表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ウソカタルシス ~魔王暗殺の虚飾~  作者: 裏山おもて
4章 彼と彼女の奸計<カンケイ>・上
38/56

人体燃焼の謎

 

「気持ちの良い朝だ。そうは思わないかセイシン?」


 太陽が地平線に顔を覗かせたばかりの時間帯。

 街を歩く人たちもまばらだ。殆どの人はまだ夢の中だろう。そんななかこうして客を招いているなんて、この街でもセイシンだけに違いない。

 ソファに座り紅茶が沸くのを待っている間、窓から見える青空を眺めて客人――ディルが目を細めた。


「久々の晴れた朝だからな。思わなくもないけど」


「君としては三日も牢屋で退屈だっただろう。こうして自由な朝に感謝すべきだと思うが」


「おいおい恩着せがましいなディル。ま、一応感謝しておくけどよ」


「君に貸しを作れる数少ない機会だからね。たっぷりと優越感に浸らせてもらうさ」


 ディルの介添えもあり、条件付きで自由になれたセイシン。

 とはいえディルの態度は彼なりの冗談だということはわかっている。素直に感謝されるのはむず痒いから、冗談めかしているだけだ。


「ところで、君の姫君たちが見当たらないが」


「まだ寝てるんだよ」


 王宮騎士相手だからと畏まる二人ではない。

 それに宿の朝食までまだ一時間はある。普段ならセイシンすら夢の中だ。


「セイシンが起きているから、てっきり全員起きていると思ってたよ」


「リッカはもともと朝が弱いんだ。ネムは昨日までの疲れがあるからな。そう急かすなって」


「僕も多忙でね。少しでも長く、君たちと話がしたいのさ」


 半分は本心、半分は建前だろう。

 そもそもディルが早朝に訪ねてくるのは昨日のうちから予定していたことだ。リッカとネムにも話しておいたので知らないわけではないはず。

 それでも起きない相手を、まだお茶も煎れていない時に無理に起こす気はなかった。

 ディルもそれ以上は食い下がらず、部屋の中を見渡した。


「しかし良い部屋だね。随分と広くて調度もいい。飾り物の趣味も素晴らしい。絵なんかも、一級品ばかり置いているね」


「わかるのか?」


「それくらいは嗜みさ。寝室はいくつあるんだい?」


「二つだ」


「では、リッカ様とネムセフィアは同じ部屋で寝ているのか。それは意外だ。あの二人は特に憎み合っているとばかり」


 感心するディルだったが、想像とは違う。


「いや、リッカは一人部屋だよ。基本的にネムと俺が一緒に寝ることにしてる。もちろんベッドは別だけどな」


「……ほう」


 何やら言いたげな表情だった。

 言いたいことはわからなくもないが、セイシンは前もって釘をさしておく。


「ネムを守るためだ。前に泊まった村で別の部屋にしてて襲われたんだよ。相手が一般人だったからよかったものの、あれが戦い慣れている相手だったらネムは死んでた。それ以来、ネムも誰かと一緒じゃないと安心して眠れないみたいだったしな」


「そうだったか。邪推してすまなかった」


 ま、若い男女が同じ部屋で寝るのだ。勘ぐって当然だろう。

 色恋沙汰はいつでも興味の対象だ。


「そういや、ディルはそういう相手いないのか?」


「いるさ。婚姻している幼馴染が王都で僕の帰りを待っている」


「幼馴染か。どんなひと?」


「気立ての良い女性さ。僕なんかには勿体ないくらいにね」


 ディルも二十歳だ。

 良い仕事にも就いており、婚姻を結んでいてもおかしくはない齢だ。


「そういえば、君の妹君はいくつなんだ? もし相手がいなければ、僕の弟をおすすめするよ」


「十六だけど……おまえ弟いたのか」


「弟が生まれてからはずっと兄さ。僕よりも少し聡明で、ただ騎士としては優しすぎるきらいがある。まだ十七歳だから剣の腕は成長途中だけどね。贔屓目だが、かなり優秀な部類だとは思う。ただ周囲の女性に恵まれなくてね」


「女難ってやつか」


「ああ。言い寄ってくる相手が、何かしら問題を抱えている場合が多いのさ。弟は優しいからその全てと真面目に向き合うから、彼女たちはみな本気になってしまう。時にはナイフを持ち出して死のうとする少女もいるほどだ」


「うへえ。それは怖いな」


 家柄も良いだろうし、ディルの弟ってことは顔も良いだろう。蜂を吸い寄せる花の蜜のような男を想像してしまう。

 ただそういうことなら、


「じゃあ俺の妹はおすすめしないな。大きな問題がひとつある」


「なんだい? もしかして、精神的に参っているとか?」


「俺こそが大問題だ。妹は誰にもやらん!」


「精神的に参っているのはどうやら君のようだ」


 そんな冗談を交わしていると、寝室からリッカが出てきた。

 寝ぼけ眼をこすりながら、雑談するセイシンとディルを交互に眺め、


「……そういえば、来るって言ってましたね」


 踵を返して洗面所に向かった。

 しばらくして戻ってくると、部屋着から動きやすいいつもの軽装に着替えていた。髪は整えるのが面倒だったのか、後ろでひとつ纏めに括っている。

 ちょうどお湯が沸いたので、紅茶を四人分煎れる。

 並べたカップを見て、ディルが首をひねる。


「まだネムセフィアが起きてないようだが」


「さすがに寝すぎだな。起こしてくる」


 セイシンはそう言って寝室に向かった。

 奥のベッドで丸くなって寝ているネムを覗き込む。熟睡しているのか、シーツを握りしめたまま微動だにしない。

 可愛い寝顔だった。


「ネム、そろそろ起きろ。ディルが帰っちまうぞ」


「……んん」


 薄く目を開けて、こちらをちらりと見る。

 まだ夢の中にいるのか、セイシンの腕を引き寄せようとしてくる。

 かなり寝ぼけているようだ。


「紅茶も煎れたぞ。好きだろ、紅茶」


「……ん」


 紅茶に反応したのか、少し頭を持ち上げる。しかし力尽きてベッドに沈んでゆく小さな体。

 これは起きる気配がなさそうだ。


「仕方ないか」


 セイシンはネムの体の下に手を入れて持ち上げた。

 抱きかかえた状態でリビングに戻ると、紅茶を飲んでいたディルが目を丸くする。


「この一か月で、君たちは随分親密になったようだね」


「さすがにここまで起きないのは今日が初めてだよ。領長の家で何かされたかもしれん」


 丸一日以上、監禁されていたらしい。

 昨日助け出したときは衰弱していた。脱水症状、栄養失調などの気配もあり何も食事を摂らされていなかったようだ。何か薬を飲まされていたようで、帰って食事を摂ると、泥のように眠り始めたのだ。

 一応、眠ったままソファに座らせる。寝室に置いてきてもよかったけど、目の届くところにいたほうが安心だというのもある。

 ただそれ以上に、ネムがセイシンの腕を握ったまま離さなかったから、こうするしか方法がなかったとも言える。

 リッカはもはや慣れた様子で、気にすることなく紅茶を啜っていた。

 ディルも気を取り直し咳ばらいをして言った。


「では、情報整理をしよう。僕が依頼した【暗殺教団】のことと、現状セイシンが置かれている状況のふたつが主題だ。【暗殺教団】に関しては、リッカ様から報告をお願いします」


「はい。バーラクさんがライナ=レストレイアから聞き出した情報をもとに、三日前の朝から隣街へ出かけていました。その街の小さな商会がアジトになっている、とのことでした。しかしわたしたちが向かった時はすでにもぬけの殻になっていて、逃げられた後でした。どこからか情報が漏れていたのでしょう」


「逃げたってことは、アジトだったってこと自体は間違いないんだな?」


 セイシンが聞くと、リッカは頷いた。


「間違いなさそうでした。逃げたのもわたしたちが着く前日だったようです。それゆえ残された物もたくさんあり、バーラクさんたち遊撃隊がその証拠品の収集と解析と進めています」


「跡は追えそうですか?」


「ええ。時間も限られているので、そう遠くは行っていないでしょう。もともとかなりの情報を手にしていましたし、【暗殺教団】の頭首の風貌も、その街の複数人の証言から割り出せました。急襲は失敗しましたが、追い詰めるのは時間の問題です」


 それはかなり良い報告だった。

 ディルにとっても朗報なのは間違いなかったようで、安堵の息を漏らしていた。王子を狙った暗殺組織など少しでも早く潰したいのだろう。


「ちなみにバーラクさん、ディルヘイムさんが来たことでこの街には戻らないつもりみたいです」


「僕は嫌われているからね」


 あっさりと認めたディル。

 王宮騎士同士の確執をなんとも思っていないように、平然と言ってのける。


「遊撃隊の配属というのは、いわば左遷されている状態と同じなのさ。一方僕はまだ二十歳だが、王宮騎士のなかでもエリートと呼ばれる王族直属隊。カーキン第一王子とは幼い頃からの友人だということもあり、そんな僕がどうにも鼻につく様子なのさ。顔を合わせたくもないのだろうね」


「性格的にもそりが合わなさそうだしなあ」


「そうだね。彼は不真面目で、僕はほどよく真面目だからね」


「おまえは真面目すぎるだろ」


「そんなことないさ。これでも王宮騎士のなかでは緩いほうだよ」


 笑って言うディル。

 それが冗談なのかどうかは、セイシンには測りかねるところだった。


「【暗殺教団】頭首の追跡は彼に任せてもいいみたいだね。彼は性格的に難があるけど、仕事だけはできる男だ。きっと数日のうちに、逃げた先も突き止めるだろう」


「そうだといいですね」


「だからそのうちに、セイシンの現状をどうにかしておかないとならない。このままだとセイシンは街から出られないからね」


 ディルの言葉に、大きく頷くセイシンだった。

 兵士たちからも念を押されていたが、絶対に居場所をくらませてはならないようだった。この宿に居続けることができなければ、兵士の宿舎に寝泊まりする場所も用意されているらしい。保釈にあたって、ディルが保証人としてセイシンの身柄を預かっているという状況でもある。逃げたり隠れたりすればディルにも迷惑がかかるのだ。


「できればバーラクのやつを直接問いただしたかったけどな」


「彼が戻ってこないのは、それも狙いだろう」


 ディルが顔をしかめた。

 どう考えてもバーラクが仕掛けたことで間違いはなさそうだった。それこそ無理やりにでも真相を吐かせることができれば楽なのだが、それは最終手段で良いだろう。

 バーラクが犯人だという証拠を出す必要はないのだ。


「ようは、セイシンさん以外にも男を燃やすことができたという証明をすればいいんですよね?」


「そうだ。ただ、圧倒的な手がかり不足でな。状況から察するにも限度がある」


「そのために動いてくれていたのが、ネムセフィアなのだろう?」


 ディルは、セイシンの腕にしがみつきながら眠る小柄な少女に視線を移す。

 まだ起きる気配はない。


「……セイシンさん」


「ん?」


「女性の髪を無断で撫でるのはどうかと」


「うおっ!?」


 無意識に撫でていた。とっさに手を放す。

 リッカは肩を落として、セイシンにくっついたまま眠るネムを睨みつける。


「昨晩からネムセフィアも明らかに様子が変わりましたよね。惚れ薬でも飲まされたのでしょうか」


「惚れ薬なんてものがあったら最悪だな」


「それにしては嬉しそうですが?」


「俺に惚れる分にはいいんだよ」


「自己中心的すぎませんか」


 呆れるリッカだった。

 冗談も冗談だったが、しかしあながち的外れというわけでもなさそうだった。それまでのネムは、他人に触れられるのを明らかに警戒していたはずだ。眠っているとはいえ、ここまで身を委ねられると違和感しかない。

 あと腕に触れているネムの体が思ったより柔らかいので、意識しないように努めるのは大変だった。


「セイシンさん、鼻の下が伸びてますよ」


「さて、真面目な話をしようか! ネムが集めていた手がかりだったよな!」


「……まったくもう」


 気にしないフリをして、セイシンは懐から手帳を取り出した。

 昨晩、ネムから渡されていた手帳だ。

 その中身はひととおり目を通していた。関係あるのか、ないのか、どうなのかもわからない事柄が、無造作にたくさん羅列されてあった。たった数日でここまで多くの情報をひとりで集めたのか、というくらい書き込まれていたのだ。

 セイシンのために走り回ってくれたことが、はっきりとわかる。


「……ありがとな」


 寝息を立てるネムに、小声で礼を言う。


「読ませてもらってもいいかい?」


「ああ。リッカも読んでくれ。気付いたことがあれば言って欲しい」


 二人が肩を並べて熟読する。

 一見、断片的な情報が羅列してあるだけの手帳だ。現場の状況、兵士の話した内容が事細かくあり、目撃情報から、証言してくれた相手やその内容まで。そのうえ、ネムが考えた推測や仮説なども書き込まれており、読むだけでも時間がかかる。

 しばらく黙っていると、二人が手帳から顔を上げて眉をひそめた。


「これだけじゃ、何もわからないが」


「はい。さっぱりです」


 それもそうだろう。

 今回の問題は、他に誰もいない場所に座っていた男が、ひとりでに燃え上がった現象を説明できるかどうかだ。

 誰が、どうやって、セイシンに気付かれずにその難題を突破したのか。

 火種は壁にかかった松明ひとつ。そして更に、炭になるほど勢いよく燃えた理由も考えなければならない。

 ネムが調べたことだけを読んでも答えには程遠い。

 だからこそ知恵を出し合うのだ。


「俺も牢屋に入れられてる三日間、色々考えたんだけど」


 セイシンは手帳を見つめて首をひねる。


「どう考えても、遠隔で火を点けるためには何かしらの仕掛けが必要なんだよ。そして仕掛けをすれば、必ず痕跡は残る。例えば導線を使ったら導線の燃え痕が残るし、火薬を使えば反応跡が残る。天井、床、壁、周囲をいくら調べても炭と人体しか出てこなかったってことは、その周囲に何かが仕掛けられたってことはなさそうだろうし」


「人体の中ならどうだい?」


「それも考えたけど、じゃあ、どうやって人体の中から炎が燃え広がる? 体内のほとんどは水分だ。水分を蒸発させるほどの火力が一気に生まれたら、さすがに俺もその時気づくはずだ。俺の知らない間に火が付いたってことは、少なくとも一気に燃え広がったわけじゃない。徐々に火がついて、それが燃え広がっていったと考えるべきだ」


 あの時、男がうめき声でも上げていれば、少なくとも体のどこから燃えたのかが見れたかもしれないが。


「何かを燃やすっていうのは、わりと難しいことのはずなんだ。それが人体ならなおさらだ。その方法がわからない」


「このネムセフィアが書いているココはどうですか?」


 リッカが手帳を示す。

 書き込まれた文字の中に『鼻につく臭い。下水か体臭?』と書かれていた。目撃者の証言のところだったので、あまり詳しく読んでなかったところだ。


「薬品などが使われていたら、そういう臭いがするものですか?」


「油なんかはそうかもしれんな」


 返事をしながら、セイシンは思い返していた。

 そういえば、男が燃えていると気づく少し前に、鼻をつくような異臭をかすかに感じた覚えがある。雨で下水が漏れたのかと思って気にしなかったが、もしそうじゃなかったとしたら。


「……薬品か油、か」


 その可能性も考えていなかったわけじゃない。痕跡が残っていないから、可能性は低いと睨んでいたのは確かだが。


「服に薬品を染みこませて、そこに火種を落としたら燃え広がりませんか? 可燃性の高いものだとしたら」


「そうだな。あり得なくもない……ただ、少し炎反応が違う気がするんだよ」


「炎反応ですか」


「ああ。人体を燃やすために薬品を使うのは、たしかに有効だ。油なんかも可能だろう。ただ、その場合のほとんどは一気に表面が焼けて、薬品が燃え尽きたら鎮火するはずなんだ。体の芯まで燃えるなんてことは、相当な量の薬品がかかってないと難しいと思う」


「じゃあ、その男の人が薬品で濡れていたらどうですか」


「そうすれば濡れているってわかっただろうし臭いももっとしたはずだ。何より燃え方が違う。天井を焦がしてはいたけど、炎はもっと静かに激しく燃えていたんだよ。周囲の物に移らないくらいの、ただ炎がしっかり燃え続ける程度の火力で」


 リッカの仮説は、かなり近い部分まで来ているような気はする。

 だがあと少し、何かが足りない。


「そうですか。静かに、ただ確実に燃える一定の火力……なんだかロウソクみたいですね」


「そうだな。そんな感じで燃えてた」


「……ロウソク?」


 ディルが眉根を上げたのは、その時だった。


「どうしたディル」


「すまない。ひとつ聞かせてもらってもいいかなセイシン。君は男が燃え尽きるまでその場にいたと思うが、その男は移動していたかい?」


「いや、椅子に座っていた」


「呻くこともなかったと言うが、つまり君が気づいたときにはすでに死んでいた可能性があったと?」


「ああ」


 ただ、それまで生きていたのは間違いない。死人と寝ている人間を間違えることはあり得ない。呼吸や鼓動は、少なくとも最初に男を見た段階では時を刻んでいた。


「死んだのは、俺が燃えていると気づくまでの間だな」


「では座ったまま死んだのは確実なんだね。一度も動かなかった、と」


 念を押すディル。

 セイシンが頷くと、彼は何かを思い出すように言った。


「足だ」


「……足?」


「なぜ足が燃え残ったんだ? セイシン、君は見たんだろう? 炭になるほどの炎でも、なぜか膝から下だけが燃えなかったと」


「ああ。だが、それは単純だよ。炎は上に燃え広がるからな。膝から下へは延焼しない」


「確かにそれは理に適っている。じゃあもう一つ聞くが、普通の焼死体にもその現象は当てはまるか? どうだいセイシン」


「それは……」


 確かに、足だけ残った焼死体は聞いたことがなかった。

 足だけ残ることは不自然ではない。だが、それが理に適っているだけで現実に起こることは稀なはずだった。そうでなければ、もっと同じ状況を聞いたことがあるだろう。

 ディルは続ける。


「なぜ足が焼け残ったのか。僕の想像が正しければ、そこに鍵がある」


「教えてくれディル。おまえの見立てを」


「膝から下には、肉がついていない(・・・・・・・・)からさ」


 ディルは自らの、そしてセイシンの足を交互に眺めた。


「その男がどんな人間だったのかにもよるが、基本的には膝から下には余分な肉が付きづらい。骨と皮がほとんどで、燃える要素が他の部分に比べて少ないのさ」


「でもディルヘイムさん、それなら他の焼死体にも同じ現象が起こりませんか?」


「ええ。しかしそれが、人体以外の可燃物が周りにあれば、の話です。他の焼死体は、基本的には建物が燃えたりしたとき、中に取り残された人間が焼死したものです。周囲が燃えていて、そのせいで人体が燃える。だから全身くまなく燃えるんです。しかし今回は、周囲のものは何も燃えなかった。人体だけが燃えた。これが通常とは違うところです」


「……たしかにそうですね」


「では、今回のように人体しか燃える要素がなかったとしたら? もし薬品や、油なんかも使われず、ただ人体の成分だけで燃えてしまったとしたら?」


 それはかなり考えづらいことだった。人間の体の中は、さっきも言ったとおりに基本的は水分だ。燃えることは難しい。

 ただ、しかし。

 ディルの言う通りそれが可能であれば、可燃性の高い要素が確かに一つだけある。


「……脂だ」


 肉に乗った脂。それこそが可燃物といえる。


「脂ですか。でも、脂だけでそれほど燃えるとは……」


「もしその男が浮浪者のように、何日も風呂に入っていなかったとしたら」


 ディルが手帳を見つめて言う。

 そこに書かれていたのは『体臭?』というネムの文字。


「もしその男の衣服に、男の体から出た脂が何日分も染みこんでいたとしたら、炎がつけばどうなると思う? 鎮火するまえに、じっくり炎が燃えるだろう。それだけじゃなくて、男が肥満体質だったらどうだい。燃える炎と、溶けだす脂……それらはロウソクのように永遠と燃焼を繰り返し、全身へと燃え広がると思わないかい?」


 それはかなり説得力のある仮説だった。

 実際に燃えるためには、他にも要素が必要かもしれない。しかし条件は満たしている。たしかに眠っていた男は少し太り気味だったし、なによりあの臭いが体臭だとすれば納得できる。男は数日間、風呂に入っていなかったような浮浪者にも見えたから。


「しかし」


 と、ディルはまだ気になることがあるようだった。


「僕のこの発想を裏付けるために、もう一つ調べないとならない」


「なんだ?」


「あの男が誰だったか、さ」


 それはセイシンも後回しに考えようとしていた事象だった。

 死者が誰だったのか、は今回のトリックには関係ないと思っていたからだ。


「もしバーラク卿が殺人を仕組んだとして、そして僕の説が正しかったとすれば、それはつまりバーラク卿があの男の衣服に数日間の脂が染み込んでいることを知っていなければならない。あの男がバーラク卿に関わる者で、なおかつ彼が殺しても法的に裁かれないような特殊犯罪容疑者だとすれば、その正体は一人しかいないだろう」


「――ライナ=レストレイアですか!」


 国家反逆罪で捕まり、数日間尋問されていたという商人。

 昨日から、ディルは死んだ男がライナ=レストレイアだと仮説を立てていた。確かにそうであればこそ、ディルが思いついたロウソクのように燃える現象も成り立つ。

 ディルは荷物をまとめ、席を立った。


「なら僕のやることは決まった。遊撃隊に連絡を取り、ライナ=レストレイアの生存を確認する。もし彼が消息不明となれば、僕の説はほぼほぼ正しいだろう」


「ああ、頼んだ」


「死者がライナ=レストレイアだとすれば、あとの問題は火を点けた方法だけだ。それは君に任せるよセイシン。それじゃあ僕はすぐに動くよ。紅茶、御馳走さま」


「おうよ。助かったぜ相棒」


「また連絡する」


 セイシンの言葉を背中で受け、颯爽と去っていくディルだった。

 人体がロウソクのように燃焼する、か。

 化学物質も、科学的トリックも使わない、人体だけで完結する燃焼。それは科学で思考しようとするセイシンだけでは思いつかなかった発想だった。


「……ん……?」


 と、慌ただしくディルが去った直後、ようやくネムが眠りから覚めた。

 なぜソファに座っているのかわからない寝ぼけた様子で、自分と、自分が抱き着いているセイシンの腕を交互に見て、とっさに離れたネムだった。


「……変態」


「理不尽か!?」


 まるでこっちが悪いような目で睨まれる。

 こうしてひとまず調査はディルに任せ、口論を挟みながら朝食を摂ることにしたセイシンたちだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ