計略看破
「……ってことで、よろしく頼む」
「おう。任せるじゃが」
膝を叩いて立ち上がったフレイは、そのまま大股で地下牢から出て行った。
かなりフレイ頼みになってしまうが、ひとまず策は弄せた。
息をついたセイシンの耳に、すぐさま別の足音が聞こえてきた。やけに規律正しい足音だと思えば、規律を守るを良しとする男だった。
「ひどい有り様だな、セイシン」
「ディルか……」
牢の前で直立し、こっちを冷ややかに眺めたのは王宮騎士ディルヘイム。セイシンの体をじろじろと見てくる。
いまさらなんの用だろうか。
「まるで拷問を受けたようだな。リッカ様もなかなか容赦がない」
「そう思うならこの鎖外してくれ。座りたいんだけど」
「質問に答えてくれたら検討しよう」
ディルは鉄格子に近づいて、
「魔王の娘はどこに逃げた? 君が指示したのは確かだろう」
「さあな。街の外にでも逃げたんじゃないか」
「それはない。すべての門を堅く閉ざしている。街のどこかにいることは確定事項だ」
「じゃあ、おまえらが探してないどこかだよ」
「戯言を」
忌々しい物を見るかのような視線で、セイシンを睨んでくる。
「君はなぜそうまでして魔王の娘を守ろうとする? 君とやつには接点などなかったはずだ。脅されているわけでもあるまい?」
「何度も言ってるけどな」
セイシンはわざと聞こえるようにため息をついた。
「俺は、ネムが犯人だとは思ってない。それだけだ」
「本当にそれだけか?」
「ああ。例えば疑われてるのがおまえでも、俺は同じように味方をするだろうさ。……たしかに、おまえやリッカがネムを嫌ってる理由はわかるし、ネムの言動が怪しいのも事実だ。だがそれでも、俺はあいつが犯人じゃないと思ってる」
「毒が出てきたことに関してはどうなる」
「じゃあ逆に聞くけどな、ネムの部屋から出てきたのは王子が飲んだ毒と同じものだったのか?」
「それは……」
ディルは視線を逸らした。
やはり。
「もう一日以上経ってるんだ。さすがに調べただろう。その結果、俺が当ててやろうか?」
「……言ってみるがいい」
「毒は検出されなかった。違うか?」
セイシンは断言する。
確信があった。
王子が飲んだ物が猛毒であれば、残ったのが微量であっても吐瀉物からすぐに検知されるだろう。王都ではないとはいえ、王子についている者たちは騎士から医師から全員がすべて一流だ。毒が強ければ強いほど、特定は容易いはずだ。
ディルは小さく息を吸った。
「なぜ、そうだと?」
「王子が死んでないからだ」
セイシンが感じていた三つ目の違和感がここだ。
いくら毒に耐性があるとはいえ、猛毒を致死量でも飲めば死ぬはずだ。死ななかったということは毒が足りなかったか、あるいはそもそも毒性が強くなかったか。
しかし、王子を殺すような犯人がそんな失敗をするとは思えない。
なら答えはひとつだ。
「毒で倒れたわけじゃないとしたら?」
「そっ、そんなバカなことがあるか! 王子は水を飲み、嘔吐し、倒れられた……もし毒じゃなかったとしたらどうやったというんだ!」
「もし俺が暗殺するなら」
セイシンは毒殺を考える。
毒殺の理論を。
「相手が飲むかどうかわからない場所へ毒は混ぜない。大人数がいる部屋の水差しとコップに、なんてもってのほかだ。飲まなかったらどうする。他のやつが飲んだらどうする。もし毒を混ぜるなら、確実に飲む場所に、確実に飲む方法で混ぜる。たとえば飲む直前に飲もうとしているコップへ、とかな」
「ふざけるな! 君たちはすでに、あの時部屋にいなかった……あそこにいたのは僕たち従者だけだ!」
「そう怒るなよ、ものの例えだ。確実に毒殺したいならっていう話だよ」
もっとも、あながち冗談ではなかったが。
ディルはその可能性を考える気はなさそうだった。
「もし毒じゃないとしたら、じゃあなんだ。偶然心臓に異変が起こったか? それとも免疫不全か? それはないだろう。明らかに異物への拒絶反応だったからな」
「君はいったい、何が言いたいんだ?」
「ディル、毒っていうのはなんだと思う?」
そもそもの話だ。
「猛毒によくあるのは、神経に作用し麻痺させることにより心臓発作を引き起こしたり、脳へ血液を送れなくするものだ。致死量も少なく、体に入れてしまえばほぼ確実に死んでしまう。これは明らかに毒と呼ばれている」
たとえば毒キノコや植物から採られた成分だ。
暗殺によく使用される、免疫がつけられない猛毒たち。
「じゃあ医師たちが持ち運んでいる麻酔薬は? 薬、と名はついているが、使い方によっては毒になる。それくらいは知ってるだろ」
「勿論だ。心得ている」
「毒っていうのはあくまで総称だ。その作用や効果が俺たち生物に都合の悪い方向に動いた物を、毒と呼んでるだけだ。でもなディル、たとえば俺たちの体に最初から含まれている物質が、俺たち自身を殺すこともある。そうなった場合、いくら検査しても何も出てこない」
「……王子が飲まされたのは、そういう物質だったと? 具体的にどういうものがあるんだ?」
「さあな。毒が検知されなかったとしたら、そういう視点もあるってだけだ」
王子が飲んだものがなんであれ、いまはあまり関係ない。
セイシンがディルに話したかったことはそこじゃない。
「ネムの部屋から見つかった毒が関係なければ、ネムへの疑いの根拠はなんだ? 俺には、おまえらがネムを疑うために理由を欲しているようにしか見えない。そもそも本当にネムが宿をとったのか? ネムの名前を騙って誰かが宿をとり、おまえらが見つけるようにわざと毒を置いた可能性は?」
「誰かが魔王の娘を嵌めている、と?」
「ああ。それは間違いない」
セイシンはわざとらしく大きくうなずいた。
ここからが勝負だった。
いまセイシンの推理を話したとしても、ディルは聞く耳をもってくれないだろう。なら、いずれ思い通りに動かすために大袈裟に演じる必要がある。
「……絵空事だ」
「もっと頭をやわらかくしてみろよ、騎士様」
セイシンは余裕の笑みを浮かべた。
挑発と受け取ったのか、気分を害したように顔をしかめるディル。
「君こそ、もう少し賢い男だと思ったが」
「捕まったくらいで観念するとでも思ったか? めでたい思考回路だな」
「減らず口を」
そうだ、もっと怒れ。
冷静な判断ができなくなるまで嫌うがいいさ。
しばし睨み合ってから、セイシンは思い返したふうに話を変えた。
「そうだディル、王子の容態はどうだ?」
「峠は越えた。小康状態だ」
「そりゃよかった。誰にとってもな」
「だが、犯人がまた仕掛けてくるかもしれないからね。油断はできない」
「それはないだろ」
「……なぜだ?」
訝しむディルに、セイシンは片目を閉じて言う。
「さっきも言っただろ。王子が死んでいないことが違和感だって。もし犯人が殺すことを目的としたなら、ちゃんと猛毒を使ってるはずだ。殺すつもりはなかったのかもしれない」
「あり得ない。ではなぜ王子を狙ったと?」
「それは犯人に聞いてくれ。そこまでわからん」
「身勝手なことばかり放り投げるのか。君はいったい何がしたいんだ? 僕を困らせたいように見えるぞ」
「自分の意見を言ってるだけだ。聞きたくないなら耳を塞げばいい。俺はいま、塞がれた耳をこじ開けるような自由な手足はないからな」
乱暴に手足をゆすり、鎖を鳴らしてみせた。
拘束されているセイシンと自由な身のディル。
こんな対照的な立場でありながら、窮屈そうなのはディルだった。もちろん、セイシンがやせ我慢しているというのもあるが。
ディルからしてみれば、なぜセイシンが余裕綽々なのか理解できないだろう。犯人と思わしき人物を庇い、自分だけ捕まり、このまま王子が死ぬことにもなれば共謀の罪に問われて死罪もあり得る。
セイシンはそんな状態にもかかわらず、滔々と語って見せる。
「でも、アレだな。ディルが話しやすくて助かるよ。質問には答えてくれるしな」
「いきなり気持ち悪いな君は……。ふむ、まあそうだね。僕は相手が国民であれば誰であろうと、会話に答えるのが王宮騎士の務めだと思っているからだ」
「そりゃ頭があがらねえな。王宮騎士ってのはみんなお前みたいなやつばっかりなのか?」
「僕は最若年であり、頂いているのは末席だ。まだまだ精進の身ゆえ、他の騎士には及びもしない」
「聖人集団かよ」
想像して苦笑する。そんな集団は見てみたいが、近寄りたくはない。
「てことは王宮騎士ってのは騙し討ちとか暗殺とか、そういうのは不慣れそうだな」
「いや、そうでもない」
ディルは首を横に振った。
「僕はまだまだ末席ゆえ、そのような任務に関わったことはない。しかし目上の騎士たちにはそのような任務を授かる者もいる。それゆえ、王族たちは対策も練ることができるのだ」
「なるほど。蛇の道は蛇だな」
「……だから、ここにいるのが僕ではなく彼らでさえあれば、もっと首尾よくことが運ぶだろうに」
「自分を責めるなよ。騙し討ちが得意でも自慢できないし、いいことなんて一つもないぞ」
軽く慰めるつもりで言った。
するとディルはセイシンの言葉でなにか思いついたようで、弾けるように顔を上げた。
「……そうか、その手があったか」
余計なことを言ってしまったか、とセイシンは警戒する。
ディルは唐突に腰から下げていた牢の鍵を外し、そのまま錠に差し込んで鉄格子を開いた。大股で牢屋のなかに入ってくる。
「おい、なにするんだ」
「君は黙っていたまえ」
セイシンの腕と足につけられた鎖を片側ずつ取り、もう片方の手足に付け替える。
両手両足をそれぞれ体の後ろで拘束される。
まるで虫のような格好になったセイシンは、ようやく重力に従うことができて床にねそべった。寒くて冷たいが、無理やり立たされているよりは心地いい。
頬を石につけていると、ディルがセイシンの肩を叩いた。
「すまないセイシン。君を囮に使わせてもらう」
「あ~……そういうことか」
なんとなく察したセイシンは、ディルの肩に担がれてあっさりと牢屋を出ることになった。
人ひとり担いでいるとは思えないほど軽やかな足取りで進むディルの肩で揺られながら、次は立たされないで済むと良いな、とぼんやり考えるのだった。
ウルスの街は、大陸最西端の領圏のなかでもっとも広い。
直径二キロほどの街はその中心に闘技場、噴水のある大広場、公衆大浴場、施政庁舎、国兵の駐在所や地下牢のある収容所などが建立されており、それらがすべて揃っている中心街はいつも夜遅くまで賑わっていた。
セイシンが地下牢から連れ出されたのは、すでに宵も深まってきた頃だった。郊外はひっそりとしているのだろうが、収容所のすぐそばにある酒場から聞こえる喧騒が耳に届き、ひっきりなしに誰かの笑い声や怒鳴り声のようなものも聞こえてくる。
収容所の中から国兵を数人引き連れたディルは、セイシンを担ぎながら広場へと向かっているようだった。
途中、巡回中の国兵を見つけたディルは話しかける。
「すまないが、そこの君」
「ディルヘイム様! いかがいたしましたでしょうか」
「エイカム宿舎へ行き、リッカ様を呼んできてくれないか。中央広場までだ」
「ハッ。かしこまりました」
走り去っていった国兵。
こんな夜分に呼び出しとは。
「おいおい、デートの誘いにしちゃあ時間が遅くないか?」
「ふん、その軽口がいつまで利けるか見物だな」
とうとう聞き流されてしまう。
会話の主導権を握れなくなったことを悟ったセイシンは、大人しく黙るしかなかった。余計なことも言えず、この先の展開を予想する。
想像通り、ディルが足を運んだ中央広場の櫓――きのうネムを吊り下げていた場所だった。
ディルは付き添っていた兵士たちと協力してセイシンの体に縄をくくりつけ、
「僕が何をするか、言わなくてもわかるな?」
「……用を足したくなったら?」
「その時は言いたまえ。僕が連れていこう」
観念するしかなさそうだった。
そのままゆっくりと縄で引かれて体が上昇する。
体の後ろで縛られた縄が、セイシンの体を吊り上げて軋んだ。腰を中心につられているので、手首よりも痛みはマシだ。だが、長時間こうしているだけで拷問に近い痛みになっていくのは想像に難くない。どうせやるなら早朝からにしてほしかったが。
「こんなことしても、ネムは来ないぞ」
「それは君が決めることではない」
「来ないって。賭けてもいい」
「それほど嫌がるとは。夜を明かすのは苦手か? 安心したまえ、僕が付き合おう」
「俺、誰かに見られてると眠れなくなるんだよ」
「君を万全の状態にさせないことも作戦のうちだからね」
案外策士な騎士だった。
いつもの目線の倍以上に高いので、広場をぐるりと見渡せる。こんな時間だから通行人はほとんどおらず、いても酔っ払い程度だった。注目されていないことだけは安心だったが、それも夜が明けるまでの静寂だ。
「……ま、手間が省けたか」
「なにか言ったかね」
「いや。何も」
ディルは近くの兵士に、酒場に行って『王子襲撃犯の共謀者を捕まえた』という噂を流すように頼んでいた。
セイシンは囮。助けに来たネムを捕まえるという作戦だ。
「あのさ、ネムがそんな殊勝な性格してると思うか? 無視して隠れてるって」
「あの娘は君の援護の甲斐もなく追い詰められている。しかし、結局のところは袋小路だ。このまま隠れていても捕まることは目に見えているだろう」
「だったら尚更粘るだろ」
「あの娘に打開策があるとすれば、まさに君だよセイシン。あの娘が犯人であろうとなかろうと、君という駒がいる限りは手が打てる。しかし処刑されてしまえば、駒もなくなり万事休す。それくらいは弁えていると思うがね」
「……ちっ」
わざと舌打ちをして、黙り込む。
それからは無言で時を過ごした。
ディルも世間話をするつもりはなさそうで、周囲を警戒しているだけだった。話したいことは地下牢で話したのだろう。
リッカが合流したのは月が沈みかけたときだった。月明かりも消えそうになる暗がりのなか、眠そうにあくびをしながらゆっくりと歩いてきた。
「聞きましたよ。セイシンさんを餌にして、ネムセフィアを狩るのだと」
「左様。宵も更けて参りましたが、ぜひリッカ様にもご協力いただきたく存じます」
「もちろんです。三日三晩戦うことになろうと、この剣は曇りません」
かつての戦争で名を馳せた勇者は、その言葉通り三日間戦い続けたという噂もある。
持久戦は期待できそうにもない。
「それでセイシンさん、怪我は大丈夫ですか?」
「痛い。キツイ。しんどい。できればベッドで休ませてくれ」
「大丈夫そうですね。安心しました」
にっこりと微笑んだリッカ。
その耳は飾りだろうか。
「……いや、冗談抜きできつくなってきたぞ」
吊られているせいか血の巡りが悪く、眠いわけでもないのに意識が薄れ始めてきた。
セイシンは呼吸を浅くし、脳に届く酸素の量を意識的に調節する。低酸素状態で全身を眠らせ、最低限の脳だけを運転させる。せめて気絶することだけは避けなければ。
思考能力を下げたセイシンは、吊られたままじっと夜を過ごした。
ディルとリッカはぽつぽつと会話を続けながら朝が来るのを待っていた。やがて空が白み始め、街が目覚めていく。兵士たちが途中で二度ほど交代し、彼らは周囲の警戒を怠ることはなかった。
広場に人が集まり始めたのは、東の空に太陽が昇り始めたときだった。人々が活動する時間帯も少し過ぎ、ヒマを持て余した民衆が何事かと足を止める。
かなりの数の見物人が集まってくると、ディルが剣の鞘を石の地面に打ちつけて大声を上げた。
「皆の衆、傾聴を願い申し上げる! ここにいるのは、王子襲撃犯を幇助した疑いのある者である!」
その声で意識を浮上させたセイシン。
太陽の光に目を細め、周囲を確認する。
顔、顔顔顔。
多くの顔が自分を向いている。好奇、嫌悪、軽蔑、嘲笑、様々な感情がセイシンに注がれていた。
おぞましい視線の数に、つい吐き気がする。
「名を、セイシン=ステイルス!」
注目を浴びたくなかったセイシンにとって、すべて苦肉の策でもあった。
悪い噂は流れるのが速い。この先の展開がどう転んだとしても、セイシンが犯罪者の疑いをかけられて聴衆の面前で晒されたことは、おそらくこの領圏ですぐ広まるだろう。
「……せめてシズの耳には入ってくれるなよ……」
それだけを切に願いながら、セイシンは周囲をゆっくり見回した。
探しているのは一人だけだ。自分で否定しておきながら、やっぱり様子を見に来るのではないかと思っていた。期待していたのかもしれない。
――いた。予想通りだ。
群衆の一番後ろで、布を頭から被って顔を隠しながらこっちを見つめる白い姿。顔はやや青ざめているが、それはセイシンの姿を見たからだろう。
ディルやリッカからは、群衆の壁で彼女の姿を確認できるはずもない。しかしそれでもディルは確信をもって声を張る。
「この者は我々の再三の静止も聞かず、襲撃犯の疑いが強い魔王の娘ネムセフィアを庇い、あまつさえ逃亡させた! さらに事情聴取に対しても真摯な姿勢を見せず、我々を嘲笑う始末であった! よってこれから、セイシン=ステイルスに対して懲罰尋問を行う! これを止めたい者は名乗り出よ!」
ディルは、鞭を手に取った。
近くにいた兵士が縄をゆるめ、セイシンの体は少し下げられる。
ディルがセイシンの腰についてある縄をほどくと、腕だけで吊り下げられている状態になった。足は地面に届かず、ディルの前にはセイシンの背中が無防備に晒される。
「ひとつ! まずは名乗りたまえ!」
ディルは鞭を振るった。
セイシンの背中の皮膚が、服ごと弾け飛んだ。
くるとわかっていて歯を食いしばってなお、鋭い痛みについ呻いてしまう。
破れた背中に血が溢れだした。
聴衆が息を呑んで見守り、沈黙がセイシンの言葉を待っていた。大人たちは子どもの目を塞ぎ、あるいは顔を背ける者も多かった。
しかし、セイシンは何も言わなかった。
「答えよ! 貴様は誰だ!」
皮膚が裂ける。
食いしばった歯の隙間から、唸り声が漏れる。
「なぜ魔王の娘を庇う!」
血管が千切れる。
視界がチカチカと明滅する。
「なにを知っている!」
骨が軋む。
頭の中で、叫び声のような幻聴が鳴り響く。
「なぜこんなことをする!」
肉が飛び散る。
閉じた瞼から、無意識に涙が零れ落ちる。
「魔王の娘はどこだ!」
神経が潰される。
死んだ方がマシだと思えるほどの激痛が全身を苛んでいた。それでもなお、意識を失うわけにはいかなかった。痛覚だけを切り刻まれているような拷問に音を上げそうになる。
それでもセイシンは奥歯を噛みしめて耐えていた。
いつまで耐えればいいのか、わからないまま。
「話せ! なぜ黙って――」
「やめて!」
割り込んだのは悲鳴のような叫び声だった。
ディルの腕がぴたりと止まる。
「もうやめて! あたしはここよ!」
聴衆の壁が自然と割れて、道を作った。
鞭を持つディルと、剣の柄に手を添えたリッカ。ふたりの視界に入ったのは紛れもなく魔王の娘ネムセフィアだった。
「ネム、来るな! 罠だ!」
セイシンが掠れた声で叫ぶ。
誰の耳にも入らない空虚な願いだった。
「逃げるのはおしまいですか? ネムセフィア」
「あなたたち、よくも、こんな……」
ネムはリッカの敵意も意に介さず、鞭で打たれて血に塗れたセイシンの背中を見つめて唇を震わせた。
いままでの毅然とした態度は崩れ、泣きそうになっていた。
セイシンは苦悶の声で呻く。
「ネム、なんで来た……」
「なぜなの」
蒼白になった顔で、まるで彼女のほうが助けを乞うような口調でセイシンに話しかける。
「なぜそうまでして、あなたはあたしを――」
「誰が話していいと言いましたか?」
そんなネムの前に立ち塞がったリッカ。
彼女はネムのために傷ついていくセイシンを一度も見ようとはしなかった。ずっと視線を逸らしたまま機を待ち続けていた。
いまもセイシンのことを視界に入れようとはしていない。それは彼女自身自覚していない無意識のことだったが、だからこそセイシンを背負うようにしてネムを近づけまいとしていた。
その顔には、勝ち誇ったような表情が浮かんでいた。
「わたしは信じてました。あなたが大事なお友達を助けに来ると」
「その人は関係ないわ」
「では、あなたが犯人だと?」
「あたしは犯人じゃないし、その人は共謀者じゃない。何度言ったらわかるの」
「……残念です」
リッカがため息をつきながら剣から手を離した。
戦闘態勢をとっているリッカが、わざわざそれを解除するとは思えない。
つまりその合図は、更なる一手だ。
「《剣舞・繚乱》」
その言葉と同時、ふわりと周囲に剣が浮かんだ。一本や二本どころではない。広場を囲むように配置され、剣先をこちらに向けたその数――軽く百は超えている。
その場の誰もが呼吸を忘れ、剣の結界を怖れた。
一本一本がリッカの力で操られるのだ。その気になれば一瞬で、この場に惨劇の雨を降らせられる圧倒的な力だった。セイシンやディルすらも戦慄して固唾を呑んだ。
「王手です、ネムセフィア。真実を話しなさい」
もはや逃げ場もない。話を聞いてもらえる希望もない。
ネムは小さく息を吐きながら、空を仰いだ。
蒼天には白い雲が泳いでいる。鳥が悠々と飛びまわり、風が街を吹き抜けていく。
いつもと変わらない、晴れた青空だった。
「……せめて、その人は解放して」
「それでは犯人と認めるんですね?」
視線を下げてリッカと見つめ合い、唇をかたく結ぶ。
首を縦に振ろうとした、その瞬間だった。
「その尋問、ちょいと待つじゃが」
割り込んだのは野太い声だった。
剣の結界の外からゆっくりと歩いてきたのは〝狂犬〟フレイ=フレム。
彼は剣の隙間を縫うように近づいてくる。
その歩みに無数の剣への怖れはなかった。
「フレイさん、何用ですか?」
「ちと面白いもんを見つけてのう」
フレイは背負った荷物を、地面に置いた。
そこから何やら袋を取り出しつつ、血に塗れるセイシンの背中をまじまじと見つめた。
「しっかし、えらい痛めつけられたじゃが。しばらくは仰向けで寝られんのう」
「ほんと……遅いぞフレイ」
セイシンは安堵の息をつく。
これでようやく――
「何を安心しとるんじゃか?」
と、セイシンの心を見透かしてフレイが眉尻を上げた。
「え?」
「オメェ、ワイが大人しくオメェの言うことを聞くとでも思ったじゃか。そりゃあ随分と舐められたもんじゃのう」
「フレイさん、どういうことですか?」
事態を理解できないリッカが聞く。
フレイは鼻で笑った。
「いやのう、昨晩こっそり牢を訪れたとき、この男が妙な推理を披露したんじゃが。荒唐無稽な夢物語でつい笑いそうになってしまったがのう。それで、こいつの頼みを聞いてやるフリをして、こいつが泊まっていた宿を探したんじゃが。そしたら、何が隠れてたと思うじゃか?」
「お、おまえ、まさか……」
「そのまさかじゃが」
フレイが袋から取り出したのは、一本の瓶。
その容器には、半分ほどに減った透明な液体が入っていた。
リッカが首をひねる。
「それ、なんですか?」
「高濃度のエンドトキシン溶液じゃ。しかも改良を重ねたのか、無味無臭じゃが」
「エンドトキシン溶液……?」
「知らんじゃか? エンドトキシンは特定の細菌に含まれておる毒素じゃ。たしか研究機関じゃ【第三の毒】と呼ばれておるはずじゃ。まあ端的に言うと、いまの検査技術では検出されない毒素じゃが」
「検出されない毒素……それって、まさか――」
息を呑んだリッカ。
ディルとネムもまた、目を見開いてセイシンを見る。
「のうセイシン。オメェの筋書きは甘かったじゃが。魔族の娘っ子を庇うフリをして、最後の最後で疑いをなすりつけるとは考えたもんじゃ。じゃが、最後の詰めをワイに頼ったのは失敗じゃったじゃが。ワイはこれでも相応の教養と知識はあるんじゃ。見た目と性格で、誰もそうは思わんがのう」
「おまえ……よくも……」
言葉を詰まらせたセイシン。
声は震え、歯は音がなるほど強く噛みしめられていた。
「裏切ったか、じゃか? ほんじゃあもう一つ、オメェの策を暴いてやるじゃか。あの地下室で、全員が見ているなかでエンドトキシン溶液をコップにどうやって混ぜたか、ワイが答えてやるじゃが」
フレイが袋からもうひとつ取りだしたのは、ただの布だった。
どこにでもある布だ。
「オメェは地下室に入った直後、エンドトキシン溶液をたっぷり含ませた布を、背中に隠して壁に押し当てておいた。ただそれだけじゃが」
「布を壁に、ですか?」
怪訝な顔をするリッカに、フレイは首肯して答えた。
「おう。じゃがその前に、準備をせにゃならん。セイシンはそれ以前に一度、あの地下室に忍び込んでおかなければならんかったはずじゃからのう。もっともいつ忍び込んだか、はどうでもいいじゃが。前日でも、もっと前でもいい。どうせ仕込みはバレんからのう。じゃから、あの日の密室状態はあまり関係はねぇ」
「その仕込みとは?」
ディルが鬼気迫る表情で聞く。
「壁と同じ色に染めた水を吸いやすい布を細長く切り、壁から天井に這わせるだけじゃが。コップの真上と、セイシンが立った壁を布で繋いでおりゃあそれでいいじゃが」
「それで、どうなると?」
「オメェは科学を知らんじゃか? 液体作用のなかに、毛細管現象っちゅうもんがある。エンドトキシン溶液を吸い込ませた布を、設置しておいた細長い布に当てておくだけでええじゃが。溶液は乾いた布を伝って天井まで上がり、行きつくところがなくなりゃあ染み出てわずかに垂れる。エンドトキシンは一滴入れば致死量じゃ。滴り落ちた雫とコップの中のわずかな波紋を確認して、あとは布をするすると引き寄せりゃあ証拠隠滅じゃ。どうじゃセイシン、ワイの推理は間違っとるか?」
「で、デタラメだ。そんな証拠どこにある」
目を伏せたセイシン。
その苦し紛れの表情に、フレイは追い打ちをかける。
「問題は証拠の処理じゃ。あの後、ワイらの自由は制限された。ちゅうことは便所のゴミ箱にでも捨てたんじゃろう。現場は保存されとるはずじゃから、まだ廃棄されておらんはずじゃが。探せばすぐに見つかるじゃが」
ニヤリと牙を剥いたフレイは、うつむくセイシンの胸に指先を当てた。
すべてを見透かし、宣言する。
「つまり、犯人はオメェじゃが。セイシン=ステイルス」




