35話 終わる平穏
徐々に風が暖かみを取り戻した出した五月の頃。
町から僅かに離れた森の中にぽつんと佇む小さな家の庭先で。
微風に肌を撫でられながら、詩音は沈んでいく夕日をぼうっと眺める。
「―――詩音」
背後から名を呼ばれる。
声の主はゆっくりとした歩調で歩みより、佇む詩音の隣で止まる。
「どうかしたか?」
「ううん……ただ静かだな、って思って」
そう返すと、枯暦は「そりゃ街からは少しばかり離れてるからな」と笑う。
「………」
「なんだ、珍しく感傷に浸って?」
「………ここ暫く、誰も殺していない」
「そういえば……そうだな」
「この家で二人で過ごして、一緒にいて……。普通の生活、みたいな事をして………。それで、気付いちゃったんだ。この平穏が、ずっと続けばなんて思ってる自分がいる」
それは誰に言うでもない独白の様な言葉。
「……なんて、烏滸がましいよね」
「詩音………」
ゆっくりと踵を返し、沈む夕日に背を向けて詩音は家へと歩き始めた。
「さ、もう暗くなるし、中へ戻ろ」
振り向かずに告げるその声が、枯暦には何処と無く悲し気に聞こえた。
そしてそれは、きっと、気の所為なんかではないのだろう。
■
別に、意識していた訳ではない。
ただ単にその日、詩音は何かをやる気力が湧かなかったので、ノルマだけを終えてから宛も無く町をフラついていた。
そしてふと、小さな花屋の前を通り掛かった時にその看板が目に入った。
淡いピンク色の花のイラストが描かれたそれには、しなやかな筆記体でこう書かれていた。
『フェト・デ・メール 大切な人に感謝を』
───母の日か
存在は当然知っている。
しかし、詩音には関係の無い物だった。
母など居ない。顔など知らない。居ない者に一体何の感謝をすればいいのか。
だから、視界に偶然入ったそれを今回も無視して通り過ぎようとした。
しかし、視線を外そうとした時、何故だかある人物の顔が脳裏に浮かんだ。
黒い髪を粗雑に短く切り揃えたあの人の顔が。
何故だか、そのまま花屋を後にするのが憚られ、詩音は少し屈んで並べられた花々に視線をやる。
母の日のプレゼント用と表記されている幾種かの花を眺めていると、
「プレゼントかしら、お嬢ちゃん」
と、唐突に声を掛けられて詩音は顔を上げた。
声のした方を見ると、店員らしき初老の女性がにこやかな笑みを浮かべて詩音を見ていた。
「あ、いや、その………」
何故だか無性に気恥ずかしくて、言葉が詰まる。
「お母さんに贈るのなら、メッセージカードも着けれるよ」
「あの、ちょ、ちょっと見てただけで、その……」
誤魔化すタイミングを見計らいながら、詩音が何とか返答すると、女性はクスッと優しげに笑い、ゆっくりと隣へと歩み寄ってきた。
「恥ずかしがる事は無いわ。日頃の感謝を伝えたいって気持ちはとっても素敵な物なのよ」
内心を、自分でも否定しようとしていた気持ちを見透かされ、詩音は再び言葉に詰まる。
少しの間、鮮やかに咲く花に視線を向けてから、詩音はおずおずと口を開く。
「あ、あの……」
「ん?」
「本当の母親って訳じゃ無い人にも、こういうのって送ってもいいんでしょうか………?」
何とか絞り出したその質問に女性は一層優しげに微笑みながら「勿論」と頷く。
「お嬢ちゃんが渡したいって思っているなら、何の問題もないわ。伝えたい感謝の言葉と一緒に贈って上げれば、きっとその人は心の底から喜んでくれるわよ」
「……………」
◆
ほんの少し商店街から離れた山の中の家に向かって歩く詩音の足取りは、どうも落ち着きがなかった。
普段より少し早足なったり、かと思えば遅くなったり。
慣れない事をしようとして、どうも気持ちが落ち着かない。
その手には、フィルムとリボンで包装された赤とピンクのカーネーションが握りており、包装の中には小さなカードも一緒に入っている。
この時間なら、買い物に出ると言っていた怙暦も帰っている筈だ。
なに、動揺する事は無い。何時もの様に家に入り、何気無く渡してしまえばいい。
そう自分に言い聞かせながら、詩音は歩を進める。
緩やかな坂道を登り切れば、家は直ぐそこだ。
───喜んでくれるかな………
我知らず胸の内でそんな事を呟く。
しかし、次の瞬間。詩音はある物を感じ取り、同時に全身に悪寒が走る。
──血の匂い!
地面を蹴り、全速力で坂をかけ上がる。
そして、視界に飛び込んできた光景に詩音は言葉を失った。
もう見慣れた小さな一軒家。
その玄関先に、血にまみれた怙暦が倒れている。
そしてその傍らには、何やら人の形をした影が立っていた。
───それは、影としか形容できない何かだ。
まるで焦点がズレた写真の様に、それの輪郭は常にボヤけ、正確な姿形を捉える事ができない。
ただ奈落の底の様に黒い影としか認識できない。
手に持った花束が床へと落ちる。
何が起きたのかが分からない。驚愕が正常な思考の邪魔をする。
にも関わらず、身体は半ば自動的に動いた。
常備するナイフを抜き、佇む影へと飛び掛かる。
朧に揺らぐ黒い人型の首筋に当たる部位に刃が吸い込まれる様に突き立ち、そのまま脈と気管を切り裂く様に振り払う。
しかし、一瞬確かな手応えを感じた直後、刃はまるで空を裂く様な頼り無い感触と共に影の喉元を通り過ぎた。
「ッ!!」
直後、黒い影はまるで世界に溶けるかの様にその存在を希薄化し、次の瞬間には欠片程の気配も残さずに消失した。
あまりにも不可解な現象だった。気配の隠蔽などでは無く、文字通り先程まで存在していた物が消えたのだ。
だが、今の詩音にその正体を気にする余裕はなかった
「怙暦っ」
膝を着き、床に転がる怙暦に呼び掛ける。
呼吸は、ある。
出血はそれなりに多いが、生きている。
それが分かっただけで、思考は冷静さを幾らか取り戻した。
だが─────
唐突に、タンッという乾いた炸裂音が響いた。
詩音は咄嗟に身を左にずらした。熱い何かが頬を掠りながら高速で飛び去る。
その何かが唐突に意識を取り戻した怙暦の右手に握られた小振りな自動拳銃 《コルト・ディフェンダー》から放たれた45ACP弾である事を認識し、詩音は再びの驚愕に見舞われる。
行動の意味が分からず狼狽していると、怙暦はゆらりと立ち上がり、再び詩音へ銃口を向けた。
その向こう、此方に向けられた怙暦の顔を詩音は見た。
額には黒い痣の様な物が浮かび、何かを必死に堪える様に苦悶の表情を浮かべている。
「怙暦…………」
「し、おん……っ」
苦しそうに、詩音の名前を呼ぶ。
「逃げ、ろ」
絞り出されたその声と共に二度目にたびめの銃声が響いた




