44話 その瞳は熱を誘う
「待っててくれ」と言って飲み物を買いに出たカインに内心で謝りつつベンチを離れた詩音は、そのまま人気の無い裏道へと向かった。
右へ曲がり上へ上がって左に折れて下に下った先の薄暗い袋小路にまで潜ったところで足を止める。
「ここなら人目の心配は無いし、出てきたら?」
薄暗い空間でそう呟く。
応答は無い。張り詰めた静寂だけが場を支配する。
だが、十数秒が経過したあと、不意に詩音の通って来た通路からガタガタと物音が聞こえて来た。
物音の主が姿を現す。
一つではない。全部で──八。
派手な衣服やアクセサリーを身に着けた男達。
全員手には威嚇のつもりか抜き身の剣やらナイフやらを握っている。
「何時から気付いてた?」
リーダーらしき赤紫色のバンダナを巻いた男が、派手な装飾が施された短剣を見せつけながら口を開いた。
「最初から」
短く返された詩音の答えに男達はお互いに誰がヘマをしたのかを探り合う様に目線を交わす。
「誰がヘマしたとかじゃなくて、全員尾行が下手だっただけだよ」
男達の無言の擦り付け合いを察して詩音が告げると、バンダナの男は小さく鼻で笑って応じる。
「はっ、こりゃ手厳しい。だが、俺達に気付いてたなら、なんでわざわざこんな場所に来たんだ?」
その言葉を合図に男達は詩音を取り囲む様に陣取る。
「可愛い見た目しといて、案外こう言う演出がお好みとか?」
バンダナの男はニタニタと口元を歪めながら近付いてくる。
「まさか。危険な事と面倒な事は嫌いだよ」
「そうかい。まあ、俺達からすりゃあそんなのどうでもいい。こんな上玉を好きに出来るんだからな」
そう言って男が短剣の切っ先でするりと詩音のワンピースの丈を持ち上げようとした。
次の瞬間────。
男の両脚から血が吹き出した。
詩音が男の手から短剣を奪い、その両脚を深々と斬り裂いたのだ。
一瞬の早技に男は何が起きたのか分からないと言った表情を浮かべていたが、両の脚が支える力を失って崩れる様に倒れたところで、漸く斬られた事に気づいたようだ。
「ぐああ!!! あ、脚、脚がああ!!」
苦痛の声が上がる。
それを無視して、詩音は短剣を軽く振って血振りをする。
と同時に、詩音の服が変化する。全身から流れ出た魔力が風の様に纏うワンピースを包み込み──次の瞬間、可憐な少女を思わせる服装は、何時もの純白のコート姿へと変容していた。
周りを包囲していた男達は、ここで漸く事態を理解したらしく目を見開きながらも各々武器を構えた。
「こ、このガキっ!」
右後方の男が声と共に長剣を振り上げる。
大振りに振り下ろされた剣を詩音は危なげ無く短剣で受け流すと、すれ違い様にその男の利き腕の腱を掻き斬る。
「づっああ!!」
血と悲鳴が迸る。
長剣使いは剣を取り落とし、左手で傷口を押さえながら苦痛の叫びを上げる。
それを見た残りの者達もそれぞれ罵倒やら叫び声やらを上げながら詩音に飛び掛かった。
一番近い曲刀使いが、弧を描く刀身を振るう。
詩音は長剣使いの服を掴むと、自身に引き寄せその身体を盾にした。迫る刀身を見て盾にされた長剣使いは咄嗟に左手で身体を守ろうとする。同時に曲刀使いの方も攻撃を中断しようとするが、勢いと筋力に任せて振るわれた曲刀がそう簡単に止まる筈もなく。
肉厚の刃は長剣使いの左腕を肘の辺りから切り飛ばした。
傷口から激しく血液が流出させながら、更なる苦痛の声を迸らせる長剣使い。その影から詩音は短剣を投げる。
痛みで喚く長剣使いに隠れる形で放たれた短剣は曲刀使いの左太股に突き刺さり、運動能力を奪う。
と同時に詩音は長剣使いの影から飛び出して膝を折る曲刀使いの手から得物を奪い取った。
すると背後から、更なる攻撃が。
ナイフを構えた男が突進してくる。
詩音は突き出される刺突を曲刀で難なく弾くと、曲刀を器用に逆手に持ち変えてナイフ使いの右足の甲に突き立てる。
そして、地面に釘打ちされた足を押さえて苦悶の叫びを上げるナイフ使いの顎を強烈な膝蹴りで打ち上げた。
それでナイフ使いは完全に意識を手放して、崩れる様に地面に伏す。
「冗談だろ……」
「こんなの聞いてねぇぞ……」
瞬く間に半数を無力化した詩音を見て、残る四人の内二人が呆然と呟いた。
さっきまでは自分達が狩る側だと思っていたのに、目の前の光景はそんな考えを粉々に打ち砕く。
「うおおおお!!!」
半ばヤケになったような雄叫びを上げて直剣を持った男が詩音に飛び掛かった。
力任せに剣を薙ぎ払うが、詩音は軽く後退してその一撃を回避する。
「くそがっ!」
叫び声と共に迫る二撃目。上段から垂直に振り下ろされる刃。
しかし、その追撃が詩音に届く事はなかった。
詩音は振り下ろされた刀身の側面を手の甲で軽く、それこそ羽虫を払うかの様な気軽さで弾き、軌道を逸らしたのだ。
そして、空振り、地面を叩いた刀身の根元をブーツの踵で踏みつけると高い悲鳴を上げて、鋼鉄製の直剣が根元から真っ二つにへし折れる。
「うそ、だろ………」
信じられないとばかりに直剣使いが呟いた直後、鈍い音が響いた。
直剣使いの側頭部に、詩音が蹴りを見舞ったのだ。
直剣使いの身体はその衝撃で大きく横によろけ、壁に激突して停止する。
「や、やってられるかっ!!」
不意に賊の一人がもう耐えられないと言う様に叫び、わき目も振らずに逃げ出した。
残る二人もそれに続くように逃亡する。
「悪いけど、逃がさないよ」
小さく呟くと詩音はスキル《氷雪の支配者》を発動して左手に三本の短剣を形成すると、逃げる三人に向けて投擲する。
刃が肉と筋を断つ音が三つ、同時に響く。
放られた短剣は男達の脚を深々と穿ち、逃走能力を剥奪した。
「さてと」
呻きと苦悶が飛び交う通路の真ん中で詩音は少々めんどくさそうに呟くと、地面に倒れ込むバンダナ男に歩み寄る。
二度スキルを発動して氷剣を造ると、その切っ先を青ざめた顔色のバンダナ男の鼻先に突き着ける。
「まま、待ってくれ! お、俺たちは頼まれただけで・・・」
震えながら男が詩音を見上げながら絞り出す様な声で言う。
「知ってるよ。あのイザベルとか言う女の差し金でしょ。本名かは知らないけど」
「え、あ、ご、ご存知でしたか……ハハ……」
「それで? あの女は今何処?」
「え、えと…。南区の宿、《月影》って言う所に」
男はすんなりとクライアントの居場所を提示した。
「《月影》……ここからならそんなに時間は掛からないな……」
「……あのぉ……」
呟く詩音に男はおずおずと訪ねる。
「ん、なに?」
「いやぁ……話たんで見逃しては貰えないかなぁ…なんて。はは……」
「ああ、無理」
その言葉と共に詩音は無慈悲に氷剣をバンダナ男へと振り下した。
「ひ、あ────」
短い悲鳴を残して男は白目をむいて意識を手放した。
ガクリと力を失ってその場に倒れ込む。
それで詩音は振り下ろす剣を止めた。
「ま、こんなもんか」
呟いて氷剣を消す。
「さて、少し急ぐかな」
そして、何事も無かったかの様に苦悶を零す男達の側を通り過ぎて路地を後にした。
◆
宿屋《月影》。とある一室。
血の様に髪をした女、イザベラは一人紅茶を楽しんでいた。
(今頃はあの女、あいつ等に遊ばれまくってる頃合いね)
先刻顔を合わせたあの少女が男達に弄ばれ、泣き喚きながら汚されていく姿を想像してニタリと口許を歪めてカップをテーブルに置いた。
その時────
喉元に激痛が走った。
呼吸が止まり、全身が硬直する。
一瞬、背後から喉を刃物で貫かれたとイザヘルは思った。
だが、それは錯覚だ。
実際は喉を貫かれたどころか、血の一滴も流れていない。
如何に鮮明に痛みを感じ、息苦しさに身体を強張らせようとも、刺されたと言う事実が無い以上はそれらは錯覚である。
───何? 何なのっ!?
凍りついた様に視線すら動かせないまま、イザヘルは自身の身に何が起きたかを確かめようとする。
瞬間。
背後、それも極近距離から声がした。
「動くな。音一つ立てる事も許さない。従わないなら殺す」
それは子供の声の様に聞こえた。
しかし、気を抜けば卒倒しかねない程の重圧が込められている。
言葉通り、イザベルが僅かにでも喋れば、先の錯覚は現実のものとなるだろう。
しかし、声は聞こえたが一切気配が感じられない。
本来、これ程の至近距離ならば感じられる筈の体温も、呼吸音も、匂いも、何一つ感じられない。
聴覚以外の全ての感覚器官が、背後には誰も居ないと告げている。
まるで、実体の無い何かが話し掛けて来ているかの様。
「あんた、最近まで別の街で活動していた盗賊だろ。一員の一人に取り入ってその一党を誘導し、雇った傭兵達に襲わせるって手口で何人もの冒険者を殺害、金品装備を強奪。
組合から手配されていたね」
その言葉は質問では無く確信を持ったものだった。
それを察すると同時に、イザベルはこの声に聞き覚えがある事に気付いた。
ほんの数刻前に顔を合わしたばかりの少女、ユキの声に間違いない。
「今回の標的はカイン達だったみたいだけど、諦めた方がいい」
一言言葉を投げ掛けられる度に、全身に鳥肌が立ち、脂汗が滝の様に滲み出る。
殺意も殺気も何も感じない。ただ、今にも発狂しかねない程の恐怖だけがイザベルの全身を包み込む。
「二度とカインや他の妖精達に近付くな。そうすれば殺しはしない。だけどもし、もう一度僕達の前に現れたら……………。どうなるか分かるよね?」
イザベルの脳裏に自分が死ぬ光景が過る。
これは脅しでも無ければ警告でも無い。絶対的強者からの《命令》である。
「あんたを殺す事なんて、何時でも出来る。その事を肝に銘じておく様に」
その言葉の直後にカランと言う音が背後で鳴り、同時に喉元を貫く痛みも、全身を押さえつける重圧も、綺麗さっぱり消え失せた。
イザベルが恐る恐る、震えながら背後を振り替えるとそこには誰も居なかった。
ドアにも窓にも、しっかりと鍵が掛かっており何者かが侵入した形跡は無い。
だが、床に視線を向けると、そこには一本の派手な装飾が施された短剣が転がっていた。
刀身を血で濡らしたそれは、間違い無くイザベル自身が雇った傭兵の一人が所持していた物だ。
暫くの間、呆然とその短剣を見詰めた後、イザベルは急いで荷物を纏め始めた。
◆
「すまんシオン。店が混んでて遅くなった」
両手に果実水らしき液体が入ったグラスを持ったカインがベンチに戻って来た時、詩音は再び白いワンピースに身を包み、何食わぬ顔で其処に居た。
「平気だよ。ありがとう」
礼を言って、差し出されたグラスを受け取るとカインが口を開く。
「これ飲んだらまたぶらつくか」
「そうだね」
カインの提案に頷いて詩音はグラスの中身を煽る。
「あ、これ美味しい」
「だろ。大分前にこの辺りに来た時に見つけたんだ」
「へぇー。それは何、彼女さんと?」
「違えよ。ただのダチだ」
そんな他愛無い会話をしながら果実水を飲み干すと、二人は再宛も無く並んで街を歩き始めた。
◆
二人がホームに帰って来た頃には、日も大分傾き、空は朱色に染まっていた。
他の妖精達はまだ各々の用事から帰っていない様で、ホームにはカインと詩音の二人しか居らず、並んでソファーに腰掛けながら、今日の事を振り返って談笑する。
「今日はありがとなシオン。面倒事を引き受けて貰った上に俺の我が儘にまで付き合ってくれて」
「ううん。僕も結構楽しかったから」
渡された謝礼に詩音は笑顔で応じる。
「そう言って貰えると助かる。あ、報酬の方はちゃんと知り合いに話付けといたから安心していいぜ」
そう言ってカインは一息吐く。
そして、ちらりと隣の詩音を盗み見る。
本人ももう慣れたのか、はたまた後回しにしているだけなのか、詩音は未だに着替える事無くワンピース姿のままだ。
一日一緒に居たおかげでカインも少しは慣れたが、こうして落ち着いてみると、どこぞの国の姫様だと言われても納得してしまう気品と可憐さが同在するその姿にやはりと言うか見惚れてしまう。
(本当に男なのか………)
既にそれなりの時間を共に過ごして来たが、未だにその辺りには納得いかない。
生憎と詩音の場合、声や容姿でそれを区別する事は不可能と言っていい。
そんな事を考えていると、
「ん、カイン」
不意に名前を呼ばれた。
かと思うと、詩音はカインの方へと身を寄せて来た。
「シ、オン………?」
名を呼び返すと、
「じっとして」
白銀の少年は静かにそう告げながら右手をカインの脚の上に置く。
「っ………!」
右手で体を支えながら蒼い瞳を正対させる。
するりと左手がカインの頬に添えられ、細い親指の腹がそっと唇に触れようとして―――――――――
「つッッ!?」
驚きのあまり、カインは跳ねる様に立ち上がった。
「わっ」
が、身体をカインの脚に置いた右手で支えていた詩音は、カインが立った拍子にバランスを崩し、後方へ背中から倒れ込んだ。
「シオンッ!」
咄嗟にカインは詩音へと手を伸ばした。
驚愕していながらも身体は、日頃の鍛錬の賜か倒れる詩音を助けようとする思考に従って動いてくれた。
倒れる詩音の後頭部に手を回す。
が、動けたのはそこまでで、身体を支え事まではできずにカインは詩音諸共に倒れ込んだ。
倒れた所で下は柔らかなソファー。
怪我どころか大した痛みもあるまい。
故にカインのこれは、完全に反射による行動だった。
柔らかな音を立てて二人の身体がソファーに横たう。
カインは詩音に覆い被さる様な体勢。
対する詩音は、そんなカインを見上げる体勢。
傍から見れば、カインが詩音を押し倒した様にすら見える状況だ。
「わ、悪いシオンっ!」
前にも同じような事があったような、と思いながらカインは慌てて詩音の安否を確認する。
「あぁ、いや。こっちこそごめんね。口で言えば良かった」
そう謝罪しながら、詩音が再びカインの顔に手を伸ばした。
右手がそっと頬に触れ、親指の腹で優しくカインの唇の下を撫でる。
「唇、切れてるよ。今日はちょっと乾燥してるからかな」
まるで飴細工に振れる様な優しい手付きで、詩音は告げる。
「部屋に保湿用の唇用膏薬があるから取って来るね」
カインの唇を安じる言葉を紡ぐ。
だが、その言葉はカインには届いて居なかった。
「―――――――――」
思考が止まる。
互いの息が掛かりそうな程の近距離。
自身に押し倒される形になった詩音の姿に、カインは目が離せなくなっていた。
以前、フェルヴェーンの温泉でも同じような事故で同じような事になってしまった事があるが、あの時とはまた違う感覚がカインの中に湧き起こる。
それは、今の詩音があの時と違い女性らしい服に身を包んでいるせいか、それとも今日一日、偽物とはいえ恋人として普段とは違った形で一緒に過ごしたせいか。
意識せず、生唾が喉を下る。
「カイン?」
黙り込んだカインの様子を不審に思ったのか、詩音が小さく首を傾げる。
「えっと………本当にごめんね。急に触れて」
だが、カインにその呼び掛けに応える余裕はなかった。
熱病でも拗らせたかの様に体温が急激に上昇する。
そんなカインの姿を、怒っているとでも思ったのか、少し不安そうな表情で詩音は見返す。
その姿が、更にカインの理性を溶かす。
「え………カイン………?」
ゆっくりと詩音との距離を縮め、無意識にその鮮やかな唇に自身の唇を重ねようとして─────
「ただいまー」
聞き覚えのある声にカインと詩音は同時に広間の入り口の方を振り向いた。
そこには用事を終えて帰って来たらしいクレハ、シャルロット、エリックの三人の姿があった。
クレハ達は詩音とカインの姿を見て一緒凍りついた様に動きを止めた。端から見れば、カインが詩音を押し倒している様にしか見えない光景。彼彼女等が動揺するのも当然の事だろう。
たっぷり数秒間の沈黙を挟んでから、クレハが顔を真っ赤にして声を上げた。
「ご、ごめん! お邪魔しました!」
クレハが大慌てで逃げる様に立ち去るとシャルロットは何処か面白そうに、エリックは呆れた様子で口を開く。
「ふぅーん。二人ってそう言う関係だったんだ。いやぁ全然気付かなかったわ。失礼したわね」
「はぁ……カイン、仲が良いのは結構だが、シオンの為にももう少し場所を選べよ」
各々言葉を残すと、足早にクレハの後を追って広間から立ち去る。
「え、えぇ、ちょっと皆、誤解だよー……………って、聞こえてないな」
こんな状況だと言うのに、多少の狼狽を見せただけで後は至って普段通りに振る舞う詩音。
頭の片隅で彼らしいと言えばらしいな、などと思っていると、詩音が再び視線を此方に戻した。
「ごめんねカイン、勝手に触れて。その上皆に誤解まで………。君が怒るのは当然だ」
酷く申し訳無さそうに謝ってくる。
「あ、いや。別に、怒ってなんかねぇよ」
「え、そうなの? 不用意に触って、気持ち悪く無かった?」
「いやいやいや、気持ち悪いなんて、そんな」
慌てて頭を振り否定するカイン。
その様を見た詩音は、心底安心した様に微笑む。
「そっか。良かった………。あ、でも、皆の誤解は解かないと」
「え? あ、あぁ、そうか………………そうだよな」
カインはそう返してから詩音の上から身を退けた。
「皆ー、ちょっと話聞いて」
立ち上がり、そう告げながら詩音は三人を追って部屋を出る。
残されたカインは暫く茫然とその場に立ち尽くしてから、深いため息と共に呟いた。
───危なかった……………
もし、三人があのタイミングで帰って来なければカインはあのまま───。
「何やってんだよ、俺………」
自分に向けて呆れ果てたと言う様に呟いたその言葉は静寂を取り戻した部屋の中で溶ける様に消えて行った。。
■
後日。
誰もが眠る深夜。ユリウスから村を三つ程跨いだ小さな街。人気の無い裏道を女、イザベラは息を切らしながら必死に逃げていた。
その身に纏う一張羅の衣服は所々が切り裂かれており、身体にも複数の流血が確認できる。
痛む身体に鞭を打ち、必死に足を動かす。止まれば死ぬ、殺されると言い聞かせながら疲弊した肉体を無理矢理に行使する。
しかし、薄暗い路地の角を曲がった所で意思とは無関係に身体が限界を上げて停止する。
壁に背を預け、肩で大きく息をする。両足は最早痛み以外の感覚が無く、喉は呼吸する度に焼ける様な痛みが走る。
「──っく……そッ」
荒れる呼吸で悪態を着く。
───何だって言うのよ、何で……
内心で誰にでも無く叫びつつ、角から首を出して今自身が来た道を見やる。
人の姿は、無い。
一瞬の安堵がイザベラの胸の内に渡来した。
次の瞬間、
「やあ、よく逃げるねぇ」
「っ!」
背後、闇の中からイザベラの行く手を阻む様に若い女の声が投げ掛けられた。
振り替えるとそこには女が一人立っていた。
初めて姿を見せた追跡者。自身より一回り年下のその少女には見覚えがある。
隠れ蓑代わりと言えど冒険者をしているのなら知っていて当然。
組合ユリウス支部の受付で何時も笑顔を振り撒いているシャープな三角形の獣耳が特徴の猫魔族、レンレンだ。
しかし、健康的な小麦色の肌は身体の輪郭にピッタリと張り付く様な黒い服に隠されており、コケティッシュな両の瞳は何処か楽しそうに煌めいている。
「な、あんた、何で……」
言葉が詰まる。
疲労と驚愕で舌が回らない。
そんなイザベラを見ながら、レンレンはこの場の雰囲気には似つかわしくない陽気な声音で口を開いた。
「いやぁ、ただの盗賊紛いなら別に私が出る必要も無かったんだけどね。君、組合の下っぱと繋がって組合のお金に手付けてたんだって?」
「な、何でその事を……!?」
驚くイザベラにレンレンは太ももの鞘から無骨なナイフを引き抜きながら応える。
「シオン君、ああ君にはユキって名乗ったって言ってたかな。あの子が教えてくれてね。調べて見たらあらびっくりって訳。うちも色々あこぎに稼いでる部分あるからさ、お腹つつかれたくない訳よ」
ユキ。その名を聞いた瞬間、イザベラの脳裏に先日の記憶が蘇る。あの窒息しかねない恐怖と共に。
「まあ、反応見る限りだと、君そこまで深く知らないみたい様だね。良かった良かった。余計な尋問とか無しに殺すだけで済むから楽だ」
「な、こ、殺すって……。何でよ!? あの妖精達に関わらないなら殺さないって……」
「ん?……ああ、なるほどね。そう言えば、シオン君、君と何か約束したって言ってたなぁ。内容までは聞いてないけど。えっとね、確かにシオン君ね、「約束守る限りは僕は殺さない」って言ってたよ」
「じゃ、じゃあなんで!?」
「いや、何でって言われてもねぇ。君達がどんな約束を交わそうと、組合には関係ないんだよ。結構その辺厳しいからさ」
クスクスと可笑しげに笑いながら猫の少女は告げると、ナイフを片手にイザベラに歩み寄る。
「ひっ!」
イザベラは悲鳴を上げて後ずさるが、足元のゴミに足を取られて尻餅を着く。
「それじゃ、楽しいお喋りもこの辺で。………ばいばーい」
残酷な程に楽しげな笑みを浮かべ、レンレンはナイフを振り下ろした。
■
「よっ、と」
街の側の森の中にイザベラの死体を運び込んだレンレンは周囲に人の気配が無い事を確認すると、ぱちんと軽く指を鳴らした。
と、途端にイザベラの死体は真紅の炎に包まれ、一分と掛からずに骨まで灰と化した。
「これでよし。それにしても………」
人っ子一人居ない森の中、空に浮かぶ月を見上げながらレンレンは一人呟く。
───まさか彼が裏側の人間だったなんてなぁ。それに……
先日の詩音の事を思い出す。
何処でレンレンの素性を知ったのか、仕事終わりの帰り道、彼は突然レンレンの前に現れた。
普段見る彼とはあまりにも異なる雰囲気。まるで冷たく鋭利な氷の刃を思わせる気配。
──やば、思い出しただけで震えて来た……
底冷えする様な残酷で絶対的な敵意と害意の塊。
此方のあらゆる抵抗を真正面から叩き伏せる力の権化。
「クレハ達、あんな化け物、どうやって手懐けたんだ………?」
無音の森の中、この場に居ない妖精達に向けて、レンレンは静かに疑問を溢した。