15話 白銀と風妖精
温泉施設を出た詩音は軽く伸びをしながらクレハ宅への道のりを歩いていた。
(いい温泉だったなぁ)
自分が原因で現在カインが大変な事になっている事など露知らず温泉の余韻に浸っていると、不意にキュン、と言う風鳴りが耳に入り歩みを止めた。
音のした方に目線を向けると、エイリスと闘った鍛練場と同じような塀に囲まれたスペースが目に入る。
詩音が使った鍛練場よりも遥かに縦に長く、塀に加えて目の細かい網が四方と天井を覆っている。
その中には妖精が一人、弓を手に立っている。
森を連想させるライトグリーンの外套を羽織った、淡い栗色の髪の少女、シーナ・ストラトスだ。
(弓の特訓か……)
シーナは腰に下げた矢筒から右手で新たに矢を引き抜き弓に据える。
その視線は、長方形の鍛練場の一番端、凡そ二百メートル離れた場所に横一列に吊り下げられている、直径五十センチ程の円形の的に向けられている。
標的から目線を外す事なく右手の矢を弓に番え、弦を絞る。
気を散らさないように静かにその姿を眺めていた詩音は、シーナの集中力に思わず関心しながらも、その動作に違和感を覚えた。
(あれ? ひょっとしてシーナって………)
直後、矢が射られた。
先程聞こえたのと同じ風鳴りをたてて飛翔する。
その矢の速度は、弓に何らかの仕掛けがあるのか、通常の二倍近いものであった。
的までの距離は二百メートル。これは常識的な弓の射程距離を上回る。
しかし、この速度であれば、この距離での狙撃も可能だろう。
だが、矢は外れた。
シーナが狙っていた的の縁を僅かに掠り、後方の土嚢に突き刺さった。
「はぁ………」
重い溜め息を吐きながら、シーナは弓を下ろす。
と、ここで詩音の存在に気付いたのか、エメラルドグリーンの瞳が向けられる。
「こんにちは」
挨拶すると、向こうも小さく会釈の仕草を見せた。
「何か用?」
色素の薄い唇が小さく開き、淡泊な口調で声が流れた。
「いや、ただ歩いてたら君の姿が目に入ったから」
「そう。………よりにもよって外した所を見られるなんて、ツイてないわ」
そう言いながら、新たな矢を弓に当てがう。
狙うは先と同じ的。
鋭い眼差しは確りと標的を捉え、殆ど無駄の無いフォームで弦を絞る。
意識は二百メートル先の的にのみ向けられている。そこに音や気配、外界からの干渉が入り込む余地は無い。
やはり素晴らしい集中力だ。
だが、それ故に、
(勿体ない………)
二射目が放たれる。
空気を貫き飛翔する矢は、やはり的を僅かに逸れた。
「ふぅ………」
射った後の体勢のまま、シーナは小さく息を吐き、
「やっぱりか………」
譫言のように呟いた。
直後、詩音の存在を思い出したのか、表情を曇らせた。
その反応から他者に聞かれたくない呟きだった事は容易に理解できた。
「惜しかったね」
そう言いながら、詩音は鍛練場に入る。
「………そうでも無いわよ」
それは他の者が聞けば謙遜の類いに聞こえただろう。
しかし、詩音にはその言葉の本当の意味が分かった。
「体幹の軸が僅かに右にずれて、矢を離す動作に違和感を感じる?」
「!?」
詩音が発したその言葉にシーナは目を見開く。
「な、なんでその事を………!?」
口調と表情に驚愕が浮かぶ。
その理由は、詩音の発言はまさにここ数年シーナが悩んでいた内容その物だったからだ。
「それだけじゃないね。狙いを付けるとき、ほんの一瞬、恐らく瞬き一回分程度の短い時間、標的に焦点が合わなくなる。結果、矢を放つタイミングが僅かにズレる。当たってる?」
「………えぇ」
完全に全てを見抜いているらしい詩音に、シーナは隠しても意味がないと悟り頷く。
「で、なんで分かったの? この事は誰にも話してないし、誰にも気づかれて無い筈なんだけど?」
「観察力には自信があるんだ。って言うか、それ以外に自慢出来る部分が無い」
ひょいと肩をすくめながら、そんなとを言う詩音にシーナは二度目の溜め息を吐く。
「二年くらい前からこの調子なの。百五十メイルくらいなら動いてる的にも当てられるけど、それ以上になるとこの通り。止まってる的にも当てられない。せっかくあんな距離まで的、下げてもらったのに、この様じゃねぇ」
正直、百五十でも充分に凄いと思いながら、詩音は口を開く。
「……ねぇ、シーナ」
「なに?」
「君、弓の扱いを誰かに習った訳じゃないでしょ?」
唐突にそんな事を訪ねられて、シーナは一瞬呆然とした。
「誰か、或いは不特定多数の人物の技術を見て、独学で扱ってる、ってところかな」
要は見様見真似。他者から奪った技術を自分なりにアレンジした物。
詩音のそんな見立てにシーナは、
「はぁ………」
隠しもしない盛大な溜め息で答えた。
「なんでそんな事まで分かるんだか………。ええ、その通りよ。親が、って言うか父親が過保護でね。危ないからって武器の類いを余り触らしたくなかったんだって。皆と一緒に冒険者を遣ってるって言った時なんか、酷い驚き様で………って、これは関係ないか。兎に角そんな訳で、小さい頃はまともに扱い方を習う事が出来なくて、仕方なく見て盗んで、色々試行錯誤してたの」
「なるほどねぇ」
「でも、もう限界って事なのかな。誰かに習おうにも色々と癖もついてるし」
「その必要は無いと思うよ」
「え?」
詩音は一度、シーナの全身を上から下まで注意深く観察する。
「ちょ、ちょっと。何よ」
ジロジロと見られるのが不快なのか───或いは恥ずかしいのか───シーナは居心地悪げな表情を浮かべる。
「うん。やっぱりそうだ」
そんな事はお構い無しと言うように更に数秒シーナに目を走らせてから、詩音は納得したように頷いた。
「何よ、やっぱりって」
「シーナが伸び悩んでる事なら、割りと簡単に解決出来そうだよ」
「はあ?」
その言葉が信じられず、シーナは少し間抜けな声を上げてしまう。
「それって、どういう意味?」
「どうって、そのままの意味だよ。事の原因は気付き難い事だけど、一度気付けば解決の方法は簡単だ。
シーナ、君は普段から左手に弓、右手に矢。この形で矢を射ってるでしょ」
「ええ、私右利きだもの」
「試しにさ、右手に弓を持って射ってみて」
「え? なんでそんな事を?」
「良いから良いから。騙されたと思ってさ」
意図を理解できないまま、シーナは渋々と言った様に右手に弓を持つ。
(こんな事に何の意味が……?)
疑問を抱いたまま左手で矢筒から矢を抜いて弓に番え三度同じ的を狙う。
(あれ?)
奇妙な感覚を覚えた。
違和感や不快感では無い。
まるで、今までずっと食い違っていた歯車が、かちりと噛み合ったような、そんな感覚。
左右が反転していると言うのに、シーナの身体は普段通りに、否、普段よりもスムーズに必要な動作をこなす。
そして、今までに無いほど最適なタイミングで矢が放たれた。
風の魔術が付与された弓の効果で加速した矢は真っ直ぐに空間を駆け抜け、そして、
────心地良い音を上げて的の中心に突き立った。
「うそ………」
信じられないと言うようにシーナが呟くと、
「お見事」
と、拍手と共に詩音は賞賛の言葉を送る。
「これって……どういう……」
矢を射った本人が一番困惑しているようだ。
「簡単な事だよ。シーナ、君は今までずっと利き手と逆の手で弓を使っていたんだ」
「で、でも、私は間違いなく右利きで、普段の生活でも右手を使ってるのよ」
「シーナ、昔右肩の骨を折る様な怪我してるでしょ」
「え?…………あー、うん。小さい頃に馬から落ちて……」
「多分それが原因だね。肩から腕に掛けての骨格がほんの少し歪んでるんだよ。日常生活では何も感じないみたいだけど、特定の動作の時は歪みの影響が出るんだよ。だから弓を離す動作が遅れたり、左右のバランスが崩れて胴体や重心、体軸が僅かにズレる」
それが的を外す理由。
日常的に何の違和感も感じていないのであれば、自分で気付くのは難しいだろう。
「まさか………そんな事で……」
「物事って言うのは、大概分かってみればその理由や原因は意外だけど他愛ない事だったりするものなのさ」
世の中そんなもんだよ、と言った詩音にシーナは蚊の泣くような声で囁いた。
「……ありがとう」
「へ?」
驚愕した詩音に不貞腐れた表情を浮かべて、更に口を開く。
「な、何よ、その反応。私だって、お礼くらい言うわよ」
「いや。あの、僕ってシーナに嫌われてるっぽいから少し驚いちゃって。ほら、シーナって会ってからずっと僕に対して淡泊と言うか、他の皆に比べたら少し壁を感じてたから」
(まあ、クレハ達がフレンドリー過ぎるってのもあるかもだけど)
詩音がそう言うと、シーナは途端にバツが悪そうに顔を逸らして口ごもりながら言った。
「それは……その……悔しくて」
「悔しい?」
「だってあなた、森で戦った時、私の矢を簡単に打ち払ったじゃない。絶対に気付かれない自信があったのに。だから、なんだか対抗心と言うか、そういうのを抱いちゃって………」
そんな、思いもしなかった理由に、詩音はクスッと小さく笑いを溢した。
「ちょっと、笑わないでよ」
「ふふ、ごめんごめん。まさかそんな理由だったなんて思わなくて、つい」
「そんな理由って、私にとってはショックだったの」
ふいっと顔を背けながらそんな事を言うシーナの姿に、待たしても詩音の口から小さな笑いが漏れる。
冷静で物静かだと思ったら、シーナ・ストラトスと言う少女は随分と子供っぽいところもあるようだ。
「でも、もう気にする必要も無くなったわ」
「ん?」
クスクスと笑う詩音の隣でシーナが小さく呟いた。
「こんな簡単に骨格のズレなんて物を見抜いちゃうような奴が相手なら、ああなるのも仕方ないような気がしてきた」
そう言って、新たに矢を弓に番えてフォームの確認をする。
「うんうん。失敗を忘れないようにするのは大切だけど、時には「そう言うものだ」って割り切るのも大事だよ」
詩音の言葉に「そうね」と微笑を浮かべて答えながら、シーナは矢を射る。
その矢も、一矢目と同じように一直線に空気中を駆け抜け、新たな的の中心を射ぬいた。
(それにしても、あの間違ったフォームでもあれだけ出来るとは。シーナ・ストラトス、化け物じみた才能だなぁ)
詩音にも弓術の心得はある。
だからこそ、シーナの動作に違和感を覚え、その正体を看破できたのだ。
だが、仮に今のシーナと弓で競い合ったとして、確実に勝てるかと聞かれると答えは否である。
何せ弓を右手に持ち変えた瞬間に、無意識に自身にとって最適なフォームを見出し、見事に的を射ぬいたのだから。
彼女がこの先、自身に最も適した型で研鑽を積み、経験を重ねたとしたら、いったいどれ程の弓士になるだろうか。
表面上は微笑み、平静を装いながら詩音は心の奥深くでシーナの才能に静かに戦慄にも似たものを感じていた。




