84話 人の成す技
驚愕が、ヴィクターの内心を支配する。
直撃を確信した一槍は、その実一切の手応えを無しに無空を突いた。
しかし、詩音は一切の回避行動を取っていなかった。穂先が詩音に触れると同時にその全身がまるで霞の様に消え失せ、気付いた時にはヴィクターの間合いの内側へと踏み行っていたのだ。
下方から切り上げる様に詩音の剣が迫る。
顎を打ち上げる軌道。
寸での所で飛び退き、ヴィクターはそれを回避した。
『な、なんだ今のは───!? 一瞬、槍がシオンに命中したかと思った一瞬、シオンの姿が突然消失した───!?』
久しぶりに実況役のレンレンが声を上げた。
同様に、観客席からも数多の驚愕の声が聞こえて来る。
『幻覚魔法か──!?』
何かの魔法かと零す。
それも当然だ。
それまで目の前にいた人物が突然消失し、次の瞬間にはより間合いを詰めていた、など端から聞けば理屈を越えた超常の事象としか思えない。
だが、その至極妥当な反応に対して、隣のバザルが口を挟んだ。
『い、いや、舞台に設置された魔力察知術具は一切反応を示してしない。………魔術具の異常でないのなら、信じられないがあれは純粋な体術による物と言う事になります。………どう言う原理なのかは全く解りませんが……………』
魔力の反応が無い。
魔法であれ魔術であれ、特殊な技能であれ、超常の現象を引き起こす以上、超常の力である魔力は必須。
だが、反応が無いのは当然である。
これは魔力を用いた異能では無く、詩音が持つ独自の殺人術の一つ。
緩急鈍鋭自在の歩法を用いて相手の視認情報を狂わせる死法。
闇に紛れ、周囲に紛れ、当の本人が恐怖や苦痛の類いを感じる事なく、己の死に気付かせる事なく命を断つ暗殺の技ではなく。
姿を晒し、存在を晒し、確定した死をその本人に否応なく振り下ろす人殺の技である。
「……ったく。どれだけ人を驚かせれば気が済むんだ」
「驚く事じゃないさ。こんなのただの曲芸だよ。直ぐ小手先の芸に逃げるのが、昔からの悪い癖でね」
薄く笑い、詩音はにヴィクターへと踏み込む。
「チィッ─────!!」
盛大に舌打ち、ヴィクターは迫る刃を迎撃せんと身構える。
正面から振り下される一刀を弾き、間髪入れずに眼前の詩音の胸に穂先を突き付ける。
だが──────
「────!?」
手元に訪れるのはまたも空を突く感覚。
穂先が目標を貫く刹那、詩音の身体はまたしても霞の様に消え去た。
そうかと思えば、詩音はヴィクターの右側へと踏み込んでおり、その横腹目掛けて剣を振るっている。
迫る刃を咄嗟に躱し、槍を薙ぐヴィクターだったが、またしても詩音は槍が触れると同時に消え去る。
どれほど視界に映る身体を薙ぎ払おうと、それは実体の無い影法師。
捉える事など出来ない。見切る事など尚出来ない。
故に、その技の名は、
「第肆死法。影亡姿」
見せる残像はほんの一瞬。
それこそ、攻撃が当る直前、その刹那の間に相手の視界に映り込む。
だが、それで十分。
その刹那の残像は、此方の回避行動を隠蔽し、相手は刃が触れた瞬間、唐突に姿が消え去ったかの様に錯覚する。
槍撃を抜け、ヴィクターの背後へと周り込んだ詩音は、その背に刀身を叩き込んだ。
「ガッ────!!」
これまでに無い苦悶の声が溢れる。
防護魔術によって覆われた刃が肉を切る事はない。
今の一刀は峰打ちの様な物だ。
勝負を決める程の殺傷力を持ってはいない。
だが、これまで拮抗していたこの戦いの中で初めて決まった明確な一撃に、観客席からは声が上がる。
「っ、たっく、何でもありかよ」
体勢を立て直して詩音と対峙しながらヴィクターはぼやいた。
しかし、憎たらしげな声音とは裏腹に、その面貌に浮かぶのは牙を向く様な獰猛な笑み。
それは余裕でも強がりでもない。
ただただ純粋に、この一時の交錯を楽しんでいるという本心の吐露。
「全く………しょうがないな、君は」
そんな度し難くすらある槍兵に、詩音は小さく笑い掛ける。
そして、穂先を下げ、構えと共に鋭い眼光を指し向けるヴィクターに向かって超速の一歩を踏み込んだ。
虚像を引き連れ踏み入る詩音と迎え打つヴィクター。
両者の立場は最初とは完全に逆転していた。
残像を伴い振るわれる剣撃にヴィクターの脚が後退する。
反撃に槍を薙ごうとも触れた瞬間に詩音の姿は消失し、次の瞬間にはより深く踏み込まれている。
「ッチ!」
幾度目かの舌打ちがヴィクターの口から溢れ出す。
どれ程眼を凝らそうが、詩音の姿を正しく捉える事が出来ない。
見たままに捉えた所で、それは触れる事のできない影に過ぎず。
影に構っている隙に本体はヴィクターの間合いをずかずかと踏み荒らしてこの首を狩りにくる。
────こいつぁ、不味いな
胸の内でぼやく。
このまま行けば自分は負ける。
ヴィクターはそう確信した。
現状を打開しない限り、ヴィクターに勝機は無い。
────とは言っても、どうしたもんかなぁ………
ヴィクターは詩音の術中に完全に嵌まっていた。
視界に映る触れられない虚像。
まともにやり合った所で此方の攻撃は全て空振り。そして、その隙を突いて詩音は更にヴィクターを追い詰める。
何とかして、虚像ではなく詩音の実体を見つけ出さなくては………
そこまで考えた所で、ヴィクターはふとある事に気付いた。
────────何だ、簡単な事じゃねぇか
一度、ヴィクターは大きく槍を薙いだ。
それは攻撃、反撃の為の物では無く、打ち合いを強引に中断させる為の威嚇。
だが、それによって一瞬訪れた剣幕の停滞。その間にヴィクターは大きく間合いを取った。
そして、槍を持つ腕を後方に納め、残る三肢を地面に着ける。
必然、上体は下がり、それに添う様に顔も地面へと伏す。
「─────」
構えを変えたヴィクターを前に、詩音は一瞬眼を細める。
伏した顔から表情を窺う事は出来ない。
動こうとする気配が無い。
これまで後退はすれど待ちはしなかったヴィクターが、初めて見せる受け身の姿勢。
彼に限って怖じけづいた訳もあるまい。
つまりあの構えは詩音の《影亡姿》を破り、勝つ為の物。
ならば、詩音の方が動かなければ事は進みはしない。
一足、深く踏み込み。
詩音は進撃する。
対するヴィクターは不動。構えを維持したまま動かない。
その様を見て詩音は、
─────ああ、これは………
内心で悟りながら、低く構えたヴィクターに切り掛かる。
虚像を伴い、間合い一歩手前で瞬時に左へと回り込む。
ヴィクターの視点からすれば、眼前から直進してくる姿が見えるだろうが、当然それは虚像。
実体は左側から脇腹を狙い剣を振るう。
─────その直前、ヴィクターが僅かに顔を上げる。
その眼は何も見ていなかった。眼前の虚像も、回り込む実体も。
鋭い眼光は瞼に閉ざされ、一切の視覚情報を拒絶していた。
────やっぱバレてたか
そんな、他人事のようにぼやいたのとほぼ同時に、鋭い穂先が詩音の心臓へと突き出された。
虚像ではなく、本体を捉えた一槍。
それを、詩音は刀身で受け止めた。
だが、鋭い一突は鍛鉄の刃の一部を抉る様に穿ち、詩音の右横腹へと突き込まれた。
衝撃で弾き飛ばされながらも、即座に体勢を立て直して着地する。
無論、刃が人体を穿つ事はない。
だが生じた衝撃は深々と詩音の身体の内部へと突き刺さり、無視出来ないダメージを植え付ける。
衝撃は内臓へと達し、焼けるような熱と鈍痛を伴って詩音の身体を駆け巡る。
「よーし、当たりだ」
伏していた瞼を上げ、紅の槍兵はお馴染みの不敵な笑みを片頬に浮かべる。
「考えてみたら簡単な事だったわ。眼で追って当たらないなら、そもそも眼を瞑っちまえばいい」
影亡姿は特殊な歩法と体捌きによって相手の視界に存在しない虚像を映す技能。
故に、効果を及ぼすのはあくまでも視覚に対してのみ。
ならば、視覚を遮断してしまえばいい。
視界を閉ざし、代わりに音を辿ればその先に本来捉えるべき実像がある。
「正解。もう少し誤魔化せるかもと思ったけど、甘かったかな」
打たれた横腹を左手で軽く押さえながら、詩音はあっさりと肯定した。
「なんでぇ、随分とすんなりだな。もう少し焦ったり誤魔化したりしねぇのか?」
「元々こんな手品で勝てるなんて思ってないからね」
そう応じる詩音から虚勢の類いは感じられない。
ヴィクターに敗北を確信させたあの技でさえ、詩音にとっては取るに足らない曲芸と言う事なのだろう。
「ったく、底無しに恐ろしい奴だな。だが、まあ」
手にする長槍を払い、鋭い眼光を向け直すヴィクター。
「今の一発で、手前ぇに殺された感覚も掴み直した。さっきまでみたいにはいかねぇぞ」
「分かってるよ。こっからはもう少し気を引き締めないとね」
そんな、詩音の応答に、
「そうか。なら限界まで引き締めとけ」
槍兵は牙狼のように牙を剥き笑むと、
「散々見させて貰ったからな。返礼として────俺も、見せるとしよう」
瞬間、周囲の空気が震えた。
穂先を、地面を穿つかの如く下げ、今までとはまるで違う構えをとり、ヴィクターは鋭い眼光を詩音へと向ける。
詩音は即座に察した。
ヴィクターが次に見せるもの技。
それは彼が持つ最強の牙。
己を貫く眼光が宿すのは、必殺の覚悟であると。
ならば、詩音も相応の返答をしなければならないのだろう。
「厄介な物を引き摺り出しちゃったか……」
そう、誰に言うでもなく呟き、詩音は技能を解いた。
対処法に気付かれたのなら、最早この技は意味を成さない。
殺した技能も取り戻された。
であればそれらの小細工は邪魔でしかない。
最奥を見せると言うのなら、此方も最奥を以て応えるのみ。
─────その絶技、辿らせて貰う
瞬間、詩音は全てを見透かす魔眼を開眼する。
構えから技の間合いを読み、筋肉の緩急から槍の軌道を探り、呼吸からタイミングを予想する。
これまでヴィクターが見せた全ての技、全ての挙動をも検証し、彼がこれから見せるであろう未来を覗き見る。
人類が達し得る視覚の最高峰《真理の魔眼》。
それによって為される事象の先すら見通す絶技《観識《ヴィジョン・》・先視の魔眼》。
刹那、僅かに一呼吸の停滞を挟み、槍兵が疾走した。
この戦中見せたどの突撃よりも速い、文字通り神速の速さを以て、ヴィクターは詩音へと迫る。
そんな神速の踏み込みを同じく神速の踏み込みを以て詩音は迎え打つ。
両者の速さはほぼ互角。
故に勝敗は、繰り出される技の威力によって決定する。
残像を遥か。常軌を逸した速さで長槍の穂先が走る。
急所、心臓を狙い一直線に突き出される切っ先。
だが、どれだけ速かろうが、只の突き一つで狩り取れるほど詩音は安くない。
同等以上の速度を以てその穂先を弾き、返しの一撃がヴィクターを襲うのは必定。
だがそれは─────────────
放たれた突きが一つだけならばの話である。
心臓を穿つ一槍。それとほぼ同時に走る八つの穂先。
古の記憶を呼び覚まし、敵の心臓を喰らわせる魔獣の奥義《喰らい尽くす魔獣の槍》。
対してこれは、ヴィクター自身の身体と技能によって放たれる人の奥義。
心、肝、腎、脾、肺、左腕、右腕、左脚、右脚。
人体に備えられる都合九つの器官を一息に穿つ絶技。
故に、その名は───
「《狼王の九牙》!」
走る閃光、九発同時。
例え一撃を防いだとて、残る八つの牙がその血肉を噛み千切る。
回避も防御も許さない、文字通り《必殺》の槍。
――――――――――――だが、
その必殺を前にした詩音の姿を見て、ヴィクターが抱いたのは――――
《驚愕》。
或いは、
《恐怖》。
詩音の眼。
幼さの残る蒼玉を思わせる双眸は真っ直ぐに、疾る九つの穂先を捉えていた。
刹那。
防御を許さぬ九つの牙を正面から受け止める様に九つの閃光が煌めいた。
鋼を岩盤に叩きつけた様な硬質な音が一つ、否、九つ、同時に重なって鳴り響く。
一息に放った九槍は、同じく一息に放たれた九撃によって迎え打たれた。
都合九つの内の八撃を、詩音は刃欠けの剣を以て上下左右に正確に弾き、残る一突き、心臓を狙った一撃は剣の柄尻で受け止めたのだ。
その様を見たヴィクターは、困惑していた。
最強と自負する己が編み出しし絶技。
それを正面から迎え打ち、受け止めて見せた詩音に対して紅の槍兵が抱いたのは戦慄と称賛、そしてそれを遥か上回る異質感だった。
詩音は強い。それは分かっていた。
だが、違う。
詩音の力はこれまでみたどの人間のそれとも異なる異質な物だ。
言うなれば、人のままに、人としての領域を踏み外した、そんな強さ。
────お前は一体、何なんだ……………
金音が鳴る。
それでヴィクターは意識を戦闘へと引き戻した。
全ての牙を防ぎ切った詩音。
だがその代償は小さくなく。
詩音の握る直剣、その刀身は既に根本から完全に折れ、最早剣としての役目を果たせない状態だった。
故に、最後の一撃を詩音は柄で受け止めざるを得なかったのだ。
だが、剣を失っても詩音は止まりはしなかった。
穂先と柄尻。両者の力が拮抗する中、詩音はほんの一瞬力を抜き、ヴィクターの槍を招き入れる。
鋭い鋒が心臓目掛けて突き込んで来るが、それを半身になって躱し同時に上体を深く沈めると、ヴィクターの懐へと飛び込んだ。
「っ!」
だが、流石と言うべきか、ヴィクターは即座に槍を反して穂先で踏み込む詩音を迎撃する。
その反撃を、詩音は身を捩り回避した。
文字通り紙一重の際どさで避けた穂先は胸元を撫でる様に掠めるがそんな事は気にせずに詩音は間合いを詰める。
それと同時に殆ど柄だけとなった剣を放棄する。
幾ら詩音と言えどもでも、ヴィクター程の者を武器も無しに無力化するのは楽な事では無いだろう。
だが、
───まだ終わらない!
そんな勝敗の予測を真っ先に否定したのは、あろう事か無手の詩音に対峙するヴィクター本人だった。
こんな事で、牙を折った程度で、詩音が止まる訳が無いと、自身の勝利を否定する。
そして、ヴィクターの想いを肯定するかの様に、詩音は止まる事なく、寧ろ更にヴィクターの懐へと踏み込んだ。
折れた剣を捨て、正真正銘の無手となって踏み込んで来る。
最早、槍で迎撃出来る間合いでは無い領域まで到達した詩音は自らに向けて突き出された右腕、その手首を取ると、そのまま外側から脇の下を潜る様にして抜け、身を翻してすれ違う様に背後へと回り込む事でヴィクターの肘と肩関節を極め、その身体を制した。
「ッ!」
ヴィクターの口から焦りと思われる声が漏れる。
しかし、まだ終わりでは無かった。
関節を極め、背後へと周り込んだ詩音はヴィクターの背にそっと掌を当てた。
─────何だ?
感触で、詩音の行動を認識したヴィクターはその意図が読めず困惑する。
掌底を当てた所で、この距離では十分な加速を与える事も体重を乗せる事も出来ない。
その筈だった。
だが次の瞬間。
「────シッ」
鋭い呼吸音。それに続いて鈍く、重い音が鳴り響く。
それと同時に、凄まじい衝撃が背中から身体の芯に向けてヴィクターを襲った。
「ガハッ────!」
呼吸が詰まる。
背中から入った衝撃が、背骨を抜け、横隔膜を突き上げ、その上にある肺を押し潰す。
狂おしい程の息苦しさと共に、視界が霞む程の鈍痛がヴィクターの意識を焼き尽くす。
それは通常の打撃による物とはまるで違うダメージ。
ただ痛いのでは無い不快な苦痛は己の手から槍が離れた事すら数秒の間気付かせない程に痛烈だった。
衝撃の寸前で極められた関節を開放され、ヴィクターの身体は前方へと突き飛ばされた様に倒れ込んだ。
鍛え上げられた肉体を貫き、その中の内臓を叩いた衝撃の出所は考えるまでも無く、先程まで殆ど密着状態にあった詩音である。
詩音は、掌を背中に密着させた状態から、ヴィクターを渾身の力で殴り飛ばしたのだ。
そんな事が可能なのか。
答えは「不可能ではない」。
拳による打撃とは、腕の筋力のみによって構成されている訳ではない。
地面を踏む両脚の力、それによって大地から返って来る反発力、腰の回転に肩の開閉。
人体の駆動を全解放する事によって、ありとあらゆる部位で発生する運動を拳面へと収束する体技なのだ。
であれば、その過程で腕の振りが生み出す力など全体の割合で言えば僅かである。
拳打に於ける全身の駆動。その原理を真に理解し、修めた者ならば、腕を一切動かさず、他の部位が生み出した力を以て十全の打撃を放つ事など雑作も無い。
遥か、大陸の拳士達はそうした力に《勁》という名を与え、またその勁を寸での近間で放つ御業をこう呼んだ。
中国武術《寸勁》と。
早い話が、詩音は密着した状態からでもフルスイング時と変わらない全力の打撃を放つ事が出来るのだ。
「ガハッ───ッハ──グ───」
途切れ途切れに苦悶の声を溢すヴィクター。
槍を喪失し、片膝を着いて呻くその姿が、受けたダメージの大きさを物語る。
「へ──へへ、こいつは、キツイな。───その細腕の何処に、こんな馬鹿力があるだか」
額に脂汗を滲ませながらも、ヴィクターは片頬に笑みを浮かべてそう溢す。
寸勁とは当然だが魔力だ何だと言った超常の物ではない。
通常の拳打と同じく、限られた筋力と体重で繰り出す打撃だ。
幾ら不意打ちぎみに入ったとはいえ、詩音程度の体重と筋力で放ったただの打撃では大したダメージを与える事は難しい。
瞬間的に最大限の力を叩き込む鋭い打撃はある程度筋力と体重に秀でていなければ、分厚い筋肉や脂肪、装備に弾かれ、肝心の肉体に届く衝撃は微々たる物になる。
だが、詩音が放った寸勁、否、零勁はそう言ったただ表面を叩くだけの打撃では無く、長く、重く、対象の芯にまで浸透する一撃である。
それにより生じた衝撃は、通常の打撃よりもゆっくりと、そして深々と肉体へ伝わり、筋肉を抜け、骨を透かし、衝撃の大半を維持したままに相手の奥まで浸透し、脆弱な内臓を盛大に叩くのだ。
「────」
膝を着くヴィクター。
手応えは十分だった。
今の一撃で決着。そうなっても可笑しく無い程度には。
だが、
「──っぐ──────ッハァァ、はぁ」
無理矢理に呼吸しながら、ヴィクターはふらふらと立ち上がり詩音と対峙した。
「立つのかぁ。背中からとは言え、内臓に直接パンチ打ち込んだ様な物なんだけどなぁ」
僅かに呆れながら、詩音がそう言うと。
「ヘッ、悪ぃな。ガキの頃から往生際が悪いもんでよ。それに、素手で殴り合うのも嫌いじゃ無ぇんだわ」
地面を踏みしめるヴィクターから、闘志が欠ける気配は一切なく。
「―――――」
「……………」
二人共に静止する。
踏み込むタイミングを模索する。
────直剣喪失。右腹横筋にダメージ。近接格闘時の急所と認定。ヴィクターは未だにダメージから回復していない。重ねて打てば沈められるか
────槍は詩音の方が僅かに近い。取りに行くよりも殴り合いに持ち込むべきか。だが………殴られた場所の痛みが引かねぇ。これは内臓に響いてるか。おまけに極められた右腕も痛めてら
互いに自分と相手の状態を認識しつつ正対する。
間合いとタイミングを計り合い、呼吸を読み合い。
そして、共に動いた。
踏み込みは同時。しかし初速は詩音が上。
両者の間合いが瞬時に詰まり、互いに拳を振り抜き─────────
直後、両者は唐突に静止した。
振るい掛けた拳を止め、タイミングを合わせたかの様に同時にその場から飛び退いた。
次の瞬間。
先程まで詩音が立っていた正にその場所に向けて、上空から何かが飛来した。
第肆死法 《影亡姿》
詩音の用いる独自の殺人術 死法の第肆技。
緩急鈍鋭自在の足取りを以て対象の視界に残像を残し詩音の位置を誤認させる。
見たままに詩音に触れようとしても、其処に実体は無く触れると同時に蜃気楼の様に姿が消失する。
視力、特に動体視力に優れた者程よりはっきりと残像を認識してしまい術中に嵌まる。
今回はフードで隠していたが、本来ならば詩音の長い髪も動きと共に不規則に靡く事でこの技の効果を高める作用がある。
詩音がロングコートの様な長丈の服装を好む理由には、服の丈が髪と同様の効果を生み出すというのが含まれる。
ただし、あくまでも視覚を騙す技の為、音を辿られると対処される事もある。
《狼王の九牙》
ヴィクターの持つ対人絶技。
槍を用いて放つ超高速の九連突きであり、心臓、肝臓、脾臓、腎臓、肺臓の五臓と右腕、左腕、右脚、左脚を一息の間に穿ち砕く。
九発の突きは殆ど同時に繰り出される為、例え一撃を防いだ所で残る突きにより全身を穿ち抜かれる。
長槍を用いた突進という特性上間合いも広く回避は困難。
防ぐには一斉に迫り来る槍撃を同等の速度の連撃で迎え打つ必要がある。
《寸勁》
踏み込みや全身の稼働によって生み出される運動エネルギー《勁》を体捌きと呼吸によって数寸、即ち数㎝という超至近距離から相手に放ちダメージを与える武術の技。
寸勁の他にも武術の種類によって名前の異なる類似する技は幾つも存在するが、その全てが習得に長い年月と苛烈な鍛練を必要とする絶技である。
因みに、詩音の物は完全に身体の部位を相手に密着させた状態から放つ為、正確には《寸勁》では無く、それよりも近い《零勁》とでも呼ぶべき代物。




