最終話『ウソカタルシス』
小さな街だった。
山のふもとにある、旅客や商人の往来で成り立っているような、小さくとも賑わった街。
フレイが訪れたのはその街の隅にある、石造りの小さな家だった。
扉を叩くと出てきたのは黒髪の少女。目はくりっと丸く、少し童顔で唇は小さい。整った顔つきに、扉を開くだけでもわかるほど所作は美しく精錬されていた。
少女は熊のように大柄なフレイを見上げて、不審な顔つきになる。
「どちら様ですか?」
「ワイはフレイ=フレム。義勇ギルド【炎の牙】の副団長を務めとるもんじゃが。そう警戒せんでええ」
「義勇ギルド……あの、うちに何か用ですか?」
「いや、ギルドとは関係ない要件じゃ。友人のセイシンから、オメェさん宛に手紙と言付を預かってきとる」
手にした封書をちらりと見せると、少女は驚いた表情を見せて扉を大きく開いた。
「お兄ちゃんから! どうぞ、中でお話を聞かせてください」
「失礼する」
狭い扉をくぐると、すぐにリビングだった。
キッチンそばのテーブルに椅子が二つだけ。その片方を勧められて座ると、少女はすぐにお湯を沸かし始めた。家事の手つきは滑らかで、食器や薬缶はせいぜい二人分のサイズ。セイシンの言ったとおり、ずっと一人で暮らしているのがわかる。
「あの、お兄ちゃんとはどういう?」
「武闘大会で知り合ったんじゃ。色々あって、最も信頼する相手の一人になったじゃが」
「そうですか。じゃあ、お兄ちゃんは元気なんですね」
「おう。息災じゃ」
正面に座るのを待ってから、フレイは封書を渡した。
少女はすぐに開封すると、中に入っていた手紙を読み始める。初めは明るい表情で読んでいたが、少しずつ顔が曇ると、最後は神妙な面持ちで顔を上げた。
書いている内容までは聞いていないが、おそらくこの数か月にあったことを記したものだろう。ネムセフィアのことも、リッカのことも、書いてあるに違いない。
「……フレイさん。お兄ちゃんは、魔族の国に行ったんですか?」
「そうじゃが。もうそろそろ着く頃合いじゃろうて」
「そうでしたか……お兄ちゃん、魔族の女を選んだんだ……」
少女が見せた表情は、とても痛烈なものだった。
彼女の言葉を聞く限り、兄を慕う妹のそれに近しい。しかしその表情の機微に、フレイはある懸念を深めた。
ひとまずセイシンから頼まれていた一言とともに、預かっていた袋を取り出して机に置く。
「『すまないシズ。もしかしたらこれが最後の仕送りになるかもしれない。もしいずれ生きるのに困ったらフレイに頼ってくれ』とのことじゃ。ワイもできるのは仕事の斡旋くらいじゃがな」
「……そうですか」
少女は机に置かれた金貨入りの袋には一切手を付けようとせず、言葉を絞り出す。
「ありがとうございます……」
「心中察するんじゃが」
フレイはまるで世間話をするかのようにして言う。
「オメェ、本当は記憶失ってねえじゃが?」
質問を投げたと同時、それは確信に変わった。
なぜならその台詞を言い切った時には、フレイの首には包丁が添えられていた。
頸動脈に食い込んだ、一本の刃物。
目の前にいたはずの少女の姿は消えていて、視界の後ろから、まるで死神のように冷ややかな声が聞こえる。
「それはお兄ちゃんから……セイシンから聞いたの?」
耳元で囁くその言葉は、返答を間違えれば即座に死を与えてくるものだと、野生の嗅覚で理解していた。
だがフレイは動じない。
フレイは、強者に怯えない。
「オメェがレナ=ステイルスだったっちゅうことも、いまはシズ=アスニークとして生きていることも聞いたじゃが。まあ、セイシンはオメェが本当に記憶を失ったと思ってるけどのう」
「……なら、あなたは、どうしてわかったの?」
「獣の臭いじゃ」
フレイは鼻を鳴らす。
「この家の周囲にはまったく生きたものの気配がせんかった。ネズミどころか虫すらも寄り付いとらん。街の中にありながら、まるで猛獣の巣と同じ臭いがするんじゃ」
「それだけでわかったの?」
「あとは、オメェ自身じゃ。あのセイシンが恐れるほどの暗殺者らしい、どんな動作ですら隙を見せん動きじゃが。セイシンですら湯を沸かすときや、ネムセフィアを見つめるときは隙だらけじゃ。なのにオメェは手紙を読んでいるときも茶葉を計るときも、セイシンが旅に出ると知ったときすら、一切の隙も油断もない。これで暗殺者としての記憶がない、なんてほうが理屈に合わん」
「……へえ、驚いた」
少女――レナは、手にした包丁に力を籠める。
皮膚が一枚裂けて血がにじみ出す。
死の足音が聞こえてきた。
「じゃあ、どうしてなの?」
「……なにがじゃ?」
「どうして、それをレナに言ったの? 気付いたことを言えば、殺されることくらい想像できるよね?」
「阿呆か」
フレイは笑う。
「相手は殺しのプロじゃ。どんなことをしてたって、死はいつでも首元におる。言えば殺されるのと、言わなければ殺されるのと、どっちの確率が高いかなんてワイの視点からは分からんじゃろうが。なら、ワイはワイの心に従うまでじゃが。それが獣の矜持っちゅうもんじゃ」
「……驚いた」
今度こそ本当に驚いたようで、レナは包丁を下した。
首から死の気配が失せると、フレイは椅子ごと振り返る。
目をぱちくりとさせる暗殺者はそれでも尚、どこにも隙は無い。
しかし殺意も消え失せていた。
「のうレナ=ステイルス。ワイはセイシンの頼みでここに来たが、ワイの個人的な用事もできたんじゃ。そのために、オメェにいくつか聞きたいことがある」
「個人的な用事? レナに?」
「おう。オメェ、記憶のことはセイシンに黙っておくつもりじゃが?」
「……うん。たぶん」
レナは悲しそうに目を伏せる。
「でもわかんない。黙っててももう、意味ないから」
「意味がない? どうしてじゃが」
「だって、セイシンはレナを選んでくれなかった!」
寂寥の言葉にも、レナは泣かなかった。
涙で視界が滲むような隙など、彼女は見せない。
だがその心からは、間違いなく痛みが漏れているのはわかる。
「三年前、わかっちゃったの。セイシンはレナが怖いんだって。一緒にいるのは怖いからなんだって。だからレナは、シズちゃんの代わりになろうって思ったの。女として選んでくれなくても、妹としてならずっと一番にしてくれるって思ったから。妹なら、ずっとセイシンの一番でいられるんだって思ったから」
「……じゃが、セイシンは……」
「うん。そんなこと、セイシンが誰かを好きになるまでだってわかってた。もしかしたら、セイシンはシズちゃんへの想いがすごく強いから、一生そんな相手はできないかもって期待してた。でも……」
「ネムセフィアは、すごい女じゃ」
フレイはシズ=アスニークのことは知らない。
だが、ネムセフィアのことはよく理解していた。
どれだけ孤独になろうが、虐げられようが、誰かを憎むことはしない女だった。
「セイシンが惚れたのも無理からぬ話じゃが。魔族だとか人間だとか、深く知り合えばそんなことは気にならんくらいのう」
「……そうなんだ」
「じゃから、セイシンはオメェを捨てたんじゃくて、ネムセフィアを選んだっちゅうだけのことじゃ。オメェの記憶がどうであれ、セイシンが進む道は変わらんじゃろうて」
レナの心の底は分からない。
だが、レナ=ステイルスという人間は悲しみで自棄になるような相手でないことはわかる。
ゆえにフレイは言葉を続ける。
「オメェが真実を伏せるのかどうかは、自分の好きにすりゃあええ。セイシンはもうシズ=アスニークの死を受けれ入れとるからのう。ワイが気がかりなのはオメェじゃ、レナ=ステイルス」
「……レナ?」
「おうよ。オメェは根っからの獣じゃろう?」
フレイは牙を見せて笑う。
強者を恐れず、飼いならされることを良しとしない誇り高き獣の笑みを浮かべる。
「ワイは我慢ならんのじゃ。オメェみたいな優れた獣が、誰からも隠れるようにして生きてるっちゅうことがな。そりゃあ、オメェの好きにすりゃあええ。じゃがワイは、オメェが吠える姿を見てみたい。オメェが凛として立つその姿、その強さを見てみたいんじゃが」
フレイは懐から名刺を取り出す。
義勇ギルド【炎の牙】、その名刺を差し出して。
「ワイらは義勇ギルドじゃ。かつての勇者の正義を受け継いで、腐敗した強者に噛みつく野良犬の集団じゃが。この国にはまだまだ腐った権力者が大勢いるからのう……オメェ、その力を活かしてみねえか?」
「本気なの?」
何度目かわからない、レナの驚いた表情。
「レナ、暗殺者だよ。殺すことしかできないかもしれないんだよ。そんな義勇ギルドなんて、入っちゃダメな存在でしょ」
「だからオメェは阿呆じゃ」
フレイは手を差し伸べる。
いままで欺瞞を生きてきた――嘘騙る妹に、それがどうしたと言わんばかりに。
「確かにオメェは猛獣じゃ。じゃが、喰うか喰われるかの野生で育ったワイのような獣にすら、変わるきっかけを与えてくれた組織じゃ。オメェが何者であろうが、新しく生きようとする者の意志を義勇ギルドは……ワイは拒まねえ」
「あははは……あなた、すっごく変わってるね」
少女は笑いながら、その差し出された武骨な手を握り返したのだった。
おしまい。




