36話 残ってしまった者
銃の射線から飛び退いて、詩音は怙暦に向かって叫ぶ。
「怙暦、なんで!?」
疑問をぶつけるが、怙暦は苦痛に満ちた表情と共に銃の引き金を引く。
立て続けに響く銃声。
だが、その狙いは平時の怙暦に比べてあまりにも雑だ。
詩音は銃口の向きからその弾道を見切り、瞬時に射線から退く。
弾が撃ち出された時には、既に詩音はそれを回避しており、外れた弾頭が地面を抉る。
そして、一瞬の隙を突いて、詩音は右手に握るナイフを投げた。
投擲された鈍色の刃は、怙暦が握る《コルト・ディフェンダー》にのスライドに命中し、手から弾かれてナイフと共に地面へ転がる。
それと同時に、詩音は足元の小石を掴み取り怙暦の顔目掛けて投げ着けた。
小型ながらも硬質なそれを怙暦は身体を傾けて回避する。
と、それに合わせて詩音は回り込む様に間合いを詰めると、がら空きの後頭部に向かって蹴りを放つ。
今の怙暦は明らかに異常だ。その原因は十中八九、先程逃した黒い影にある。
だが、その異常を正す方法が分からない。
故に詩音は一度怙暦の意識を刈り取ろうと考えた。 それは現状では最善の判断だった。
しかし────
放った蹴りを怙暦の裏拳が迎え打つ。
脚と拳がぶつかり、必然的に体重も筋力も劣る詩音の方が弾かれる。
視線を外す事無く、地面に脚が着くと同時に体勢を立て直す。
武器を無くし、両の手を開けた怙暦は徒手空拳のまま対峙する。
「怙暦……」
名前を呼ぶ声が、自分でも情けなく思える程に弱々しかった。
そんな詩音に、怙暦は暗く、生気の無い表情のまま対峙し、
「詩音…………逃げろ」
そう、一言告げてから地面を蹴った。
距離が詰まる
一足で詩音を間合いに捉えた怙暦は、負傷しているにも関わらず万全時と何ら変わらない速さで詩音に蹴りを見舞った。
全身の捻りが入った回し蹴りが顔目掛けて迫る。
身体を沈め、強烈無比な一撃を回避した詩音だが、直後に怙暦の拳が腹部へとめり込んだ。
半身から足と同時に繰り出された拳はとある武術において《追い突き》の名前で呼ばれる打拳。
その武術とは、琉球発祥《空手》。
己の五体を武器として、相手の肉体を破壊する武芸である。
隙の大きい蹴り技から追い突きに繋げるまでの所作はこの上無く滑らかで、大技を回避した事で生まれた詩音の極僅かな油断を的確に突いて見せた。
「ッ──はっ──!!」
鈍痛が走り、酸素が否応なしに吐き出される。
更にそこから肘を使った打撃《猿臂》、手甲による《裏拳打ち》、そして《前蹴り》を連続で叩き込まれ、詩音は壁に背中を強く打ち着けた。
正気を失い、銃の扱いも覚束なかったと言うのに、技のキレは僅かも鈍らない。
これ程の技量の持ち主を世間では《達人》と呼ぶのだろう。
加減無く、容赦無く。
競技としての空手では無く。
人を殺す、武術としての《空手》を振るいながらも、怙暦の表情に変化は無い。
ただ、先の一言。
「逃げろ」の言葉。
それが、この戦闘行為が怙暦の意思に反する物だと言う事を証明していた。
────だったら………
再び、拳が走る。
《正拳下突き》、《鉄槌打ち》、《鉤打ち》、《腕刀打ち》、《肘当て》────
最小の隙で、最大の威力の技を、最速で繋ぎ。
繰り出される連撃は見事と言う他にない。
だが、
「だったら───」
「…………」
詩音はその全てを捌いて見せた。
最後に振り下ろされた《鉄槌》を受け流し、怙暦の腹部に蹴りを見舞った。
流石と言うか、カウンターで放たれた蹴りを怙暦は左腕で受けダメージを押さえるが、衝撃でよろけて一歩後退さる。
「殺される訳には………いかない」
顔を上げ、真っ直ぐに、詩音は眼前の殺し屋を見据えた。
◆
───拳が走る。
怙暦は殴打の押収で呼吸を乱しながらも、止まる様子はない。
そして、怙暦が止まらないのであれば、詩音もまた止まる訳にはいかない。
地面を蹴り、間合いを潰して中段順突きを放つ。
───なんで、なんで逃げないんだよ
技を繰り出しながら、怙暦は胸の内で悲鳴を上げる様に叫ぶ。
外見上はただ無感情に、無感動に。
機械の様に相手を壊しに向かう。
だが、その内心は己の絶叫で破裂してしまいそうな程に酷く乱れていた。
一体何故、こうなったのか
一体自分、が何をされたのか。
怙暦自身も分からない。
あの黒い影は、一切の予兆なしに唐突に背後に現れ、触れる事無く怙暦の身体を切り刻んだ。
そして、気が付いた時には、この身体はもう自分の物では無くなっていた。
既に制御は殆ど効かない。自力では止められない。
きっとこの身体は、詩音を殺すまで止まらない。
突きの軌道を逸らして躱した詩音に、意識とは関係無く追撃の横蹴りを繰り出す。
詩音は強い。華奢な体躯、非力な身体を補うだけの技術がある。
幼い子供には過酷過ぎる修練を毎日の様に繰り返しているが故の技能がある。
それでも、真正面から殴り合うには詩音は余りにも小さ過ぎる。
蹴りを防御した詩音の身体が僅かに崩れ、怙暦の身体はその隙を目敏く捉えて掌底突きを繰り出す。
───もう、止めてくれ。これ以上お前を傷つけさせないでくれ。
殴っているのは怙暦の方だと言うのに、痛みが全身を走る。
心が壊れる。身体の苦痛を遥かに上回る痛みが、拳打の度に怙暦の心を蝕む。
───なぁ……頼むよ………。やめないのなら………逃げないのなら………いっその事………
開掌が、詩音の胸の中心を叩く。
歯を食いしばり、苦悶に耐える詩音の姿を見ながら、怙暦は心の底から懇願する。
「────殺してくれ」
◆
衝撃が胸の中心から抜ける。
───殺してくれ? 馬鹿言わないでよ………
身体の内側が焼ける様な痛みと息苦しさを堪え、詩音は追撃を捌きながら、呟く様なその言葉を呑み込む。
先程から防戦一方だ。繰り出される打撃を捌き、逸らし、防ぐばかりで、詩音は現状を打開出来ないでいる。
無論、怙暦は強い。
殺し屋としての技量も他とは頭一つ二つ飛び抜けている。
しかしそれでも、詩音であれば十二分に取り押さえる事が出来るだろう。
にも関わらず、こうまで一方的な流れに陥っている理由。
それは他でもない。
詩音自身にあった。
詩音が本気であれば、殺す気であるのなら、勝負は立ち所に決するだろう。
だが、今の詩音はその「殺す気になる」という事が出来なかった。
それは、怙暦に対する情や愛着による物では無い。
純然な詩音自身の脆弱さから来る不覚だった。
自分が負傷するのは別にどうでもいい。
だが、怙暦が傷つくのは駄目だ。
それは許容できない。
そうなる位なら、いっそ殺される方がまだマシだ。
そんな嫌悪と拒絶から来る考えが、詩音に全霊を以て戦う事を許さなかった。
しかし、その逃避が、弱さが、この場では命取りとなった。
「ッ!」
詩音の体勢が崩れる。
拳打を捌く最中、怙暦の放った脚払いが詩音の脚を絡め取ったのだ。
姿勢を乱した詩音の襟に怙暦の手が掛かり、そのまま地面に叩き着ける。
「ッ──!?」
背中から地面に叩きつけられ視界に火花が散る。しかし、それで終わりでは無かった。
怙暦の両腕が、詩音の両腕を抑え付け、抵抗を封じる。
そして、詩音の視界に、鈍色に光る刃が映る。
それは先程詩音が怙暦の銃撃を無力化する為に投擲したもの。
その柄を握るのは、時折優しく頭を撫でてくれた怙暦の手。
偶然か、或いは誘導されたのか。
怙暦が詩音を押さえ付けると同時に傍らに転がっていたそれ拾い上げたのだ。
────あぁ……死んだな………
首目掛けて振り下ろされる鈍色の刃を見ながら、まるで他人事の様に詩音は内心で呟く。
────まぁ、殺すよりは、マシか
全てを諦める様に、詩音は瞼を閉じた。
恐怖はなく、悲しみはなく、憎悪など尚存在せず。
ただ詩音の中にあったのは、もう少し怙暦と一緒に居たかったという思いのみ。
そして、その無念の思考をナイフが突き立つ鈍い音が断ち切った。
だが────
耳元で、地面に何かが刺さる音がして、詩音は瞼を上げた。
ナイフは首では無く、僅かに左に逸れた地面に突き立っていた。
怙暦は、必殺の機会を逃した。
そして、その原因は詩音の視界に既に映っていた。
詩音の腕を拘束していた筈の怙暦の右腕。
それが拘束を解き、左手の軌道を僅かに逸していた。
「怙暦―――――?」
名を呼ぶ。
怙暦は、泣いていた。
鋭い双眼に涙を浮かべ、詩音を見下ろしている。
と、次の瞬間、その身体がふらりと立ち上がる。
覚束無い足取りで一歩、二歩、と後退り詩音から離れていく。
「――――――――――」
だがそれは、正気に戻ったが故の行動では無い。
身体の蝕み、その主導権を奪った何かに抵抗し、怙暦は詩音を救ったのだ。
そして、今も必死に、詩音から己という危険を引き離そうとしている。
だが。
「――――――――――」
その抵抗は赦されない。
怙暦の全身を激痛が走る。
それは現状、この身体を支配するモノに歯向かった罰。
恐らくは、人一人の精神を壊す事など容易いであろう痛みが襲って来る。
だが、それでも───
「────」
怙暦は屈しなかった。
理解の埒外の何かに身体を蝕まれながらも、その心を明け渡そうとはしない。
そして、身体を餐まれながらも、真っ直ぐに向けて来るその視線が、詩音にはっきりと告げていた。
――――――生きろ
「…………」
漸く、詩音は自分がするべき事に気がついた。
いや、本当は最初から気付いていたんだ。
ただ、それを認めたくなかっただけ。
殺す。
元より詩音はそれ以外に価値を持っていないのだから。
痣はゆっくりとだが着実に怙暦の身体を呑み込んで行く。
きっと、あれに呑まれれば人ではなくなってしまうのだろう。
人ではない、この世界の物ではない化け物と成り果てる。
根拠も無く、直感がそう告げている。
「───」
先程まで全身に巣くっていた鈍痛が、今は全く気にならない。
身体の芯が凍えるほどに冷え、心臓は大きさが数倍になったかの様に激しく鼓動する。
―――――あぁ……………殺したくないな……………
それは詩音が生まれて初めて感じる『殺人への忌避』だった。
腕が震え、胃が痙攣する。
だが、だと言うのに、詩音の身体は何時も様に刃を構えた。
「 」
殺したくない。
殺す事しか出来ない筈のこの身体が、初めて殺す事を拒否している。
だが、それでも───
「……………………」
真っ直ぐに、前を見据えて詩音は歩を進める。
怙暦は自身の身体を抑え込み、迫る外敵に対して何の迎撃も許さない。
故に、詩音は着実に距離を詰めて行く。
真っ直ぐに、最早目を逸らす事も、顔を付すことも無く、愛しい者へと歩み寄る。
内臓が燃える様な感覚。
胃が過剰に分泌された胃酸によって焼かれている。
だがそれでも、呼吸は乱れず、思考は酷く澄んでいた。
先程まだ破裂せんばかりに荒ぶっていた心臓は、この上なく好調に、この身体を動かすのに最も適した拍動で血液を送り出す。
やはりそうか。
どれだけ心が拒絶しても、殺すとなれば、この身体は何の躊躇も無く、否、寧ろ己の本分とばかりに喜々として刃を振るう。
それが、殺人機。それが、霧咲詩音。
その根幹は揺らぐ事はない。
あと僅か。
この痣は怙暦の心臓を核としている。
先程から、怙暦の鼓動に合わせて拍動を繰り返しているのが、その証左だ。
そして、怙暦の身体の自由を奪ったのは十中八九、この痣だ。
ならば、事は明白。
この痣の機能を停止させてやればいい。
そして、その方法もまた……………
「―――――――――怙暦」
最後に、囁く様に名前を呼び。
詩音は、両手で握ったナイフを一直線に怙暦の心臓へと突き立てた。