37話 希望を殺した日
「────、──」
思い出すのは、何でもない日常の一枠。
おおよそ普通とはかけ離れた生活の合間に点在する、なんて事ない光景。
自分を人間にしてくれた人。名前をくれた人との思い出。
怙暦に刻まれていた痣が、崩れる様に消えて行く。
残された身体は、力無く膝を折って座り込む。
「────ごめんな………」
胸に深々とナイフを突き立ったまま、怙暦は詩音を見据えて謝罪する。
「辛い役目を………任せちまって」
「──何が、あったの?」
絞り出したその質問に、怙暦は小さく頭を振る。
「私自身、何が何やら………気付いたら後ろに居て………気付いたらこの様さ……。だが、まあ………何も分からなくて、返って、よかったのかもな………」
「どうして?」
訪ねると怙暦は小さく笑って答えた。
「だって、何か少しでも……分かってたら。お前はそいつを探し出して……殺そうとするだろう」
「───」
その返答に詩音は押し黙る。
怙暦の指摘が正しかったからだ。
「復讐だの仇討ちだのは時間の無駄使いだ……。」
詩音は何も言い返しせず、数秒黙り込み、そして静かに問い掛けた。
「───もう……駄目なの?」
「ああ……」
小さく頷く。
聞かなくても分かっている。何せその刃物を突き立てのは他でもない詩音自身なのだから。
心臓を穿ったそれは、紛れもない致命傷だった。
「なあ……詩音」
「何?」
「ありがとな」
唐突な礼の言葉に詩音は「何が?」と問い掛けた。
「少し、らしくない事を言うけどね」
そう言って怙暦は、一度紫煙を吐き出す。
「お前と一緒に居た時間は……存外、悪くなかった。………随分長い事、一人でイカれた仕事をしてたからな。まあ、あれだね………。家族、ってのと一緒に居る様な感じでさ」
「そっか……。僕も……うん。家族と……母親と一緒に過ごすってのは、悪くなかった。一人じゃないっていうのは、嬉しかった」
そう言って、詩音が歩み寄ると、怙暦の右手がそっと頬に添えた。
「ふふ………。そうか………」
言葉が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「今、分かったよ………私はきっと……お前と出会う為に生まれて来たんだ………」
「………………」
その一言を聞いた途端に、詩音の蒼い大きな瞳からポロポロと涙が零れ出した。
「はは………お前の泣き顔なんて……初めて見たよ……」
「……悔しいなぁ。……あんたにだけは……泣いてる所……見られ、たく……」
嗚咽混じりにそう言う詩音に、怙暦は心底愛おしい気な眼を向けて言った。
「全く……本当に、可愛い奴だ……」
何時の間にか、怙暦の頬も二筋の涙に濡れていた。
「本当はもっと、お前の側で……お前を見ていたかった…………」
「こ、よみ……」
普段の彼らしからぬ、年相応の表情と声音で眼前の、今にも散ってしまいそうな命の名前を呼ぶ。
「詩音……そんな顔……するな……。人殺しにとって……人の死は、日常の一部……だろう? 何時もの様に、割りきって……受け流せばいい……」
激しく、詩音は頭を振る。美しい白銀の髪が揺れ、涙は止めどなく頬を伝う。
「無理だよ……そんなの……。あんたは僕を人間にしてくれた。怙暦さえ居れば、他はどうだって良かったんだ」
そうだ。
この人が、今の詩音にとっての全てだった。
怙暦と出逢ったあの日。
ただの殺人機だった無名の子供は死に、詩音という人間が生まれた。
そして、きっと。
今日、怙暦と共に、あの日生まれた詩音は死ぬのだろう。
「そうか……お前は、そう思ってくれるのか………。ならもう……十分だ。詩音……お前は生きろ……。生きて、人を見て、世界を見て……友達を見つけて、側に居たいと思える人を見つけて……幸せになれ………お前には、その権利がある………」
「そんな権利、僕にはないよ」
胸が熱い。
心が燃えている様だ。
それは、最愛の人を殺したが故の動揺だ。
だが決して、後悔や罪悪感では無い。
これは、喪失感、焦燥感。
そして、理性では決して受け容れられない、受け容れたくない、高揚感。
今。
この人間の命に刃を突き立てた今、詩音の身体と心は確かな熱を感じている。
それはきっと、《人を殺す為だけの存在》という本質の部分が、唯一の人でさえ殺せたという事実に歓喜しているが故の熱。
だから、詩音には資格が無い。
他者の命を奪って何も感じず。
母の命を奪って 《悦んでいる》詩音が、幸福を得る事はあってはならない。
「ふふっ」
小さく、怙暦が笑う。
「あるさ……。お前は幸せになっていい。私が保証する…………。だから、生きろ。………大丈夫。お前なら……いつか見つけられるよ……。……私が居なくても……やって行けるさ……。お前なら……霧咲詩音なら……私の子なら……」
短い吐息と共に、怙暦の言葉はそこで止まった。
ぽとん、と短くなった煙草が床に落ちる。
そして、まるで眠りに落ちるかのように霧咲怙暦は、その瞼を閉じた。
最後に、詩音の意識に直接、声が届いたような気がした。
ありがとうな……詩音。
ゆっくりと、動かなくなった怙暦の身体を抱えて、詩音は天を仰ぐ。
―――――次に目を覚ました時、僕は貴女を探そうとするだろう。
今日の出来事が、夢であった事を願いながら。
けれど思い留まろう。
貴女を殺した事実から逃げたく無いから。
貴女が遺してくれたモノを、夢にしたくはないから。
貴女を喪っても、明日は必ずやって来る。
何も変わらずに、何も変えてくれずに。
何時もの様に明日は来る。
だから僕は貴女の死を抱えて、その明日を生きるとしよう。
さよなら、怙暦。
そして――――――
「ありがとう、母さん」
もう、声を堪える事は出来なかった。
いつの間にか、空は完全な闇に包まれていた。
月の光すらない深い闇色の世界で詩音は一人、唯一の家族の前で泣いていた。
◆
夢だ。
時折見る、昔の夢だ。
あの日詩音は、ただ一人の家族を失った。自分の手で、殺した。
酷く、悲しかったのを覚えている。
結局、あの日見た黒い影の正体も、怙暦が何をされたのかも、分からないままだ。
何も分からないまま、ただ自らの手で母親を殺したという事実のみが残った。
所詮、自分は殺す事しか出来ない機械。
そんな物が貪欲にも家族を得ようとした結果がこれだ。
殺す事しか出来ない機械は、その機能に忠実に唯一の存在を殺した。
他の誰かにとっての特別を殺すのと、同じ様に。
他の誰かにとっての唯一を殺すのと、同じ様に。
もしかするとこれから先も、詩音は何かを得る度にその何かを自分の手で殺して行く事になるのかも知れない。
だったらもう、何も持たない様に、背負わない様にしよう。
目を瞑り、耳を閉ざして、一人で居よう。
冷たい自分だけの世界で、一人で生きて行こう。
───ああ、うん。きっとそれでいい。それが正しい。僕にはそれがふさわしい。
そう本心から思う。
けれど。
だと言うのに。
言い知れない切なさが胸を撫でる。
言い知れない虚無感に身体が疼く。
これは、後悔? 嫌悪? 罪悪感?
いいや。
そのどれとも違う。
この切なさを、疼きを表すとすれば、それは………
───寂しい
分かっている。
そんな事を言う権利など、自分にはない。
だが、それでも、やっぱり────
◆
「ん……」
じんわりと白い光が視界に広がり、意識が覚醒する。
詩音が瞼を上げると、そこは見馴れた妖精達のホームの広間だった。
若干ぼやける視界を瞬きで鮮明にしながら、ゆっくりと少し冷えた身体を起こす。
妖精達の声が聞こえる。どうやら皆帰って来ているようだ。
「いいのかな……………」
妖精達の事を思い浮かべながら、一人呟く。
最初は案内代わり、今は特に理由無くなんとなく一緒に居る。
もしかしたら、霧崎詩音は根底では彼女等さえ、殺す対象として見ているのではないか。
もしかしたら、他人とは少し違う、より近い彼等の事を自身の本質の証明の為に《殺したい》と思っているのでは無いか。
もし、そうであるならば。
霧崎詩音は、此処に居てはいけない。
思考が頭の中を走り回る。
自分の根底部分が解らない。
自分の取るべき行動が解らない。
思考が回る。
廻り続ける。
不意に、近付いてくる幾つかの足音にがあった。
視線を音のする方に向けると、商業スペースに通じる扉の方から妖精達が揃って歩いて来た。
「あ、シオン。起きたんだ。おはよう」
詩音の姿を見るなりクレハが何時もの元気な声でそう言って、他の妖精達も口々に「おはよう」と言ってくる。
笑顔を浮かべる妖精達を見るうちに、さっきまでの思考は淡雪が溶けるように消えて行った。
そして、その言葉が自然と口から出た。
「───お帰り。皆」




