93話 鱗片
長い落下の後、背中から鈍重な衝撃が広がる。
次いで氷の様な冷たさが全身を包み込んだ。
――――――水か
泡と暗闇で視界が聞かない中、息苦しさと冷たさでそれを認知すると同時に腕の中でクレハが苦し気に藻掻き出した。
着水の衝撃で水を飲んでしまったのだろう。
「っは」
「ぷはッ!」
直ぐにクレハを抱えたまま水面から顔を出す。
「けほっ····! こほっ、けほっ···!」
詩音はむせ込むクレハを手探りで自身にしがみつかせて沈まない様に身体は支える。
暫くして水を吐き出し切った様で、クレハの呼吸が落ち着いたのを確認して、
「クレハ、生きてる?」
と詩音は冗談めかした声音でそう尋ねる。
「何とか。シオンは?」
暗闇の中、直ぐ側で同じく冗談めかした声が返る。
「こっちも運良く無事だよ」
背上でクレハがキョロキョロと周辺を見渡しているらしい気配が伝わってくる。
「此処は?」
「あの通路から真っ直ぐ下に、それも結構深く落ちて来たみたいだね」
そう応じながら、詩音は《STORAGE》を開いた予備のラデウス氷塊を四つ取り出して起動させた。
四つの光源が周辺を照らし、限定的にだが視界が効く様になる。
それだけでも精神的に余裕を持てる。
「取り敢えず陸に上がろう。クレハ、そのまま掴まってて」
「あ、もう大丈夫だから」
「いいから、少し休んでて」
平気だと言うクレハを諭して詩音は反響定位を頼りに冷たい水の中を泳ぎ始める。
幸いにも、六十メートルと泳がない内に石畳みの床に手が着いた。
先にクレハを陸地へと押し上げ、次いで詩音も上がる。
「ふぅ」
濡れた前髪を掻き上げながら詩音が一息吐くと、傍らでクレハが申し訳無さそうに口を開いた。
「ごめんねシオン。ありがとう」
「お礼はともかく、謝罪はいらないよ」
微笑みながら詩音がそう返すと、クレハは小さく頷いてから「ありがとう」ともう一度礼を言った。
次いで、その口から、
「···くちゅんっ」
と、小さなくしゃみが零れた。
地下であるが故にこの辺りは薄ら寒い。
詩音は兎も角、クレハの方はこのまま放置していては身体に障るだろう。
「シオン、替えの服とか持って、無いよね流石に」
「ごめん、流石に」
そもそも、詩音には必要性が無い。
身体を拭くタオルくらいならばあるが、衣服一式の用意は無い。
かと言ってこのままと言う訳にもいかない。
「あー···やっぱり、濡れたままでいるのはまずいからさ」
「······そう、だね」
■
「クレハ、寒くない?」
《STORAGE》から引っ張り出した野営用の寝袋を敷物代わりにして背中合せに座る詩音が尋ねる。
それに対して「うん」と短い返事を返すクレハは濡れた衣服を全て脱ぎ、素肌の上から詩音の白いコートを羽織っていた。
その傍らには、二本の氷の柱の間に雪姫を竿の様に渡した物干し台が建っており、そこにクレハの衣服一式が干してある。
一方詩音はと言うと、コートをクレハに貸しているので何時もの袖無しシャツとズボン姿なのだが、そのどちらからも水気は感じられない。
詩音の衣服は上から下まで全てが魔力で編まれているので、濡れていようが破れていようが魔力を編み直せば一瞬で新品同様に元通りになる。
「どう、直りそう?」
今度はクレハの方から詩音へと尋ねる。
その詩音はと言うと、クレハの背後でウィンドウとキーボードを展開してそれを叩いていた。
「もうちょっと······よし」
そう応じて詩音はキーを叩く手を止め、指先を耳元に当てた。
「おーい、誰か聞こえるー?」
耳に取り付けた通信端末を起動しながら呼び掛ける。
と、
『シオンか!? 無事なのか?』
ノイズ混じりに返って来たのは、狼狽の色が含まれたカインの声。
―――――――あー···発信機能が不安定だな。これは長く保たないか。やっぱり応急処置じゃ限界があるな
「ごめんカイン、端末の調子が悪くて長く保ちそうに無いからあんまり話してられないや」
そう伝えると直ぐに、相変わらずのノイズに混じって「あ、ああ、分かった」と了承の声が返る。
「取り敢えず、僕もクレハも無事。二人共殆ど無傷だから安心して。で、まだ落とし穴の近くにいるなら、その場から離れて欲しい。さっき石球を破砕した衝撃でその辺りは崩落の可能性がある」
止む終えない事態だったとは言え、先程の詩音の破砕行動は通路全体にそれなりの負荷を与えた筈だ。
今すぐ崩落、と言う事は無いだろうが用心に越した事は無い。
「分かった。直ぐに移動する」
「うん。その先を真っ直ぐ行くと別れ道に突き当たるから、それを右に曲がって。そうすると今度は左手側に下に伸びる階段がある筈なんだけど、それを降ると今度は暫く道なりに進んで欲しい。そうすると今度は三叉の別れ道に行き着く。そこで合流できるから暫く待機してて。………一気に言っちゃったけど全部覚えれた?」
一方的に説明してから最後にそう付け加える。
「右……左手階段……道なりで三手の別れ道……ああ、多分大丈夫だ」
「よし。それじゃ、また後で」
最後にそう告げて、詩音は端末を停止させた。
ちらりとウインドを除き込むと、そこには《ERROR》の文字が浮かび、端末は完全に機能を停止した。
「詳しくは聞けなかったけど、反応を見るに向こうも皆無事みたい」
「そっか。良かった」
「合流地点も伝えたし、少し休んでから僕らも向かおう」
「うん」
それからは互いに何かを喋るでも無く、ただ時間が流れるのを待った。
――――――空気が、震えてる·····
無言の中、クレハはぽつりと胸の内で呟いた。
先程からずっとぴりぴりと痺れる様な感覚が肌を撫でている。
不自然に張り詰めた大気。
その原因が自身の背後で座り込む人物にあると、クレハは何の根拠も無く感じた。
――――――シオン····
きっとこれは、彼の怒り。心境の漏洩。
現状の原因となった上の騎士達に向ける憤怒の念。
クレハは詩音の事をよく知らない。
詩音自身、自分の話しを全くと言っていい程しないし、他の妖精達の様に長くを共に過ごした訳でも無い。
だがそれでも、今彼が憤りを感じている事くらいは解る。
そして、その理由も。
「······ねぇ、シオン」
無音の中、クレハは背中越しに詩音へと呼び掛けた。
「なに?」
返って来る声は普段通りの落ち着いた物。
「そんなに、責めないで上げて」
「どうしたの、急に?」
聞こえる声音に変化は無く。
「僕は別に誰かを責めたりなんかしてないよ」
表情は見えないが、きっと詩音は微笑を浮かべているのだろう。
けれど、クレハにはそれが本心だとはどうしても思えなかった。
不意に、布が擦れる音がした共にクレハが身動きする気配。
その直後、詩音は背中に僅かな重みと人肌の温度を感じた。
此方を振り返ったクレハが、背後から腕を回して抱き抱える様に詩音の身体を引き寄せたのだ。
「クレハ?」
細く艷やかな髪が詩音の肌を撫でる。
「嘘つき」
詩音の身体を抱き寄せたまま、クレハはそう声を零す。
「責めてるでしょ、あの人達の事。そして何よりもシオン自身の事」
「······」
それに対して詩音は無言を返す。
指摘にも近いクレハの言葉が図星だと、その沈黙が告げていた。
「シオンは何も悪く無いよ。君はボクを助けてくれたんだから。ありがとう」
まるで子供を宥めるかの様に耳の近くでそっと告げるクレハの言葉に詩音は僅かに息を呑んだ。
表情では、平静を装っていた。
何を気にするでも無く、着々と現状に対処する様を演じていた。
だが本心では、詩音は上に居る騎士二人に対する批判の念と、それを遥かに上回る呵責の念を噛み締めていた。
あの騎士達の愚行に対して言いたい事は多々ある。
だがそれよりも詩音は、その愚行を野放しにしてしまった自分の愚鈍さが酷く腹立たしかった。
あの二人が今回の依頼遂行に於いて役に立たない、寧ろ邪魔な存在である事など解っていた。
だと言うのに、事前に阻止する事もできず、挙げ句クレハを他の妖精達と分断させてしまった。
――――――自分の不甲斐なさに腹が立つ
殺すばかりで、壊すばかりで、守るとなるとこの様だ。
無様極まりない自身に笑いすら込み上げて来る。
「····シオン」
再び、耳元にクレハの声。
「ボクは何とも無いよ。シオンが守ってくれたからね。だから、そんなに自分を責めないで」
何故だか、その言葉はやけに頭に響く。
『君は何も悪く無いし、何も間違って無い』
深く、深く。奥へ、心の底へ。
まるで心を塗りつぶす様に、抱いた感情が潰れて消えて行く。
『どうしても自分の事が赦せないなら、ボクが君を――――――』
「――――――――あぁ·····これは、駄目だ」
心の最奥まで届く様に響く声。
それを振り払う様に詩音は呟いた。
「え?」
詩音の呟きに、困惑した様なクレハの声が聞こえる。
「何が駄目なの?」
訊ねて来るその言葉には、既に先程までの呑み込まれそうな気配は無く。
「――――赦せないなら、どうするって?」
訊ね返す。
が、クレハは詩音の言葉の意味が解らない様で、僅かに首を傾げる気配がした。
それで、詩音は悟った。
先の言葉をクレハ自身は意識していない事を。
きっと、先程の発言を覚えてすらいないのだろう、と。
「······いや、何でも無い。ありがとう、クレハ。気が楽になったよ」
「そっか。良かった」
安心した様にそう零すクレハ。
そんなクレハに、詩音は数秒の間を挟み、
「―――――でもさ」
と呟きながら、自らの首元に回されたクレハの手にそっと自分の手を添えた。
「ちょっと、大胆過ぎない?」
再び、冗談ぽい口調でそう言い放つ。
「え?」と零し、クレハは一拍の間を開けてからハッとした。
「あ、そっか」
漸く、今の自身の格好が全裸に詩音のコートを羽織った酷く頼りない状態だと言う事を思い出して、クレハは詩音から離れた。
「なんか、ごめんね」
勿論、詩音は終始クレハの方を振り返ってなどいないが、あれだけ密着してしまえば当然目で見ずともその柔らかな身体の感触はありありと伝わって来る。
自身に非があるか否かに関わらず謝罪する詩音に、
「あ、いや、ボクの方こそ」
クレハもまた自身の行動を詫た。
「あはは、全然意識してなかった。普通に女の子相手にしてるみたいな感覚で···」
若干の気まずさを払拭したくて急いで弁解するクレハ。
背中越しのその言い分に詩音はガクッと上体を崩した。
思えばクレハの詩音に対するパーソナルスペースは、カインやエリックに対するそれに比べて少々近いと感じる事が多々あった。
元より人懐こっいクレハの事なのでそこまで深く考えていなかったが、今思えばクレハの詩音に対する距離感はアリス達に対するそれとよく似ている。
つまり、クレハにとって詩音は異性では無くあくまで同性の知り合い、という認識なのだろう。
――――今後はクレハとの距離に気を付けよ
自身の扱いの真実に苦笑しながら、詩音はそう心の内で呟いた。
■
「シオン、もういいよ」
クレハの許しを受けて、詩音は振り返る。
視線を向けたその先には、水気の消えた黒衣に身を包んだクレハの姿があった。
事前に詩音のスキルで水気の大半を除去していたので濡れた衣服が乾くのにそれ程時間は掛からなかった。
「んじゃ、それなりに皆と離れちゃってるし、早いとこ進もっか」
「うん」
ラデウスの光源を頼りに二人は上よりも少々狭まった通路を歩き始めた。
詩音の反響定位による探査で、道に迷う事は無い為何の進む二人の足取りに躊躇は無い。
「どのくらいで合流できそう?」
「そうだなぁ………。このペースで何事も無ければ一時間半程度で皆に鉢合うと思うよ」
何気無いクレハの問いに応じながら、詩音は先程の感覚を思い返していた。
脳を突き抜け、身体の奥にまで響いて行く様な、クレハの言葉。
普通に交わす彼女の物とは明らかに異なる、此方の感情を、思考を、全てを呑み込み、塗りつぶさんとする声。
『どうしても自分の事が赦せないなら、ボクが――――――』
クレハ自身意識していなかった、覚えていなかった言葉。
何を告げようとしていたのかは解らない。
だが、あれは言わせてはならない、呼び起こしてはならない物だ。
あれに呑まれればきっともう、自分ではなくなってしまう。
嫌な思考が浮かぶ。
だがそれを表に出さず、クレハと言葉を交わしながら歩き続けていると、軈てそれまでよりも開けた空間に辿り着いた。
通路、と言うよりは部屋の様だ。
幅凡そ十五メートル、奥行き二十メートル程の四角形の広間。
四つのラデウスの間隔を広げ、広域に明かりを行き渡らせる。
「なんだろう此処。急に広くなって」
不自然な空間を見渡しながらクレハが零す。
詩音も同じ様に周囲を眺め、視線を少し上げた所である物を見つけた。
「ああ、なるほどね」
そう独りごちると、クレハが視線を向けて来た。
「あれ見てよ」
詩音は右手側の壁、その上方を指差す。
その動きに同調する様に、周囲を浮遊していたラデウス氷塊が高度を上げ、壁全体を照らし出す。
そこには、巨大な壁画が描かれていた。
壁一面、遥か高い天井付近までびっしりと彫り込まれた先人達の遺物。
「ここはきっと、この絵の為だけに在る部屋なんだ」
人、建物、動物、植物、様々な物が緻密に描かれているが、中でも最も目を引くのは画角の中央で巨大に表された巨大な黒い魔物だ。
蛇の様な長大な身体から六本の細長い足の様な物を生やした異形の化け物。
描かれた建物はその魔物がやったのか、どれもが酷く破壊されており、数多の人や動物は皆一様に逃げ惑っている。
世界の終わりを表現したかの様な地獄絵図。
それに対して詩音が感じたのは既視感であった。
建物を壊し、人々を脅かす巨獣。
その姿に詩音は覚えがあった。
嘗てヴィクターと盗賊を追って潜った遺跡。その内部の壁画に描かれていた正体不明の怪物と良く似ている。
―――――偶然にしては似過ぎてる。同じ物だとすれば此処とあの遺跡は何か繋がりがあるって事か
そう、詩音が考えていると、
「アディス…………?」
ぽつりと、クレハが呟いた。
「え、クレハ、これが何なのか知ってるの?」
「うん、多分。昔、父さんの部屋にあった本でこれに似た絵を見たことある」
クレハのその言葉に詩音は内心で驚愕した。
例の遺跡で壁画を見た後、詩音は一応怪物や神話について調べたのだが、その時はまともな情報は全く掴めなかった。
と、言うか、この世界にはそもそも神話や伝説と言った古の伝承の形跡が殆ど存在しないのだ。
魔法や魔術、魔物と言ったそれこそ神話の類いに付き物な存在は広く認知されていると言うのに。
残っているのは、種族の長や極一部に伝わる口伝や伝説、そしてその道の専門家でもなければ知り得ない様な専門知識的な言い伝え程度。
要するに、この世界では神話というジャンルについての情報という物自体が希少なのだ。
しかし、クレハはこれに似た話しを知っていると言う。
御伽話の類いが好きだと前々から言っていたが、その言葉は伊達では無いと言う事か。
「凄いねクレハは。その話聞かせて貰っていいかな?」
「えっと。本って言っても殆ど絵しか描いてない様な物で物語って言うよりは詩みたいな物で」
「で、その中に?」
「うん。正直、名前かさえもわならないんだけど、それにはこう書いてあった。《アディスの獣》」
クレハの告げた言葉を詩音は小さく復唱すると、聞き覚えは無いか、類似する名の記憶は無いかと頭の中で考えを巡らせる。
「………ありがとうクレハ。その言葉だけでも知れて助かった」
数秒の間を開けての礼にクレハは微笑を返した。
その直後、
「ん?」
不意に、何かに気付いた様に詩音は視線を部屋の奥へと向けた。
「どうしたの?」
「気を付けて。何か来る」
応じると共に、詩音は両腿のホルスターから二丁一対の銃 《ヴォルフ·レクス》を引き抜いた。
それを見てクレハも、即座に腰の鞘から純黒の魔剣を抜き、臨戦態勢を取った。
二人して、部屋の奥、通路へと通じるであろう出入り口を見据える。
軈て、濃密な闇の中から姿を表したそれを見て、
「――――え、なんで…………?」
小さく、 驚愕と動揺の入り混じった声がクレハの口から零れ出た。




