38話 幕間
人々が目を覚まし始めるかという朝の時。
詩音はホームの裏庭の前で足を止めた。
普段のコート姿ではなく、簡素な白いジャージを纏っており髪を一束に結っている。
フェルヴェーンの里の時のように昏睡にでも陥っていない限りは、詩音はほぼ毎日この時間帯には何かしらやっている。
と言っても、特に何をするかの決めている訳では無く、その日その日で取り組む内容は変わる。
そして、今日は少し身体を動かしたい気分だったので走り込みを行っていた。
「んー………っと」
軽く身体を伸ばしてから、一度息を吐いてから両手両足と腰に着けた金属のウェイトを外す。
全身五ヶ所に着けた重りの合計重量は三十キロ。
これを着けた状態で街の外に出て、外壁沿いに凡そ四十キロの距離を走った詩音の額には少し汗が浮かんでいる。
そして、そんな詩音からかなり離れた位置でもうひとつの人影がホーム前というゴールを目指して走っていた。
黒いシャツとハーフパンツを身に付け、詩音と同じくパープルブラックの長髪を一束に結い束ねたクレハだった。
偶然いつもより早く目が覚めたらしく、詩音のランニングに同行したのだ。
しかしゴールに近付いて来るクレハは、見るからにへとへとだった。
それも同然だろう。
詩音の行うのはただのランニングではなく合計三十キロのウェイトを全身に着け、その上で四十キロの距離を休み無しで走るという物。
当然詩音は、「せめて重石は外したら?」と提案したのだが、「体力には自信がある」と言ってクレハはウェイトを外さなかった。
その結果クレハは、最初こそ余裕そうだったが約半分の距離を越えた辺りから、急激にペースを落とし始めた。
最終的に止まりこそしなかったが、それでも詩音はクレハに合わせてペースを大幅に落とす事になり、結果的に完走までに予定の倍以上の時間を有してしまった。
「はぁー、……はっ、はぁー、つい、たぁーっ」
大きく息を乱し、汗をポタポタと流しながらクレハはふらふらと裏庭の隅に座り込んだ。
詩音の本来のペースに追随こそ出来なかったが、それでもスタミナは大したものだ。
「お疲れさま」
数分掛けてクレハが呼吸をなんとか落ち着かせるのを待ってから、詩音は労いの言葉と共にタオルと塩水の入った小瓶を差し出した。
「あ、ありがとう」
礼を言って受け取ってからクレハは一度大きく息を吐く。
「はぁー、キッツ。詩音の言う通り重石外しとけば良かった」
「そう言いつつ半分くらいまでは僕と同じくらいの速さで走ってたじゃん。普通はそれすら無理なんだよ?」
「でもどうにかこうにかだよ。後半は殆ど歩いてるみたいなものだったし。シオン、君どんな体力してんの」
小瓶の中身を呷ってから訊ねるクレハの隣に詩音も腰を下ろす。
「そうだねぇ……単純な持久力で言えば僕とクレハでそこまで極端に差は無いと思うよ。違うのは呼吸と身体の動かし方だね。クレハはまだ最適な呼吸が出来て無いし、身体の各所に余計な力みや動きがある。だから必要以上に消耗するんだ」
「そうなの? それってどうすれば無くせるの?」
「うーん、鍛練あるのみかな。これがもう少しあからさまな無駄なら、色々口出しして矯正する事も出来るけど、クレハの場合は無駄や力みが他人が手を加えられ無いくらい小さなものなんだ。つまり動きの完成度が高いから、今以上のものに仕上げたいなら、クレハ自身が調整するしか無いってこと」
詩音の説明にクレハは「そっか……」と呟いてから、タオルと小瓶を長椅子の上に置いて再び大きく息を吐くと、次いで勢い良く立ち上がった。
「よーし、休憩終了。次の鍛練に移ろう」
「回復早っ!」
詩音の口から驚きの声が漏れる。
立ち上がったクレハは、万全ではなさそうたがそこまで無理をしている様子も無い。とんでもない回復速度だ。
驚く詩音を余所にクレハは身体の各所に着けたウェイトを外してから、ホームの勝手口のドアを開けて、そこに立て掛けてあった物を手に取る。
黒い革製の鞘に収まった一本の剣。
剣帯で腰に吊るしたそれをクレハは静かに抜き放つ。殆ど漆黒に近い透明感のある刀身は、漸く顔を出し始めた太陽の光を内部に取り込み、淡い金色に輝く。
洗練された美しさと厳辣なまでの鋭利さを内包した魔剣は、銘を《エリュクシード》。古い英雄譚に登場する宝剣の名らしい。
クレハはその感触を楽しむ様に軽く振る。
思い付きで始めたただの運動のつもりだったが、これは詩音もクレハに付き合って鍛錬をする流れの様だ。
詩音は「しょうがないなぁ」と内心でぼやきながら微笑みを浮かべると、指先で地面にアルファベットのSとIを合わせた様な形の模様とそれを取り巻く三重の円、そして幾つかの幾何学模様を描く。
それは《消音》の簡易魔術陣。
描いた陣に魔力を流し込む。
これで術式は力を発現させ、短い時間ではあるがこの十メートル四方の裏庭の中から発せられる音が周囲に漏れるのを防ぐ。
魔術起動の気配を確認してから詩音はゆっくりと立ち上がり、《STORAGE》を開いて己の愛刀を引き抜く。
現れた《雪姫》の柄を握り、ゆっくりと引き抜く。押し出される様な滑らかな動きで鞘を走り、抜き放たれた刀身はクレハの魔剣同様に僅かに透き通っており、恐ろしい程に鋭い刃は雪の様に白い。
水晶や氷の様に見えるが、脆そうな印象は微塵も感じない美しい刀を手に、詩音はクレハの正面に立った。
「それじゃあ、やろっか」
「うん!」
詩音の言葉に、心底楽しそうな返事と共にクレハが頷く。
そして、両者が各々の武器を構える。
クレハは黒い魔剣を大きく引き、腰を落として構える。対して、詩音は白い神刀の柄に両手を添えたまま、力無く切っ先を下げる。
それはクレハの物と比べると、おおよそ「構え」とは呼べない物だ。
だと言うのに、詩音の在り方には隙がない。
それも当然。
詩音には「構え」と言う物がないのだ。
武芸百般。
数多の武術を納め、どのような体勢からでも最善の技を繰り出す事が出来る詩音に、特定の型や構えは要らない。
寧ろそれらは邪魔でしかないのだ。
向き合う白と黒はまるで時が止まったかの様に静かに対峙する。互いの距離は凡そ四メートル。
この世界の単位で言えば四メル。
そして、静かな微風が一つ、吹き抜けた時。
「───」
「───」
無言の掛け声と共に、二つの影は同時に動いた。
初動は同時。
しかし、踏み込みの速さは詩音が上。
そして、銀の閃と黒の閃が交錯し、剣戟が始まる。
幾度も振るわれる剣線。
幾重にも重なる剣筋。
柔の刀と剛の剣が錯綜し、空中に二色の閃を描きながら火花を散らす。
神域の鋼同士がぶつかり合う音が響く。
これは今日までにも何度か繰り広げられた光景だ。
《雪姫》と《エリクシード》は最高位の位に座する白竜の鱗から造り出された武具である。
並の剣等は、刃を合わせただけで容易く両断してしまう為、戦闘はおろか武器を使った鍛練すらままならない。
よって、二人は時折こうして互いの愛剣愛刀を用いての模擬戦を行っているのだ。
「ハァアっ!」
気合いの声と共に、クレハが魔剣を振り下ろした。
重く、鋭い一撃。
しかし詩音は、その一撃を白柄の刀で防ぎ切る。
否、訂正しよう。
詩音はクレハの一撃を防いだのでは無い。
刃と刃が合わさる直前に、手首を返して刀身に角度をつけ、激烈極まる斬撃を受け流したのだ。
クレハのエリクシードの刃は雪姫の刀身を滑り、直撃ならば鋼をも容易く断ち切るであろう衝撃の全てを逃がされた。
当然、剣を振るったクレハは衝撃を逃がされた事で体勢を崩し、その隙を突いて詩音の刀が振るわれる。
詩音の一撃は重さでは劣るが、剣速ならばクレハのそれを上回る。
元より刀とはそう言う物だ。クレハの使うのは相手を叩き切る《重の剣》。
対して詩音が使うのは相手を斬り裂く《瞬の刀》。
剣は力と重みで敵を「割断」するが、刀は速さと技で敵を「切断」する。
一見似ているようで、その実この二つは全く別の武器なのだ。
袈裟掻きで振り下ろされる一刀を、クレハは地面を蹴った後ろに飛び退く事でなんとか回避する。
「ふぅ……。相変わらず、シオンの剣って全然動きが読めないんだけど、どうなってるの?」
「あー……まあ、僕のは我流な上に邪道だからね。クレハの感覚に合わないのは当然だよ」
一度、そんなやり取りを交わしてから、直線を描く剣閃と弧を描く刀閃が交わり、再びの剣戟が始まる。
切っ先同士が重なり合い、刃と刃が弾けて火花を散らす。
そして、十数合いの打ち合いの音が響き渡った後、打って変わっての静寂が裏庭の空間に広がった。
二人の剣は停止していた。
クレハの魔剣は、振り下ろした形のまま何も無い空間で硬直している。対して詩音の神刀は、その鋭い鋒をクレハの首筋に向け、数センチの距離を隔てた状態で止まっていた。
「──またボクの負けかぁ」
「でも、最後のは正直危なかったよ」
刃では無く言葉を交わして、二人は同時に剣を引いた。
「うーん、やっぱり剣速じゃあ敵わないかぁ。どうしても手数で負けるんだよなあ」
「それも、まだ動きの節々に無駄があるせいだね。動作から動作ヘの繋ぎ目が固いから次の手が遅れる」
「その無駄を無くすには、やっぱり鍛練あるのみ?」
「そうだね。鍛練を重ね、経験を重ね、自分の身体を完全に制御下に置く。それが出来れば、自然と動きの無駄は削がれて動作一つ一つの速度も精度も上がる。あと、当たり前の事だけど自分の身体をどういう風に使えばいいかってのを考えながら工夫するのも大事だ」
雪姫をゆっくりと鞘に納めながら、詩音はクレハの問いに答える。
その動作を見てクレハは、自身の剣が詩音の刀に追い付かない理由を理解する。
仮にクレハが不意打ちを狙っていたとして、納刀という所作の最中は絶好の機会となる筈だ。
しかし、今詩音が行った一連の動作の中に、クレハはそう言った「隙」と呼べる物を見つけ出す事が出来なかった。
どのタイミングで斬り掛かっても、防がれる予感しかしない。
恐らくこれが詩音の言う「無駄が無い」という事なのだろう。
だから、クレハは詩音に追い付けない。
初動は勿論、次の動作に移る繋ぎ手の動きも遅れる。
自律能力の高さが違い過ぎるのだ。
「鍛練と工夫、か」
眼前の人物との差を再認識して、呟く。
そして、「よしっ」と何かを決心した様な台詞の後に、詩音に向かって言った。
「シオン、もう一戦お願い」
「ハイハイ」
その台詞は分かっていたとばかりに返事をして、詩音は雪姫の柄に右手を添える。
「あ、待って。今度はこれじゃ無くて、木剣でやって欲しいんだ」
「木剣で?」
「ちょっと試したい事があるんだ」
「うん、まあいいけど……」
詩音が申し出を承諾するとクレハは「ありがとう」と、言って庭の片隅に建てられた納屋に向かう。
納屋の中には、草刈り用の鎌等の日用品と共に、何本かの木剣が収納されていた。クレハがその中から木剣を見繕っている間に、詩音は《STORAGE》から木刀を一本引き抜く。
何の変哲もない樫製の木刀の寸法は、おおよそ雪姫と同じ。
雪姫よりも幾分か軽いそれを握ったのとほぼ同時に、クレハが詩音の元に戻ってきた。
「……なるほどね」
戻って来たクレハの有り様を見て詩音が小さく呟くと、
「それじゃ、二戦目行こっか」
薄く、笑みを浮かべ、クレハは剣を構えた。
◆
「はぁー。負けた負けたぁー」
裏庭の長椅子に座り込みながら、クレハが悔しそうに口走る。
今日の模擬戦はクレハの三勝七敗。今までと変わらない結果に終わった。
だが、クレハの身体に殴打の痕は無い。
詩音は、クレハに一度も攻撃を当てる事無く、寸止めで勝負を決し続けたのだ。
全力で叩きに行っていたクレハと違い、詩音にはまだそうするだけの余裕があった。
「今日は行けると思ったんだけどなぁー」
「でも、しっかり三回取られた。やっぱりクレハは強いね」
「って言っても、シオン全然本気じゃ無かったじゃん」
「そんな事無いさ」
クレハの隣に腰掛け、詩音は小さく笑みを浮かべて言った。
「加減された上に負け越しかぁ」と呟くクレハに、詩音は《STORAGE》から取り出した新しいタオルを渡す。
「でもクレハは、前回負けた原因を次にはちゃんと克服したり補ったりしてるでしょ? それが出来てるから三本取ってる訳だし。だったら例えどんなに奴が相手でも勝てるさ」
詩音が言うと「本当の意味での勝ちにはまだまだ遠そうだけどね……」と呟きながらクレハはタオルを受け取って、頭から被る。
すると、直ぐ側の勝手口が開いて、そこから青い髪をした水妖精のアリスが顔を出した。
「あれ、今日はクレハも一緒だったんだ」
「あ、おはようアリス」
「おはよう」
二人が挨拶すると、アリスも笑顔で「おはよう」と返す。
「お疲れ様。朝の鍛練はお終い?」
「うん。今さっき終わった所だよ」
「そう。なら、そろそろ朝ご飯だから二人共早くシャワー浴びて来てね」
二人して返事を返すと、アリスはホームの中に引っ込んで言った。
「───戻ろっか」
一息吐いてから詩音がそう言って立ち上がると、クレハが声を掛けた。
「ねぇシオン。これからもさ、時々シオンの鍛練に着いて行ってもいい?」
「ん、勿論良いよ」
少し遠慮がちに聞かれたそれに、詩音は直ぐに答えた。
「やった。それじゃ、またよろしくね」
クレハは笑みと共に嬉しそうに声を上げ、詩音に手を差し出した。
詩音も「よろしく」と言ってその手を取りながら、クレハの訓練メニューの構築に思考を走らせた。




