53話 刃の重み
赤い光が一際強く輝いた直後に姿を現したのは大柄な雄牛ほどはあろう巨大な狼だった。
召喚の余波で生じた風に灰色の毛並を靡かせて獣は小さく唸る。
「《銀灰狼》か。変わった魔術だね」
初見の召喚術に詩音は興味をそそられたように呟く。
「ギール魔術。鉱石や草木を触媒にする古い魔術でな。神代から伝わる術の類だ。俺の師匠は完璧主義な所があってな。『戦う手段は多いに越した事はない』、つって槍だけじゃなく色々と学ばされた。こいつもその一つだ」
語りながら、ヴィクターは召喚した巨狼を片手で軽く撫でる。
「こいつは俺が呼べる中では最高位の魔物だ。名前はジルド。まあ、魔水晶に見合っているかは別だがな。
こいつが居れば、この辺の魔物は近づきもしねぇだろうよ。鼻も効くし、道に迷う心配も無い」
「そっか。じゃあジルド。よろしく頼むよ」
詩音もヴィクターに習い魔狼の頬を優しく撫でる。
するとジルドは、何かを探るように詩音の眼を見詰めた後で、そっと詩音の頬に顔をこすりつけた。
「お、気に入られたみたいだな。初見の奴はほぼほぼ無視するのに珍しい」
面白い物を見る様な笑みを浮かべながらヴィクターは言った。
「寡黙な性格なんだね。でも、悪い子じゃないのはよくわかったよ」
「そうかい。全く不思議な奴だなお前さんは」
「そうかな? わっ」
ヴィクターの物言いに小首を傾げる詩音にジルドが更に詩音の身体にすり寄って来た。
その鼻先が身体を擦り、コートの裾を捲る。
そして、晒された詩音の身体を見てヴィクターが、
──細っせー腰。女みてぇだな。
と、なんとなしに思っていると、ジギルが今度は詩音の顔にすり寄り、その拍子でフードが外れた。
そして、不意に視界に銀、いや、白銀が映る。純銀を鋳溶かした細糸の様なそれが長く艶やかな髪だと理解するのに数秒を有した。
そして、絹糸の様にしなやかな髪の下には透き通る様な白い肌と、長い睫に縁取られた蒼く大きな瞳が続く。
「ははっ、くすぐったよ」
小振りで鮮やかな紅色の唇が動き、少年と言い張るには高く愛らしい声が思考と肉体が揃ってフリーズするヴィクターに向けて放たれる。
情報が酷くゆっくりと脳へと伝わり、眼前の光景を遅れて認識した所でヴィクターは我に返った。
「お、女!?」
両の眼を見開いて声を上げる。
「え?、あ、フードが」
ヴィクターの反応に見て、詩音はフードが外れている事に気付く。
「おいおい、女なら女って言っとけよ。てっきり男かと……」
気まず気に唸るヴィクターを、詩音は一瞬どうかしたのかと訝しんだが、すぐに彼が勘違いしている事に気付く。
「男だよ僕は」
「あん?」
「だから、勘違いでもなんでも無く、僕は男」
その言葉に、ヴィクターは暫く絶句した後、蚊の鳴くような声で呟いた。
「―――――冗談だろ?」
信じられない、と表情が告げている。
「お前みたいな男が居てたまるかよ」
「本当だってば、嘘吐いてる様に見える?」
訪ね返す詩音からは、確かに虚言を溢している様な気配はない。
しかしそれでも、詩音の見た目も声も男の物だと言われて素直には信じられない。
「しかし……なぁ………」
未だに納得いかない様子でヴィクターは唸るその姿に詩音は再び溜飲を零す。
「どうしても信じられないならもう良いよ。今は子供たちを安全な場所に移す方が優勢だし。男だの女だの些細な事で騒いでる時じゃない」
「いや、些細な事では……」
「別に僕が男でも女でも、何か変わる物でもないでしょ?」
尚もぶつくさと呟くヴィクターに詩音はどうでも良さげに言った。
「はぁ、わぁったよ、たく」
半ば自棄気味にヴィクターは言葉を溢し、詩音は傍らで待機していたジルドへと歩み寄る。
「それで。この子が居れば魔物や動物に襲われる事はまず無いんだね?」
「あ、ああ。C、いや、C+程度までなら束で掛かって来ても問題ない」
「そっか。なら護衛としては十分か」
確認してから、詩音はジルドを連れて再び荷車の方へと向かう。
荷車からは召喚術の気配が気になったらしい子供たちが数人顔を覗かせていた。その中には、先ほどの栗色の髪の少女の姿もあった。
詩音は荷車の外から中を覗き込みながら子供たち全員に聞こえる様に言った。
「これから君たちを一番人の居る場所まで送り届ける。ただ僕達は他にやらなくちゃならない事があるから一緒に行く事は出来ない」
その説明と、巨大な狼の姿に子供たちは顔に不安の色が浮かべる。
「でも、この子が君たちを守ってくれる。よっぽどの事が無い限りは危険な目に合う事は無い。何か質問は?」
全員が暫く、戸惑う様に黙り込む。
そして、一人の少年がぼそりと口走った。
「僕達、家に帰れるの?」
不安気な瞳を向けながら投げかけられた問い。
正直約束は出来ない。
不足の事態が起きないとも限らない。
例えば、ジルドでも対処しきれないランクの魔物でも運悪く遭遇すればそれ相応の結末が待ち受けているだろう。
どれだけ思考を巡らせても、何が起こるか予想出来ないというのが世の常である。
だが、詩音はそれを口にする事無く、
「───うん。少し時間は掛かるかも知れないけど、君たちはちゃんと家に帰れるよ」
と、優しく微笑みながら答えた。
どれだけ心配しても、結局事は時の運。ならばこれ以上不安にさせる事もないだろう。
詩音の言葉に子供達は歓喜の笑みを浮かべる。
「心配しなくても大丈夫。だから皆、目的地に着くまでいい子にしてるんだよ?」
各々が返事をし、「良かっね」と互いに喜び合う姿を少しだけ眺めてから、詩音は荷車の横へと立ち位置を移した。
指先に歯を立たせて軽く傷を付ける。
傷口から少量の血が滲み出すと、その指先を軽く馬車の側面に走らせる。
血液と魔光の軌跡が陣を描く。
一つの菱を中心にその周りを三重の円で囲い、四隅に五芒星の頂点を結んだ五角形を置く。
流れる様な滑らかな動作で陣を描き終えると、
「───雫の守手。白銀の囁き。」
滑らかに詠唱を口にする。
「──静滴を。此処に壁は無く、槍も無し。」
菱は水を、円は平穏を意味し、その四方を囲う五角は守りを司る魔術的刻印。
「──眠り子は、安らぎの森で夢を見る」
詠唱が完成すると同時に詩音は陣に魔力を流す。
魔力は言霊に導かれ、世界の内側、星の意識へと繋がる。
それで初めて、刻まれた刻印は意味を持つ。
アデスによってその存在意味を改変された不可視の魔力は荷車の表面に広がり、瞬きの間にその全体を覆い尽くした。
「ほう、ちょっとした城壁並の結界じゃねぇか」
その魔力を感じ取ったのか、馬を荷車に繋ぎ変える作業をしていたヴィクターが感心した様な声を上げた。
「弓兵の次は魔術師か。随分と多芸なこって」
「ちょっと齧ってる程度だよ。器用貧乏ってやつ。この結界も基礎的な中位魔術だよ」
「そうなのか? にしては随分と堅牢そうだが」
「並の人より魔力量が多くてね。それに物を言わせて強化しだけ。それに、多芸なのは君も同じだろう」
詩音の言葉に、「まあ、そうだな」と返しながら馬と荷車を繋ぐロープに異常が無いかを確認する。
と、そうして作業を続けていると、戸惑いがちな足取りで近づいて来る者が一人。
気付いた詩音が視線を向けると、そこには例の栗色の髪の少女が気まず気な表情を浮かべて立って居た。
「どうかしたの? あの子に何かあった?」
訪ねたその声でヴィクターも少女に気付いたらしく、視線を詩音と少女の二人に向けた。
「あ、いや、それは大丈夫………」
言葉につまりながら、少女は小さく首を振る。
「えっと、その、あ、あなたさっき私達を治療してくれた人、であってる?」
「ああ、そっか。さっきはフード被ってたもんね。そうだよ。で、どうしたんだい?」
もう一度要件を訪ねると、少女は目線を泳がせながら囁く。
「さっきは、その…………ごめんなさい」
「ごめんって……何が?」
「だから、確かめもせずに殴り掛かった事……」
付け足されたその言葉に、詩音は「ああ、なんだそんな事か」とどうでもよさ気に呟く。
「そんな事って……怒っていないの?」
「別に。だって君はあの子を守ろうとしたんでしょ? ならあれは正しい行動、正しい選択だ。何も気に病む事は無いよ」
淡々と述べる詩音に対して、少女はいまいち意味が分からないと言った表情を浮かべる。
その様子を見かねたらしいヴィクターが歩み寄り口を開いた。
「要するにだ嬢ちゃん。気にして無いからお前も気にするなって言いたいんだよそいつは」
「そうなの?」
「あー、うん。まあそんな感じ。分かったら早く他の子の所に戻って。もうすぐ出発だよ」
肯定して詩音は少女を荷車へと促す。
しかし、
「待って」
少女は戻ろうとしなかった。
詩音とヴィクターを見ながら問う。
「二人は、あいつらの仲間を捕まえに行く途中なんでしょう?」
「ああ、そうだが?」
ヴィクターが首肯すると少女は絞り出すような声で叫ぶ。
「なら、私も一緒に連れって行って!」
「はあ?」
不可解な発言にヴィクターの眉が歪む。
共に連れて行けと眼前の少女は言った。直前に発言から、これから詩音とヴィクターが赴く場所が賊共の根城であると分かっているはずだ。
「お前な……そんなの無理に決まってるだろう」
「お願い。行かなきゃいけないの。連れて行って!」
少女は引き下がらない。
詩音とヴィクターに詰めより、必死に表情で懇願する。
「駄目だっつってるだろ。大体、なんで嬢ちゃんが一緒に来る必要があるんだ?」
駄々を捏ねる子供を宥めるような口調でヴィクターは理由を問う。
「妹が、私の妹があいつらの仲間に連れていかれたの。だから助けないと」
少女の言い分にヴィクターと詩音は一度互いに視線を交わす。
「それは、あいつ等に他にも盗賊が居たって事?」
こしを膝を曲げ、視線を合わせながら詩音が尋ねると少女はコクンと首肯する。
「最初は私たちの乗った馬車と、もう一つ、妹や他の子達が乗った馬車が一緒だったんだけど、何日か前に、私たちの乗った馬車が壊れたらしくて、それを直している間に妹の乗った方は先に行っちゃったんだ」
「なるほどね。あの破損の跡はそういう事か」
詩音はちらりと視線を荷車の車輪へと向ける。
「だから、私は妹を助けたいの。お願い、一緒に連れて行って!」
再度、少女は懇願する。
「駄目だ。危険すぎる」
下手に取り繕う事はせずヴィクターははっきりと断る。
「危ないのは分かってる! それでも!」
叫ぶ少女にヴィクターは困った様に、否、呆れたように息を吐いた。
これはただの子供の我儘だ。
この少女がついて来たところで何の役にも立たない。むしろ足手まといになるのは目に見えている。
だがそれを告げたとて、今の彼女に道理は通用しない。
妹を助けたいと言う気持ちは間違いではないのだろうが、その手段として自らが迎えに行くと言う選択を選ぶのは愚かとしか言いようがない。
尤も、まだ年端もいかない少女に理性的な判断を下せと言うのも無理な話だが。
ヴィクターの溜飲も尤もだと思いながら、詩音は少女に尋ねる。
「君、名前は?」
「……シエラ……」
「そっか。シエラ、聞くけど、君は僕らと一緒に行くとして、どうやって妹を助けるつもりだい?」
「え……?」
シエラと名乗った少女はその質問に言葉を詰まらせる。
「捕まった君の妹や他の子供たちを助けようとすれば、当然相手は抵抗する。僕達を殺しに来る。そうなった時、君はどうやって妹を助けるつもりなんだい?」
もう一度問う。
少女は数秒躊躇う様な表情を浮かべてから答えを口にした。
「わ、私も戦う! 妹をさらった人達をやっつけて、アエラを助ける!」
「―――――そっか」
少女の答えに詩音は短く呟くと、詩音は腰を上げた。
そして、踵を返して捕縛した盗賊達の方へと歩いて行く。
何をするつもりかと訝しむ少女の視線を受けながら詩音は気絶した盗賊達の側まで歩み寄ると、その傍らに転がった一本の剣を拾い上げた。
全長一m弱の軽量な片手剣。
先ほどまで賊の一人が使っていたそれを持って戻ってきた詩音は、少女の足元に無造作に剣を投げ捨てた。
そして――――――
「なら、それであいつ等を殺してみてよ」
困惑するシエラに、静かに告げた。
「え………?」
「……………」
言葉の意味が理解できないと言いたげな声がシエラの口から零れ、その傍らでヴィクターはもはや隠すつもりは無いとばかりに眉間に皺を寄せた厳しい表情を浮かべている。。
「殺す気で来る相手と戦うって事は、少なからずこっちも殺す覚悟を持って対峙するって事だ」
淡々とした口調で語る。
それは決して無垢なる子供にさせてはいけない行為。
シエラは青ざめた顔で詩音と足元の剣を交互に見る。
その様を詩音は無言で見返しながら、お前の覚悟を此処で示してみせろ、と眼で告げる。
ゆっくりと、シエラは震える両手を剣へと伸ばす。
革が巻かれた柄を握り、持ち上げると、ゆっくりと拘束された盗賊の元へと歩み寄る。
そして、一番手近な盗賊の一人の前で立ち止まる。
呼吸が荒ぶる。
正常な酸素が入って来ず、極軽度な頭痛がシエラを襲う。
十秒以上の間、凍り付いた様に立ち尽くす。
しかし、軈て意を決して剣を振り上げようと両の腕に力を込めた。
だが――――――
「ッ……」
シエラがどれだけその両腕に力を込めても鋼鉄の塊は持ち上がらない。
得物は取り回しに優れた小振りな片手剣。
子供と言えど、十分両手で持ち上げられる程度の重量しか持たない。
しかし、まるで大きな岩を持ち上げようとしている様な途方もない重みがシエラの全身を駆け巡った。
「っーーー………!」
全霊の力を込めながらも、シエラの腕は上がる事は無く。
動こうとする意思に反して、身体は剣を掲げる事を拒絶する。
軈て、限界を迎え、シエラは落とす様に柄から手を離した。
重量感に欠ける音を立てて地面に剣が落ちる。
投げ出された剣を片手で持ち上げ、詩音は表情を変えずに相変わらず淡々とした口調で言った。
「重いでしょ? それが人を傷つける物の重み、人を殺すという行為の重みだよ」
僅かに間をおいて。
「人を斬る、人を殺すって事は、その重みを一生背負い続けるって事。相手が善人だろうが悪人だろうがそれは変わらない。シエラ、君にこの重みを背負い続ける覚悟があるかい?」
シエラは漸く、繰り返される詩音の問い掛けの真意を悟る。
それと同時に目じりに涙が浮かび、次の瞬間には頬を伝う。
細くかたを震わし、両手で涙を拭いながら小さく嗚咽を漏らす。
自身の発言の意味とその先に待ち受ける業の深さを本能的に理解した途端に言い様の無い恐怖が湧き上って来たのだ。
崩れ落ちる様に膝を着き、泣きじゃくるシエラに詩音も同じく膝を着いて語りかける。
「それでいい。こんな下らない重みなんて背負う必要はない。代わりに僕が君の妹を助けるから」
そう言った詩音の声音は、先ほどまでと比べてどこか優し気な、或いはすまなそうさ物だった。
「……うっ…くっ……で、でも………」
泣きながらシエラは呟く。
詩音はそんなシエラの頭を優しく撫でる。
「子供なんだから、もっと周りを頼りなよ」
やがてシエラは泣き止んでいき、消え入りそうな声で「ありがとう」と呟いた。
◆
「よし、全員乗ったな?」
荷車の中を覗き込みながらヴィクターが確認する。
子供たちは一人残らず乗車しており、馬車の方から移した水や食料も目的地に着くまでなら十分に持つ量がある。
「よし、そんじゃあ」
「ま、まって」
ヴィクターの出発の号令を遮り、シエラが荷車から顔を覗かせた。
「なんだい?」
詩音が応答するとシエラは少し口籠ってから言った。
「な、名前…」
「ん?」
「お姉ちゃんの名前、教えて」
「ああ、そういえば一方的に名乗らせただけだったね。僕は詩音。霧咲詩音」
「シオン……」
告げられた名前をシエラは噛み締める様に復唱する。
「そ。ついでにあっちの赤い人はヴィクター」
「俺はついでかよ!」
雑に紹介されたヴィクターが苦言を口走った。
「あの……ありがとうお姉ちゃん」
「お礼を言うのはまだ早い。君の妹、アエラを助けて君のもとに送り届けた時にその言葉を受け取るよ」
「うん。待ってるから」
最後にもう一度ぽんぽんと頭を撫でてやってから、シエラを戻らせる。
「ほいじゃあ今度こそ。頼んだぜ、ジルド」
ヴィクターの言葉に分かったと言うように一度小さく吠える。
すると、荷車につながれた四頭の馬が歩きだし、子供たちを乗せた荷車を引いていく。ジルドもその隣に並び、ぴったりと着いていく。
川辺を行く荷車の姿が見えなくなるまで見送った後で、
「それじゃ、やろっか」
「ああ」
詩音とヴィクターは銀糸に囚われた盗賊達の方に視線をやった。




