺りを満たしている。

「はい」

「じゃあ、そんな斉藤くんに僕からお祝いだ」

 鈴木先生は、煙草を一本差し出してきた。

 誠一はそれまで吸ったことがなく、受け取ってもいいものかためらった。

「何かが足りないって思う時に吸うといい。巧く吸えなくても、一人で吸う分には構わないんだよ」

 そういうものなのだろうか。誠一は火が付いたたばこに恐る恐る口をつけた。

 そして、盛大に咳き込んだ。

「まずいです、」

「はは、そうだろうね」

 それでいいんだよ、鈴木先生は笑った。

 帰り道、誠一は先生と同じ銘柄の煙草を一箱買った。


 久美と一緒にいる間は、足りないと思うことはなかった。煙草は一箱のまま増えることも減ることもなく月日が過ぎていった。

「セイって煙草吸うんだっけ?」

 そう聞かれるまで買ったことすら忘れていたくらいだ。大学を卒業し就職してからは本格的に時間が取れなくなって、鈴木先生に会えていなかったせいかもしれない。

「吸ったことはあるけど、それはおまじないみたいなものだって。前、鈴木先生が言ってた」

 おまじない、つぶやきながら久美は未開封の箱を手のひらに乗せた。

 鈴木先生は久美のことを気にしていたようで、休憩以外にカメラの講義途中でも話題に上がることがあった。

「私が吸っちゃおうかな」

「だめだよ、体に悪いから」

 久美が駄々をこねる前に、誠一はカメラを取り出した。彼女の興味の中心は誠一と、誠一が撮る写真にあることを知っていたからだ。

 煙草の隠し先を考えながら、誠一は今日も久美を写真に収めた。

「今日はどういう私?」

「わがままを言いそうな久美の写真」

「む、吸わないよ」

「お菓子は食べたのに?」

 久美ははっきりした性格だが、意志が弱いところもあった。

 自分で決めたダイエット計画を半日と待たずご破算にしてしまったり、寝起きが良くなかったり、つまりだらしのないところがあった。誠一はだらしのない久美を写真に撮りたいと思うようになっていたが、久美が怒ることは予想できたため現時点では寝坊したときの顔しか撮れていない。

「セイ、今度の旅行ね、」

「ああ、休み取れたよ。今度の週末で大丈夫」

 久美は接客の仕事に就き、なかなかの成績を出しているそうだ。ハイヒールで長時間立っているのも苦にならなくなってきたらしい。

「カメラって持っていく?」

「もちろん」

 誠一は即答した。旅行中くらいしか満足にカメラを触っていられない今、久美を写真に収めるには絶好のチャンスだったからだ。

 ものを断定しないときの久美は、あまり良くないことを言いかねている時だと気がついていなかったのだ。



 誠一は蒸し暑さに窓を閉めた。直したばかりのクーラーはすぐに稼働する。

 今思えば、久美の言葉には理由があった。誠一が拾い損ねていた断片をつなげていくと、確かに彼女が最後に残した言葉につながる。

 一人暮らしの部屋はすぐに冷える。

 そういえば、久美は暑さが苦手だった。



 久美と喧嘩が続くようになったのは、鈴木先生の娘の写真を撮りに行ってからのことだ。

「お休みに、わざわざただで撮りに行くことはないんじゃないの」

「でも、鈴木先生にはお世話になってるんだ」

 デスクワークの誠一と接客業の久美は、二人そろっての休日を取ることが難しかった。

 それは新卒から変わらず、特に久美の心の余裕を奪っていった。ようやく合った休みが鈴木先生との撮影に浪費される、久美はそう考えるようになっていったのだろう。

 その時は久美を喜ばせるつもりだった。

「見て、先生にそっくりなところが撮れたんだ」

 ところが、返ってきたのは潤んだ声だった。

「カメラ、やめない……?」

 久美はすぐに何でもないと口を閉じたが、誠一には聞こえてしまった。

 誠一の指を離れた写真は、二人の間に落ちた。久美が好きなはずの、笑顔の写真だった。


 カメラを置いての旅行は初めてだったかもしれない。誠一はこそばゆい気分になりながら久美の手を握っていた。

「たまには、こうやって落ち着いて歩くのもいいね」

 上機嫌な久美は砂浜にしゃがみ込む。彼女は海が好きだった。

「サンダル、歩きにくくない?」

「いつもヒールで歩いてるんだよ。大丈夫」

 器用に片手で砂をいじりながら、久美は微笑んだ。

 握り返される力が弱いことには、カメラを持っていなかったから気がついた。

「こうやってね、セイに気がついてほしかったの。私が辛かったこと」



 砂浜で撮れなかった、彼女の最後の笑顔。

 誠一はあれも久美にとっては笑顔だったんだな、と理解した。泣きそうになりながらも、誠一のためだけに作られた笑顔。

 砂浜で泣きながら、久美はカメラを止めてほしいと誠一にすがった。

 誠一は、即答できなかった。

 雑誌の中面には、見開きで子どもの笑顔が載っていた。誠一が撮った、鈴木先生の娘の顔だった。

 鈴木先生に似ている、あの顔が好きだった。

 あれが、久美だったら。

 誠一は、雑誌をごみ箱に捨てた。


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