87話 二人の酒
日が完全に沈み、月と星の光が降り注ぐ夜の時間。
しかし、闘技場の周囲はかき集められたランプの灯りによって昼間の様に明るく、その明るさ以上に陽気な活気に満々ていた。
闘技場の周りの広場に所狭しと並べられた仮設のテント。
その中では場所を埋め尽くさんばかりの人々が冒険者もそれ以外も隔てり無く酒を傾げ、料理を囲み、秩序無用のどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。
その中には当然、クレハ達妖精族一同と詩音の姿もあった。
────冒険者って本当にこう言う騒ぎ好きなぁ
四方八方の騒音を聞き流しながら、詩音は内心でぼやく。
その心声には疲れが滲んでいた。
周囲で騒ぐ冒険者達は、詩音を見るなり代わる代わるに質問攻めをしてくるのが疲弊の原因だ。
悪い人々では無いが、詩音からすればそれらの絡みは面倒でしかなく、全てを上手い事のらりくらりと躱し切っていたが気疲れで身体が重い。
─────早く帰ってミユをモフりたい………
宴を楽しんでいる素振り表情を崩さない様にしながら詩音は適当に話を合わせていると、
「よお、シオン。飲んでっか?」
片手に大きな酒器を持ったヴィクターが陽気な声を掛けて来た。
「まあ、それなりにね」
「そうかそうか。そいつぁ結構。だが、楽しんでる所悪いが、クレハ達が呼んでるぜ」
「──あぁ、そう」
その場にいた冒険者達に呼ばれている旨を伝え、詩音はヴィクターに着いて行った。
そして、
「ありがとう、ヴィクター」
と、ヴィクターにだけ聞こえる声で言った。
「ああ? 何がだ?」
「呼んでるって嘘でしょ? 面倒だったから助かったよ」
「ふん。本当に嘘の吐き甲斐が無いな、お前は」
笑み、そうぼやくとヴィクターは僅かに間を挟んでから言った。
「────感謝してるって言うなら、ちょいと付き合ってくれ」
■
周囲で酒盛りをする人々の目を盗んで宴席を抜け出したヴィクターと詩音は、そのまま闘技場の観客席に足を運んだ。
組合による魔物の回収作業や現場調査も一通り終わっている様で、観客席にも舞台上にも二人以外の人気は無い。
外の宴会の騒ぎも遠く、静けさを纏ったその場所を月の淡い光が照らしている。
詩音が逆円錐形に並んだ観客席の最上部で手すりに軽く凭れ掛かると、ヴィクターは懐から酒瓶と小さな酒器を取り出した。
「こっそり窃盗ねて来た」と言うヴィクターから詩音が酒器を受け取ると、紅玉色の液体が注がれる。
葡萄の香りがするそれを一口煽ると、ヴィクターも手酌で自分の酒器を満たし、一息に干した。
「ふぅ。極上の味だ」
そう、ぽつりと言うヴィクター。
「大袈裟だね」
悪くは無いがそこまで飛び抜けた代物では無いであろう酒に、詩音が微笑を浮かべて言うと、ヴィクターも片頬に小さく笑みを浮かべて応じる。
「ばーか。良い月空の下で飲むってのはそれだけで良い物なんだよ。酒の味なんて二の次だ」
酒器片手に槍兵は空に浮かぶ望月を見上げる。
酒に関しては知識としての良し悪ししか解らない詩音は、何も言わずに続く様に空を見上げる。
雲は晴れ、柔らかな月光が星の灯りを引き連れて世界を照らす。
味に関しては何も解らないが、何となく言わんとしている事には同意できる気がした。
「後は美人の酌が有れば何の文句もねぇんだがな」
冗談めかした声音でそう付け足すヴィクター。
それを聞いて詩音は、傍らの酒瓶を手に取り、空になったヴィクターの酒器を満たした。
「美女は皆宴会中だから、代わりに僕ので我慢してよ」
同じく冗談めかした声で詩音が言うと、ヴィクターは一秒ほど驚いた様に硬直してから言った。
「はは。我慢も何も、欠片程の文句もねぇよ」
心底楽しげにヴィクターは言う。
「なんだ、結局飲めれば何でも良いのか」
可笑しそうにそう返す詩音。
それに対して、ヴィクターは一瞬だけ呆れた様な表情を浮かべた。
「何?」
「いや、何も」
─────普段敏いくせに、何で自分の事のにはこうも鈍感なのかねぇ
内心を短い言葉で誤魔化し、ヴィクターは酒器を煽る。
「でも、意外だね」
「ん?」
ぽつりと切り出した詩音に、ヴィクターは視線を向ける。
「ヴィクターは宴会とか好きな質でしょ? それを自分から抜け出そうって言い出すなんて」
「まあ確かに、飲み会、宴会の類いは大歓迎だが、今日はちょいと静かに呑みたい気分だったんでな。そう言うお前は、想像通りああ言うのが苦手の様だな」
「うん、嫌いって訳じゃないんだ。ただ馴染まなくてね」
「馴染まない、か。確かにお前の場合は宴会よりもクレハ達と一緒に茶囲んでる方が似合いかもな。庭園とかでよ」
「何それ」
ヴィクターの言い分に、くすりと笑う詩音。
と、ヴィクターが唐突に思い出した様に言葉を発した。
「そう言えば、クレハの親父さんはどうしたよ? 最初の方はあいつ等と居だけどよ、少ししたら見なくなったんだが」
「ああ、あの人ならもう帰ったよ」
「マジか? 何で?」
「奥さんが家で待ってるんだよ。本当は一緒にクレハ達の事を見に来る予定だったんだって。でも、奥さんだけ急ぎの仕事が入って来れなくなったらしくて。「ゆっくりして来て」って見送ってくれたらしいけど、一人にしておくのは嫌だから極力早く帰るつもりだったって言ってた」
「はーん。それでクレハ達との話が終わったから、さっさと帰ったってか。惜しいなぁ。ちょいとばかし相手して貰おうと思ってたのによぉ」
一つの種族の長という立場の人物に個人的に喧嘩を仕掛けようと考えるとは、と詩音は一瞬呆れたが、まぁクレハやアルトの立場は基本的に仲間内しか知らないので仕方ない。
もしかしたらヴィクターの場合、アルトよりもエイリスの方とのが気が合うかもしれない。
その後は他愛無い話を肴に二人だけの月見酒を楽しんでいたが、窃盗ねた酒瓶が底を着く頃には、二人共が口を閉ざしてぼーっと立ったまま夜空を見上げていた。
沈黙が続くが、気まずさの類いは無い。
二人共が、心地好い静寂に意識を委ねていた。
だが不意に、今度は詩音の方が、思い出した様に口を開いた。
「───そう言えばさ」
「ん?」
「有耶無耶になっちゃったけど、戦いの前にお互いに賭けしてたよね」
「あー……。そう言えばそうだった。忘れてたわ」
まぁ、あの騒ぎでは仕方がない。
そもそも祭りその物が中止となった程なのだから。
「────良いよ、ヴィクター」
「ああ?」
「欲しい物があるって言ってたでしょ? 僕があげられる物なら良いよ」
そう言うと、ヴィクターは意味が解らないと言いたげな表情を浮かべる。
「何言ってやがる。結局勝負はお預けになっちまっただろうが。賭けは無効が道理ってもんだ」
そもそも、あのまま勝負が続いていたとして果たして自分はシオンに勝てたのか。
ヴィクターは確信が持てないでいる。
だが、詩音はその少女の様な幼顔に微笑みを浮かべる。
「確かにね。でも、良いんだ。これはお礼だから」
「礼だと?」
「うん。ブーラスを殺した時の技は、ヴィクターが僕との戦いで全力を見せてくれたから使えた物だ。あれのお陰で不要に彼を苦しめずに済んだ。だからそのお礼。───────あと、勝手に盗んだお詫びも少しだけ、ね」
そう言う詩音の笑みの下にはほんの僅かに申し訳なさ気な表情が滲んでいた。
恐らく、ヴィクターと戦っていた時の詩音は全力では無かった。
手を抜いていた訳では無いだろうが、確実にまだ余力を残していた筈だ。
その余力がどれ程の物かまでは測れないが。
にも関わらず、詩音はヴィクターが勝利した際の要求を呑むと言う。
────何か、施されるみてぇで嬉しくねぇな
そう思ったヴィクターは、詩音のそんな態度を少しでも崩してやりたいと思い、口を開いた。
「そうかい。ならお言葉に甘えようなね」
「うん。あ、でも前に言った通り、《雪姫》とかは駄目だからね」
「分かってるよ。そんなんじゃねぇ。ちょいと目ぇ瞑れ」
「え?」
ヴィクターの要求に一瞬訝しむ様な表情を浮かべる詩音だが、直ぐに言われた通り両目を閉じた。
直後、詩音は自身の唇に何か柔らかい物が触れるのを感じて瞼を上げた。
見ると、ヴィクターが身を屈め、頭一つ分以上低い位置にある詩音の唇に己の唇を重ねていた。
それは触れる程度の軽い口付け。
重ねた唇が離れ、耳元に顔を寄せたヴィクターは呟く様に言った。
「無防備過ぎなんだよ、ばーか」
「え?」
行動、発言。
ヴィクターの行った双方の意味が解らず詩音は呆然と声を溢す。
「あんな半端な終わり方じゃあ全部貰う訳にはいかねぇ。今日はこれだけ戴いとくぜ」
顔が離れ、お馴染みの不敵な笑みを浮かべてそう言うと、ヴィクターは踵を返し背中越しに「先に戻ってるぞ」と告げた。
詩音はヴィクターの言動を何とか理解しようと思考を回しながら、悠々と立ち去る紅の背中を見送った。
軈て、その姿が見えなくなると、さっきまでヴィクターの唇が触れていた自分の唇を指先でそっと触れると呟いた。
「ヴィクターって酔うとキス魔になるのか」
「クレハ達と一緒の時はあまり呑まさない様にしないと」と、平然とした声音でぼやき、詩音も闘技場を後にした。




