76話 黒狼の少女
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カーテンの隙間から暁光が射し込む部屋の中で、詩音は椅子に腰掛けたまま両手を上げて伸びをする。
──結局、徹夜しちゃったか………
視線を、一度窓の方にやってから机に戻す。
決して狭くない卓上は羊皮紙と本、《HAL》システムのホロウィンドウで埋め尽くされており、羊皮紙の表面には幾つものオリジナルの魔術式やメモ書きが描かれている。
寝なければ頭も働かないと分かっていながら、キリの良い所までとついつい作業を続けてしまうのは、昔からの癖だ。
バレたらまたクレハに大目玉を喰らうだろうと他人事の様に考えていると、ふと背後で気配を感じて詩音は振り返った。
背後、壁際に設けられた数える程も使っていないベッドの中で何かがもぞもぞと動いている。
何だと思いながら詩音は立ち上がると、ベッドへと歩み寄り布団を捲った。
真っ白い布を剥ぎ取ると、そこには裸体の少女の姿があった。
歳は4~5歳程。内側が白く、外側が黒い二色の髪を腰程まで伸ばした幼子が身体を丸めて静かに眼を閉じている。
「………ミユ?」
僅かに間を開けて詩音は昨日連れて帰ってきた黒い子狼の名を呟く。
そう思った理由は、少女が今居る場所が丁度昨日子狼が寝ていた場所である事と、もう一つ。
少女の頭上の髪と同じ色の柔らかそうな毛で覆われた獣耳と、腰から伸びる同じく柔らかそうな尻尾が眼に入ったからだ。
裸体の少女はその呼び掛けに反応したのか、或いは布団を取られた事に気付いたのか、ゆっくりと瞼を上げた。
寝惚け眼のままゆっくりと身体を起こし、先程の詩音と同じ様に両手を上げて伸びをする。
そして、二、三回の瞬きの後で、少女は詩音の方を見た。
「あ、シオン。おはよう」
薄い唇が開き、銀器を鳴らすような凛とした、しかし姿相応の幼さを含んだ声で少女は挨拶をする。
自分の名を呼んだ事で、詩音は少女がミユであるという事を確信した。
「おはよう、ミユ。取り敢えず何か服着よっか」
挨拶を返してからそう言うと、ミユはこてんと首を傾げた。
「ふく?」
「こういうやつ」
自身の服を指しながら告げる。
「なんで?」
獣特有の野性味故か、ミユは不思議そうに問い返してくる。
「女の子がそんな格好してちゃいけないの。風邪引くといけないし」
「クゥ……どうしても?」
「どうしてもだよ」
詩音がそう言って取り敢えず自分のコートを羽織らせようとした時、
「わかった」
そうミユが一言言った次の瞬間。
ミユの身体から魔力が溢れ出したかと思うと、それは体表面を覆う様に広がり、次第に質感を得始める。
数秒の内に溢れ出た魔力は濃紫を基調とした服として実体化した。
とはいえ、その服装は私生活を送るには少々頼りなく、全裸よりはマシと言った程度である。
「魔力の服か」
濃紫の外套を纏ったミユを見ながら呟く。
詩音自身も同じ様な方法で服を作っているので然程驚きはしなかった。
「これでいい?」
「うーん……もうちょっと着込めない?」
「動きにくいもん」
「そっかぁ…………これって着てる内に入るのかな?」
そうぼやきながら詩音がベッドに腰掛けると、ミユがもそもそと四つ手を着きながら近付いてきて膝の上に身を転がした。
狼というよりは猫の様に甘えてくるミユの頭を微笑を浮かべて撫でながら詩音は頭の中で《HAL》を起動して問い掛けた。
──これって《人化》スキル?
『解析中………完了。スキル名《人狼化》。突然変異により発生した固有スキルと思われます』
エイシェント・ウルフという魔物が詩音の持つ物と同じ様な《人化》やそれに類するスキルを持っているという話は聞いた事がなく、記憶にある限りその様な記載がされた文献も見た事がない。
だがミユは《虚空》の属性を持つ特殊個体。通常種が持たない能力を持っていても不思議はない。
「シオン?」
黙り込んだ詩音を訝しんだミユが名前を呼ぶ。
「何でもないよ。傷の具合はどう? 何処か痛んだりしない?」
そう訪ねると、ミユは仰向けに身体の向きを変え、確かめる様に外套を捲って自分の身体を見た。
「うん。もう平気」
「そっか。昨日のうちに抜糸は済んでるけど、あんまり無茶しちゃ駄目だよ」
そんなやり取りをしていた時、部屋の扉の向こうから控えめなノックの音が飛ぶ。
「シオン君、起きてる?」
次いで掛けられた声はアリスの物。
「起きてるよ、どうぞ」
返事を返すと扉が開く。
「話声がしてたけど誰か」
そう言って入室してきたアリスは詩音の膝の上で転がるミユに気付いたようで言葉を止めて軽く目を見張る。
「シオン君、その子は?」
「ミユだよ。人型になるスキルを持っているんだって」
「へぇ、そうなの。おはよう、ミユちゃん」
「おはようアリス」
頭上の獣耳をぴくりと動かしながらミユが挨拶を返す。
「お話も出来るんだね。もう少ししたら朝ご飯にするから一緒に食べようね」
「うん!」
「手伝うよ、アリス」
「ありがとうシオン君」
ミユはアリスと手を繋いだまま部屋を後にし、詩音もそれに続いた。
◆
アリスと詩音が朝食の準備を終える頃には、他の妖精達も各々起床して来た。
全員ミユの人型体を目にすると、アリスと同様の反応を示したが説明すると詩音自身も竜型と人型に変化するスキルを持っている事を知っているからか、全員すんなりと納得した。
全員分の朝食を用意し終え、それとは別にミユには詩音がパンケーキを焼いた。
最初は物珍しさからか躊躇の表情を見せていたミユだったが、一口食べた途端に満面の笑みを浮かべた。
全員が食べ終え、食器を洗い終えた時にアリスが訪ねて来た。
「シオン君、今日は組合に?」
「いや、今日は商店街の方に行くよ。ミユの日用品とか買い込まないと。取り敢えず、まずは服だね」
そう言って詩音はクレハに抱かれるミユに目をやる。
ミユの格好は家内なら兎も角、外に出るには少しばかり心許ない。
まあ、冒険者の中には機動性重視という理由でかなり際どい格好をした者もそれなりに居るので、周囲からすればそこまで気にならないかもしれないが、それでも衣服の類いはやはり必要だろう。
「ミユ」
名前を呼ぶとミユは頭の上の三角耳をぴくりと震わせると、クレハの腕から抜け出して詩音の方に駆け寄って来る。
残念そうな表情を浮かべるクレハに申し訳ないと思いながら、詩音はミユを抱き上げて言った。
「ミユ、この後一緒にお出かけしよっか」
「おでかけ?」
「うん。街に遊びに行こう」
そう言うとミユは、人の多い場所に行くのが不安なのか数秒程難しい顔をしたが、好奇心が勝ったのか軈てこくんと頷いた。
「シオン君、私も一緒にいいかな? 丁度新しい生地の補充に行こうと思ってたの」
「勿論。アリスが着いて来てくれるなら、服選びの時も心強いからね」
アリスとそんなやり取りをしていると背後でクレハが、
「いいなぁアリス。ボクも一緒にミユの服選びたいよぉ」
と、羨まし気な声を上げた。
「クレハは今日組合から東の湖の調査依頼が来てるでしょ」
シャルロットのそんな横槍にクレハは意気消沈の様子でソファーに身体を預けながら「わかってるよーぅ」と返す。
そんな様子のクレハを見て詩音はミユにこっそりと、
「今度、クレハと一緒に買い物に行こっか」
と耳打ちした。
ミユは今度は何の躊躇いもなく笑みと共に頷いた。
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―――――――――――――――――――――じぶんがない。
―――――――――――――――――――――かたちがない。
まっくらです。
なんにも見えません。
そのせいで、じぶんの手がわかりません。
じぶんの足がわかりません。
じぶんのお腹がわかりません。
じぶんの顔がわかりません。
じぶんがナニかがわかりません。
どろどろです。
まっくらな何処かでどろどろです。
かたちなんてありません。
おなかが痛かったです。
思い出すのが怖いです。
かたちが在るから痛いのです。
だから、じぶんのかたちを忘れました。
そしたら痛くなくなりました。
かわりにすごく寒いです。
かわりにすごく寂しいです。
やっぱりかたちが欲しいです。
痛いのは嫌だけど、寂しいのはもっと嫌です。
だから、かたちを作ります。
どろどろのナニかを集めてかためます。
でも、どんなのに?
さいしょのかたちは痛いです。
別のがいいです。
どうしよう?
どうしよう?
どうしよう?
白いモノを知ってます。
わからないから知ってるモノを真似します。
手のかたちはこうでした。
脚のかたちはこうでした。
お腹の形はこうでした。
顔のかたちはこうでした。
でもこまりました。
新しいかたちはうまく動きません。
どろどろに戻りそう。
また、ナニかわからなくなりそう。
ナニかが足りません。
「………ミユ」
おとが聞こえました。
それがこえだと思い出しました。
きこえたそれが、なまえだとわかりました。
みゆ………みゆ………ミユ……………
何度もそれをくり返しました。
どろどろが止まりました。
――――――――――やっと形が解りました。
「あ、シオン。おはよう」




