23話 海色
「シオン、海に行こうよ」
そんな唐突な言葉がクレハの口から飛び出したのは、ユリウスの街に来て一ヶ月程度が経過した火朝顔の月。元の世界では八月にあたる暦の頃だった。
「急にどうしたの?」
ホームで妖精達との雑談の合間に投げ掛けられた提案に詩音は小さく首を傾げる。
確かに、最近日中の平均気温は上がり、夏と言っても差し支えない時期。夏の恒例行事とも言える海水浴に赴く事に何ら不自然さは無い。
しかし、いささか唐突過ぎる発言に、詩音は疑問を抱かずにはいられなかった。
「昨日、組合からの直接依頼があったの」
アリスから語られた事の詳細は以下の通り。
金剛級の冒険者であるクレハ達妖精族一同は、通常の依頼に加えて組合からの直接依頼を受ける事があり(と言うか、直接依頼の方がメインの活動であり、通常の依頼は日雇いのアルバイトのようなもの)、昨日組合からその直接依頼があった。
依頼の内容は、ユリウスの街から南東約七十キルの位置に存在する《クリエルス海岸》に《水魔装甲大鰐》が出没しており、周囲の街や村、海水浴場に危害を加える可能性があるため、そうなる前に討伐して欲しい、というもの。
詩音は、ここ一ヶ月の依頼成功報酬の五割近くを費やして集めた書物から得た知識の中から、その魔物についての情報を引き出す。
《水魔装甲大鰐》は三対六本の脚を持つ巨大鰐の姿をしており、並の武具では突破不可能な強固な鱗を持つ魔物らしい。
組合が定めた魔物の討伐難易度を表す《エネミーランク》によるとランクはB+。紅玉級の冒険者が十数人がかりで運よく倒せるかどうか。確実に討伐するなら金剛級冒険者に依頼する必要があるレベルの魔物だ。
「それは随分な大物だね。でも、なんで君達に? クリエルス海岸近辺の街にも冒険者はいるだろうに」
「それが、あの辺りの街に滞在中の金剛級以上の冒険者で手の空いてる一党が居ないらしい」
エリックの補足に詩音は「なるほど」と納得の声をこぼす。
金剛級の冒険者は紅玉級や水晶級、石級ランクほど多くない。各所から同タイミングで複数の依頼が来れば、どうしても手の回らない依頼という物が出てくる。
今回妖精達に来た依頼もその類いだろう。
「そう言う訳で、ボク達クリエルス海岸に行く事になったんだけど、シオンも一緒にどう?」
「うん、依頼の手伝いなら別に構わないよ」
クレハの誘いに詩音が頷くと、
「まあ、依頼を手伝って欲しいってのもあるけど、討伐が終わったら折角だし海で泳ごうと思ってるの」
シャルロットがそう補足する。
「へぇ、良いんじゃない。最近暑くなってきたし」
「決まりだね。それじゃ、出発は明日だからシオンも準備しておいてね」
「りょーかい」
こうして詩音は唐突に妖精達と共に魔物討伐兼海水浴に赴く事になった。
◆
海縁に広がる森林。海風に乗って潮の香りが漂って来る森の中を詩音は風のように疾る。
凹凸だらけで安定感皆無の地面を蹴って、詩音は時速五十キロ以上の速度で並び立つ樹木の隙間を一切の減速無しで縫うように走り抜ける。
《竜帝憑依》は使っていない。
詩音は何のスキル、魔力の補助無しでそれだけの速さと機動力を発揮している。
極端とも言える前傾姿勢からなる独自の走法、地面の状態や形状を瞬時に把握し、最適なコースと踏み方を即座に導き出す思考力に、その思考に対応する身体能力と身体操作能力。
極限にまで鍛え上げられた其れ等を総動員する事によって可能となる常人の域を越えた芸当だ。
自動車にすら追いすがる程の速度で走り続ける詩音の背後を、巨大な何が追いかけて来る。
全長は十メートル余り。硬質な灰色の鱗に覆われた巨体で森の木々を薙ぎ倒しながら猛進する巨獣こそ、討伐対象たる《水魔装甲大鰐》。
最早鰐というよりは恐竜の類いにすら見えるそれは、二対の脚で地響きを轟かせながら詩音に匹敵する速度で破壊と共に走る。
爬虫類特有の瞳を持つ六つの眼はぴったりと詩音の背中に焦点を合わせ、捉えて離さない。
完全に詩音を獲物として認識している。その事実に詩音は内心でほくそ笑みながら、離れず詰められず。一定の距離を維持したまま目的の座標へと走り続ける。
開けた場所に出る。木々は途切れ、日光がぬかるんだ大地を照らす。
それは一時的なもの。ここは草木生い茂る森の中で唯一開けた区画。
同時に、詩音が目指していた場所でもある。
そこにはクレハの姿があった。
詩音の進行方向と逆、迫りくる装甲大鰐の方を向き、黒剣 《エリクシード》を手に仁王立ちしている。
「頼んだよ」
擦れ違う刹那、詩音はクレハに呟いた。
それに応える様にクレハは片頬に笑みを浮かべ、迫る魔物に剣を構えた。
巨体が迫る。
巨鰐は一切減速する気配が無い。
当然だ。
あの魔物にとって眼前のクレハなど道端の石ころにも等しい存在。
自身の進行を妨げる要因にはなり得ない矮小な物だ。
止まる理由がない。
故に、魔鰐は猛進する。獲物に追い付く為に進突する。
だが───
豪音が響き、水魔装甲大鰐の進行が急激に減衰する。
猛進は何の障害にも成り得ないと断じたクレハの手によって妨げられた。
クレハはエリクシードの腹を装甲大鰐の鼻先に当て、十メートル近く後退させられながらもその突撃を受け止めて見せたのだ。
そして、装甲大鰐の動きが止まった瞬間、それを合図に状況が動き始める。
唐突に、魔鰐の身体を幾つもの水塊が叩いた。
それは今まで茂みに身を潜めていたアリスが放った水属性の攻撃魔法。
高圧を伴った水の砲弾。それは魔鰐の身体に軽微なダメージを与えた直後、一瞬にして凍結した。
身体ごと凍結した氷が魔鰐の行動を阻害する。
そこへ、追い討ちが放たれた。
頭上から振り注ぐ幾つもの黒い矢。
それは装甲大鰐の身体に触れた瞬間に同色の重石を植え付け、更にその自由を奪って行く。
二重に全身を拘縛された魔鰐の動きが、目に見えて衰えた時、詩音は魔鰐へと駆け出し、それに合わせて周囲の茂みからそれぞれアリス、カイン、シャルロットも飛び出した。
四方を四人で囲むと、同時に魔鰐の脚目掛けて各々の獲物を振るった。
シャルロットは巨大な棍で殴りつけ、カインは無防備な関節を切り裂き、アリスは鱗の隙間を貫き、そして詩音は《STORAGE》から引き抜いた雪姫で鱗ごと脚を斬り飛ばした。
四肢の支え全てを失った装甲大鰐の身体が崩れる様に地面に伏す。
それと同時に、
「エリック!」
クレハが名を呼ぶ。
それに呼応する声と共に頭上の樹枝から群青の影が襲来する。
青衣を纏ったエリックの手には、その身の丈を越える程の巨大な斧槍が握られていた。
落下の勢いにエリック自身の膂力を乗せた剛撃が装甲大鰐の頭部を激打する。
その一撃は、頑丈な鱗を強引に叩き割り、衝撃をその最深部の脳へと押し込むに至った。
一瞬の痙攣を見せ、魔物はその身体を力無く地面に横たえさせた。
「終わったぁ」
シャルロットが気を抜くと共に溢した。
その時だった。
事切れたかと思われた巨大鰐が突然巨大な咆哮を上げた。。
直後、開かれた水魔装甲大鰐の大顎に魔力が収束する。
それは高圧の水の砲撃となって放たれた。
狙いなど無い闇雲の一撃。
しかし、不幸にもその水弾は後方から矢を射るシーナを捉えていた。
───避けられないっ!
シーナはそう思って、咄嗟に顔の前で両手を交差させて防御の体勢を取った。
だが、受ければ大ダメージは免れない。
全身を叩くであろう衝撃を覚悟するシーナ。
しかし、その攻撃がシーナに届く事はなかった。
シーナの視界に割り込む白い影が映る。
と、同時に魔力の発現を感知した。
直後、眼前に迫っていた高圧高質量の水弾が唐突に停止したかと思うと、泡が割れる様に弾け、次いで内包する膨大な水の全てが霧となって四散した。
シーナは、目の前で起きた出来事にぱちくりと瞬きをする。
が、数秒を掛けて理解した。
シーナの前に割り込んだ影、詩音は何らかの魔法或いはスキルを用いて迫る水弾を防いだのだ。
「やあああ!」
シーナが驚愕していると、鋭い気合いの声が響いた。
クレハの魔剣が黒い軌跡を描いて振るわれる。
上段からの斬り下ろしが水魔装甲大鰐の硬質な体皮を火花を散らしながら斬り裂く。
そして、畳み掛ける様に斬り開かれた傷口を狙ってカインが魔炎の槍を放つ。
爆発音と熱気が飛び散る。
強固な鱗に守られた魔物も、傷口から体内を焼かれては耐えられる筈も無く。
巨大な灰色の鰐は断末魔の叫びを上げて、地響きと共にその巨体を地面に伏せた。
◆
「助かったわ。ありがとうシオン」
腰の鞘に《雪姫》を納める詩音に、シーナがそう礼を言った。
「気にしないで。君が無事で良かった」
そう返してから詩音はシーナと共に《水魔装甲大鰐》の死体へと歩み寄る。
「えーと、こいつの素材は剥ぎ取るんだったよね」
「ああ。こいつの鱗や革は上質な防具の素材になる」
答えたのはエリック。
魔物の素材を扱う店の主として、勝ち得た素材の価値を正確に把握する。
「シオン君とクレハは休んでて。素材は私達で回収するから」
魔鰐に歩み寄る詩音にアリスがそう告げた。
「いや、大丈夫だよ。僕よりもクレハの方が休んでた方が良いんじゃない?。一番負担が大きかっただろうし」
「ボクは全然平気だよね。それにボクよりシオンの方が大変だったでしょ? ずっと森の中走ってたんだし」
詩音の否定をクレハもまた否定で返してくる。
埒の開かない話し合いが始まりそうな気配を察したのか、カインがそんな二人に向かって言った。
「二人共、大人しく休んでろよ。どっちも大変だった事に変わり無いだろう」
そう宥められ、詩音とクレハは押し付け合いを辞めた。
長時間の高速疾走と、直後にの巨大鰐との戦闘。
詩音は確かに疲労している。
そして、あの巨体を押さえ続けていたクレハもそれは同じだろう。
「──分かった。じゃあお言葉に甘えて休ませて貰うよ。行こ、クレハ」
「うん。じゃあ、皆お願いね」
それだけ告げてから詩音はクレハと共にすぐ側の木陰に腰を下ろした。
あの様子では、妖精達は是が非でも休息を取らせるだろう。詩音自身、クレハ自身が問題無いと主張しても、だ。
ならば、無意味なやり取りを行う必要は無い。素直に提案を呑んだ方がいいだろう。
それに、まだ動けると言っても消耗は消耗。回復させておいて損はない。
詩音は暫くの間、生い茂る葉を屋根にして妖精達の素材回収の様子を見守っていた。
◆
「終わったぁー」
シャルロットがそう口にしながらその場に座り込む。
十メートルを越える巨体から使える素材部分を剥ぎ取るのには多少手間と時間がかかった。
「お疲れ」
詩音は木陰から出て、妖精達に液体の入った氷の容器を配る。
《STORAGE》内に常に一定数ストックしてある詩音特製の果実水だ。
クレハとアリスは林檎。
シャルロットとエリックが葡萄。
カインがオレンジでシーナが蕃茄の物を取る。
妖精達は「ありがとう」と礼を言って《氷雪の支配者》によって作られた氷の容器を開封して中の果実水を呷った。
その間に、詩音は妖精達が剥ぎ取った素材と《水魔装甲大鰐》の死体に歩み寄り、手を翳す。
途端にそれらは青い光の粒子となって霧散し、《STORAGE》に収納される。
「便利だよなぁ、シオンのそれ」
その様子を見ていたカインの言葉に詩音も同意する。
何せ生きた物でなければ、そのサイズ、形状を問わず格納でき、更に《STORAGE》の内部では時間の概念が存在しないようで、死体や食料は腐らず、氷は溶けず、炎は消える事が無い。
(前の世界でも欲しかったな)
と詩音は内心で思いながら、新たに果実水を一本取り出して自分もその中身を一口、口に含んだ。