33話 夢
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夢を見た。
眠っている時は、大抵この昔の夢を視る。
後に霧咲詩音と呼ばれるようになる人間は本来、たった一度の、たった一人の暗殺の為だけに生産された使い捨ての道具となる予定だった。
名前などない。両親の顔など知らない。肉親など存在しない。
今はもう存在しない組織に、物心つく前から刷り込みのように殺す方法、騙す方法、溶け込む方法………。
殺しに必要なあらゆる技術、知識を学ばされ、計画達成後は速やかに自害する予定だった。
ただ一つ誤算があったとすればそれは、彼が類い稀なる殺しの才能を有していたという事だろう。
その才能が露見した時点で組織は彼の育成計画を大きく変更した。
《一度切りの使い捨ての殺人者》を作るのではなく、《何度も使える高性能の殺人機》を作る事にしたのだ。
組織は多額の資金を使い、殺人関連以外にもありとあらゆる方面の知識、技術、技能を学ばせた。
それ等は拷問とさえ言える苛辣極まりない物ばかりだったが、生憎と「殺す事」以外の機能を持っていなかった彼は、自身の持つ唯一のそれを研ぎ澄ます為に押し付けられる全てを修めて行った。
他にやりたい事も、望む物も、何も無かったが故に、何でもやった。
思えばこの時から、彼は人として壊れていたのかもしれない。
毎日のように鍛練と実戦を積み重ね、日に日に完成度を高めて行った彼だが、道具としての日常はある日のある出来事によって幕を引く事になった。
◆
それは唐突に。
「侵入者っ! 侵入者だ!!!」
誰かが叫ぶ。同時に警報機が作動してけたたましいアラームが鳴り出した。
通路や各部屋に銃器で武装した戦闘員、組織に飼われていた殺し屋達が押し寄せる。
(ふー……。流石に警備が優秀だねぇ。予測より対応が早い)
通路の影で一人の女が内心で呟いた。
東洋人とおぼしきその人物は、女性としてはなかなかの長身である。
暗闇に溶け込む無造作に切り揃えられた黒髪を乱暴に掻き上げるその下では、どこか猫科の動物を連想させる鋭い双眼が油断無く周囲を睨み付けている。
この女こそが騒ぎの元凶、侵入者。
(目的の物は手に入れたが……。さて、どう逃げたものか。この様子じゃあ、脱出経路にも人手が回っているだろうし。………兎に角、一度何処かに身を隠すとするか)
そう思い、一歩踏み出そうとした時。
女は首筋に鋭い戦慄が疾るのを感じた。
自分のすぐ後ろに誰かいる。
「───っ!!!」
声にならない絶叫と共に、女は閃光の如き速さで体を百八十度捻り、ホルスターから小型の拳銃を抜き放つ。
《コルト・ディフェンダー》
銃火器メーカーの老舗、コルトファイヤーアームズが開発した傑作拳銃《M1911》、通称の銃身を三インチまで切り詰め、取り回しと携帯性を向上させたカスタムモデルを手に振り返るその刹那の間、女の思考は驚愕に塗り潰されていた。
───いつの間に背後を取られた? 全方向に意識を向けていた。油断はなかった。
だと言うのに、肉薄されるまで全く気配を感じ取れなかった。
断続的に思考を回しながらも、染み付いた動作に沿って身体は動く。
背後の何者かに銃口を突き出すと同時に、引き金を絞ろうと人差し指に力を込める。
同時に、気配の主をその目で捉える。
(子供!?……女の子?)
外見から予想される年齢は六〜七歳。
肩の辺りまで伸ばされた純銀を鋳溶かしたかのような細く美しい髪。髪と同じ銀の長い睫毛に縁取られた、子猫を思わせる眼と、雄大な大海よりも尚深く爽やかな、最上級の宝石が如き蒼色の瞳。身に付ける古ぼけた布切れのような服の隙間から覗く肌は薄暗い通路に居てもなお白い。
その姿は人身売買や殺しを生業とする組織のアジトにはあまりにも不吊り合いな程可憐だった。
だが、そんな思考の中でも、女の指は引き金を絞る。
そうしなければ眼前の少女に殺される。
殺される前に殺さなければ自分は死ぬ、と本能で理解したのだ。
乾いた炸裂音と共に反動が肘に伝わり、銃口から四十五口径の弾頭が放たれる。
銃口と少女との距離は僅か二メートル。
使い慣れたこの銃で、外す筈がない。
女は弾頭が少女の胸を穿つ光景を幻視した。
───しかし。
放たれた弾頭。その向こう側で鈍い銀閃が走る。
次いで、オレンジ色の火花と、それを中心にして二つの光が左右に別れて壁と床にそれぞれぶつかった。
「なっ──!?」
先以上の驚愕が女の脳髄を貫く。
少女の右手には一本の無骨なナイフが握られている。
つまり、斬ったのだ。
致死の威力を内包した弾頭が自身の体に到達する前に、少女は右手のナイフを斬り上げて、真っ二つに斬り裂いた。
──嘘だろっ!?
女は内心で叫ぶ。
銃口の向きから弾道を予想したのだろう。
しかし、この至近距離でそれを成功させるなど尋常な反応速度ではない。
二度訪れた驚愕の中、半ば自動的に女は更に二回引き金を引いた。
だが少女は、予備動作すら認識出来ない俊敏な動きで、第二、第三の弾を回避し、そのままの速度で女に肉薄して右手のナイフを女の首筋に添えた。
だが、同時に女のディフェンダーの銃口も、少女の胸を捉えていた。
「侵入者っていうのは、あんたの事?」
その姿に似合った愛らしい声。
「──ああ。多分ね」
首筋の頸動脈に刃を突き付けられ、女は背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、口調と表情だけは平静を装う。
「そう言うあんたは? 暗殺組織って聞いてけど、随分可愛いらしい子が居たもんだね」
「こんな所に属してるんだからその類いの物に決まってるでしょ」
「────やっぱりか。まったく、噂通り碌でもない組織だな」
女は一瞬表情を歪ませ、次いで少女の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「──あんた、此処を出る気はないかい??」
それは決して、その場しのぎで口にした言葉ではなかった。
これはこの組織が子供を道具としているという噂を耳にした瞬間から女が決めていた質問。
そこに深い理由も思慮もない。
ただ女は、年端もいかない子供が人を殺す道具として扱われていると言う事実に耐え難い程の嫌悪感を抱いたのだ。
「どういう意味?」
「そのまんまさ。こんな腐った組織とはおさらばして、私と一緒に逃げないか?」
「────」
眼前の殺し屋は女の言葉に黙り込んだ。
そして、数秒の沈黙の後に口を開く。
「──何が目的?」
「ん?」
「命惜しさの交渉ってつもりはない、よね? なら、何が目的でそんな事を言うの?」
「目的なんて無いさ。私はただ、あんたみたいな子供が人殺しの道具として飼われているのが気に入らないだけだ」
「………………」
女の真意を探るかのように、真っ直ぐに眼を見据えて少女は沈黙する。
◆
「こっちで銃声がしたぞ!」
その言葉と共に突撃銃を装備した戦闘員が四名、通路に駆けつける。
「ん?」
そして、通路に倒れた女の姿を見て動きを止めた。
「────これが侵入者か?」
先頭のリーダーらしき男が発した言葉に、直ぐ後ろの男が応じる。
「さあな。だが、通信では侵入者は女だと言っていた」
「──俺が調べる。変な動きがあったら構わず撃て」
「「「了解」」」
リーダーの男は銃を構えたまま、床に伏す女に近付く。
女は身動き一つしない。
(死んでるのか?)
リーダーの男がそう思ったちょうどその時。
背後で何かが倒れる音がした。
重なって聞こえたそれに男は慌てて後ろを振り返る。
そして、驚愕で一瞬動きを止めた。
そこには、見慣れた人物。長い白銀の髪を垂らし、右手に血濡れのナイフを握り締めた彼の姿があった。
そして、その足許には警戒を言い渡していた三人の部下が、力無く横たわっている。
「き、貴様っ───!!」
硬直から脱し、即座に状況を理解した男は声と共に手に持った突撃銃の銃口を彼に向ける。
だが、その指が引き金を引くより早く、床に伏していた女がバネ仕掛けの人形の様な勢いで身を起こして、男の頸椎にナイフを深々と突き射した。
脳から連続する頸髄を断たれた男の身体から、まるで糸の切れた操り人形のように力が抜けて床に倒れた。
◆
彼の案内で敵に遭遇する事無く施設を脱出した女は、小高い崖まで逃げ延びた所で脚を止めた。
彼も、その姿を見て脚を止める。
そして、女の視線を追って視界を動かすと、随分離れた森の中に無機質なデザインの施設が視界に入る。
「案内助かったよ。まさかあんな抜け道があったなんてね」
「多分、僕以外誰も知らない道だと思う」
「そっか」
暫く、無言で夜闇の中に佇む施設を眺めていると、彼が唐突に、
「所でさ」
と、切り出してきた。
「その胸ポケットに隠してるのは何?」
女はその発言に僅かに目を見開き、次いで苦笑と共に答えた。
「参ったな、お見通しかい」
そう言いながら上着の胸元から取り出したのは小さく無機質な四角い機械。
何かのリモコンだと言う事は一目で分かった。
「──データを盗む片手間に」
彼の方を見る事無く、女は語る。
「建物の数ヶ所に爆薬を仕掛けておいた。これの操作一つで、その全てが作動する」
その言葉に、彼は視線をリモコンから遠くに見える建物へと移す。
「今回の仕事はデータを盗む事だけだ。爆薬は私の独断で仕掛けた。あんな腐った施設を捨ておくのはどうにも気分が悪くてね」
「………」
「だが、そんな場所でも、一応はお前の育った場所だ。流石に、目の前でドカンってのはと思ってな」
「ふぅ~ん」
そう相槌返しながら、彼は女の方へと歩み寄ると、何の躊躇いも無く、女の持つリモコンへと手を伸ばした。
「えい」
そして、細い二本の指で器用に手早く安全装置を解除し、何の躊躇いも無くそのスイッチを押した。
「なっ!」
女が驚愕の声を零した直後。
遠く離れた森の真ん中で、幾つかの巨大な炎が吹き上がり、周囲の木々をなぎ倒す。
数瞬遅れて、遠雷のような爆発音が届く。
炎と煙の間から、崩壊する施設の姿が見える。
恐らく爆発の規模と威力からして、施設内に居た者は残らず吹き飛んだ事だろう。
組織の幹部も、戦闘員も、誰も彼も。
「うわぁ~……何処で拾ったの?」
「ぇ?」
「今の爆炎、米軍が極秘で開発してる新型高性能爆薬でしょ?」
愕然とした表情で女は何でも無い事の様に語る彼を見つめる。
「お前……………」
「これは僕なりのけじめだよ」
無表情に、しかし真っ直ぐに崩れていく故郷を見つめながらそう言う彼に、女はそれ以上何も言えなかった。
暫くの間、彼と女は無言のまま燃え盛る炎を眺めていた。
「───さて」
沈黙を破ったのは女の声だった。
「お前はこれからどうする?」
「どうしようかな………」
鈴の音のように凛とした、それでいて年相応の幼さを兼ね備えた愛らしい声で問い返してから沈黙する。
女にはその様が、判断に迷っているというよりは、それほど真剣に考えていない様に見えた。
これからの人生、生きるという事その物にあまり意味や価値を見いだせていない。そう言った様子だった。
だから女は、ついこんな提案をしてしまった。
「あー…………迷っているなら、私と来るかい?」
「え──」
女の黒い瞳と彼の蒼い瞳が交錯する。
その言葉は彼にとっては予想外の物だった。つい今しがた殺そうとした人物から、手を差し伸べて来るなど、歩み寄って来るなど、彼にとってはあり得ない事態だった。
「勿論無理にとは言わないよ。初対面の奴にひょいひょい付いて行くのは抵抗あるだろうしな。望むなら里親だって紹介してやる。お前の見た目なら、引き取り手には事欠かないだろうさ」
自分でも唐突な話だと思ったのだろう。
ばつが悪そうに顔を背けてそう言いながら、ポケットから煙草を取り出して一本咥える。
「……………」
彼は答えなかった。
その沈黙を拒絶と受け取ったらしく、女は「すまん。変な事を言った。忘れてくれ」と言って背を向けた。
「街まで送ってやる。今日は適当な宿で休むといい。引き取り手に関しては後日」
女は早口気味にそう言って歩き出そうとする。
と、不意に女の服の袖を彼の小さく白い手が掴んだ。
振り替えると彼は、その蒼い瞳に僅かな不安の色を浮かべて女を見上げていた。
「あの……えと……こう言う時、なんて言ったらいいのか、分からなくて……。でも、なんだか、あなたの提案を嫌だとは思わなくて……その……」
先程まで不似合いな程に流暢に喋っていた癖に、彼は自分の感情に自分自身が戸惑っているかのように言葉を詰まらせる。
その姿に、女は一瞬表情を曇らせる。
この子供は今まで自身の感情に向き合った事などほとんどなかったのだろう。
言われるがままに学び、殺し、そうする事しか必要とされて来なかったのだろう。
女は振り替えると膝を着き、視線を眼前の子供に合わせた。そして、か細く今にも消えてしまいそうな儚さを纏ったその身体を優しく抱き締めた。
「え、……あの……」
戸惑いの声が彼の口から溢れる。
「そう言う時はね、素直に一緒に居たいって言えばいいんだよ。一人は嫌だって言えばいい。言っていいんだ」
幼子をあやすような優しさに満ちた声音でそう囁く。
すると、彼の腕がゆっくりと上がり、躊躇いながらもそっと女の身体を抱き返す。
「あ……僕は……、一緒に行きたい…………」
途切れに紡ぎ出されたその言葉が、彼の今までを雄弁に語る。
「そうか……」
女は小さく頷き、彼から離れると目線を合わせたまま優しく、しかし真剣な表情で問う。
「だけど、分かっているのかい? 私も殺し屋だよ。まあ、どこにも属さないフリーだけど。その私と来るって事は、今までと同じような事を続けるって事だぞ」
「彼処よりは幾らかマシだよ。それに──」
彼は今一度、炎の中に沈む故郷に眼を向けてポツリと呟く。
「今さら何食わぬ顔で普通の生活を送る自信がない」
「……………そうか───。なら、一緒においで。ちょうど助手の一人でも欲しいと思っていた。お前なら申し分ない」
女は立ち上がり、彼の頭を軽く撫でながら言った。
「私は霧咲 怙暦。お嬢ちゃんは?」
「………お嬢ちゃんじゃない。僕男だよ」
「ああ、そうか………んん?」
女、怙暦が目を丸くするのを見て、彼は小さくため息を吐いた。
「お、男………? その見た目で……………?」
「何もそんなに驚く事ないじゃん。人間の性別なんて、幼い頃は分かり難いものでしょ」
先程までの年相応の態度は何処へやら。
再び流暢に大人びた口調で言われ、怙暦は彼の身体を足許から頭の先まで観察する。
絹のように細く滑らかな白銀の髪、細く華奢な四肢。そして新雪のように白い肌。
幾ら幼子とはいえ、どれも男の物だとは思えない。
「い、いや………お前のはそんなレベルの話じゃ………」
怙暦は困惑したように呟いた後で、一度咳払いをする。
「それは悪かったな。それで、名前は?」
「………名乗れるような名前は無いよ。組織では基本番号で呼ばれてた。偽名仮名の類いは無数にある」
「そうか………だが、名前が無いのは色々と不便だな。かと言って番号で呼ぶのはなぁ……」
「なら、適当に呼びやすい名前を付けてよ」
「何? うーん、いきなり言われてもな……名付けってのは昔から苦手なんだが……」
「別に、何でも構わないよ」
「そうは言ってもなぁ」と怙暦は暫く考え込み、やがて一つの名前を口にした。
「……シ、オン……うん、詩音ってのはどうだい?」
「しおん?」
「ああ。日本の名前で悪いが、こっちとら生粋の日本人なもんでね。お前に似合っていると思うが、気に入らないか?」
「ううん。……しおん、シオン、か。……うん。悪くない。詩音………今日からそれが僕の名前……」
「そうか。なら、宜しくな詩音」
そう言って微笑みながら差し出された怙暦の手を詩音も小さく笑みを浮かべて取った。




