112話 繰り返す悪夢
「この辺り……で、良いんだよな」
羊皮紙を一枚、片手に持ったままカインはそう呟いた。
その紙切れには簡素だが要点を捉えた地図と文字が添えられている。
文字の内容は以下の通り。
『今日の夜、八時半頃。
クレハに会いたいのなら、この地図に書かれた場所に行くと良い。
その付近で面白い物が見える筈だ。
具体的には行ってみてのお楽しみって事でここでは語らないでおくよ。
それじゃ、頑張ってねー
クリストス=キスキルキナ』
意図や真意を読ませない、何とも一方通行な物だ。
だが、クレハの冤罪を晴らす証拠処かそれに連なる手がかりすら得られていない一同にとっては到底無視できる内容ではない。
だからこそ、全員が訝しみながらも、この地図に記された表通りから外れた陰鬱な雰囲気漂う路地に足を運んだのだ。
「しっかし、『その付近で』とは何とも曖昧な物言いね」
「クリス自身も正確な事までは解っていないんじゃないか?」
シャルロットの言葉にエリックが推察を口にする。
その隣でシーナが手紙と地図を覗き込みながら口を開く。
「で、面白い事って何なのかしら?」
「そっちに関しては敢えて伏してるって感じだよね」
アリスも同様にカインの手元を覗き込み、次いで懐から小振りな懐中時計を取り出して時間を確認する。
「八時二十七分……。そろそろ指定された時間だけど………」
そう呟いた直後だった。
夜の深い闇を裂くような硬質な音が鳴り響いた。
膨大な硝子を一斉に割り砕いた様な冷たい音は、一同の東方向、そう遠くない場所から聞こえてきた。
その、明らかに異質な音を聞いた一同は、一斉にその方向を向いた後、何の合図も無く同時に走り出した。
暗然な空気に満ちた石畳の通路を各々が全力で走り抜ける。
この辺りに横道の類を無い。
方向さえ合っているならば、走り続ければ勝手にその現場へと辿り着く。
脚の速い順に列を成して走ると、直ぐに周囲の空気が冷たくなっているのを全員が感じ取った。
そして、冷気の立ち込めるその地点から間もなく走った所で、驚愕と共に一同は足を止めた。
目の前に広がる光景に、皆揃って目を見開く。
周囲の建物の壁や石造りの通路が冷たい氷に覆われていたのだ。
「こ、これって……」
シャルロットが小さく呟く。
眼前に広がる光景、と言いうより、この光景を形成する《氷》には見覚えがあった。
「シオン……?」
シーナが囁く様に零す。
それに応える様に、氷に覆われた通路、その突き当りから微かな物音が聞こえてきた。
瞬間、再び全員が一斉に地面を蹴った。
氷結し、滑りやすくなった通路を全力で駆け抜け、その先の角を曲がり、
――――そうして。
その先に広がる現実を目にした。
通路を突き当たった先、三方を壁に囲まれた袋路地。
そこには、白銀の長髪を垂らした少女が居た。
いや、少年だ。
銀糸のような美しい髪、宝玉を思わせる蒼い瞳、小さく華奢な体に透き通るような白い肌。
その者を構成するあらゆる要素が、儚げな少女のそれであっても、事実として彼は少年だ。
そして、そんな少年の前には、対を成すかの様な黒衣を纏った少女の姿があった。
この場で二人が何をしていたのか、そもそも何故二人が此処に居るのか。
誰もが理解出来なかった。
ただ、理解できたのは、詩音の右手には飾り気の無い簡素な鋼の剣が握られていて、
――――――その切っ先が壁を背にして座り込む少女の胸に深々と突き刺さっているという事実のみ。
「ク……レハ…」
アリスの口から掠れた声が零れる。
当然それは、黒衣の少女に向けた物。
それが聞こえたのか、詩音は僅かに視線を妖精達へと向けた。
だがそれも一瞬、詩音はすぐに視線を戻すと、手にした直剣の刀身をクレハの体から引き抜いた。
傷口から赤い液体があふれ出す。
それは、座り込むその肉体に最早命が宿っていない事の証左。
そして、引き抜かれた直剣の切っ先がゆるりと持ち上がり、次の瞬間、暗闇に鈍色の軌跡を描きながら無造作に振るわれた。
それだけで、何の抵抗も無く、少女の頭部は胴体から離れ、地面に転がった。
「 」
詩音の手がゆっくりと転がる頭部に掛かり、長い黒髪を細い指先で掴んで持ち上げる。
誰も、喋る事が出来ずにいた。
皆が一様に、眼前で起きた現実を頭の中で必死に否定しようとしていた。
そんな妖精達とは裏腹に、
「やあ、皆。こんな時間にこんな所で会うなんてね」
白衣の少年は何時もと変わらない平静さで口を開いた。
そして、それが引き金だった。
「っ!!」
言葉にならない叫びと共にカインが詩音の頬を全力で殴りつけた。
それは、半ば条件反射に近い行動だった。
現状を、現実を受け容れられないままに、友に刃を向けた眼前の外敵を排除しようと身体が勝手に動いた。
「づっ!」
小さく呼気の様な声を零す詩音。
「――――――ぁ」
それで漸くカインは、自分が詩音を殴ったという事実を他人事の様に認識した。
仲間内でもクレハに次ぐ筋力値を誇るカイン。
そんな彼に全力で殴られ、滑る様に後退しながらも倒れる事無く持ちこたえたのは流石と言う他にない。
「痛ったいなぁ……」
僅かによろけながらそうぼやいて顔を上げる。
その瞬間、青銀の閃光が詩音に向けて放たれた。
それは、風すらも追い越すアリスの超速の刺突。
突き放たれた細剣の切っ先が詩音の左肩を射抜き、それでも尚勢い止まらず詩音の体を奥の壁へと叩き着けた。
貫いた切っ先が壁へと突き立ち、亀裂が走る。
「……まったく、急に何するのさ、二人とも」
肩を貫かれ、壁に磔にされながら、詩音は細剣の柄を握るアリスへと語りかける。
瞳を、己を貫く刀身に向け、決してアリス達の顔を見ようとしない。
「シオンッ……‼ クレハ、クレハを……‼」
「ああ……。殺したよ」
「なんでっ……‼ どうしてっ‼」
紡がれる言葉は酷く感情的。
開いた瞳孔を怒りの感情で満たし、アリスは柄を握る手を震わせる。
「なんで、か。そんなの決まってる。報復だよ」
「報…服…」
「ああ、もっと俗っぽく言えば復讐だ。ミユが殺された。だから僕がクレハを殺した。別に、珍しい話じゃないでしょ」
「違う‼ クレハがそんな事する訳無い!! 絶対に違う!!」
必死の形相で否定の言葉を口にするアリス。
それで漸く、詩音の瞳がアリスを、そしてその後ろの妖精達を見た。
瞬間、皆が等しく、全身を走る悪寒に身体を強張らせた。
向けられた深蒼の双眼。
それの何と冷たい事か。
まるで、深い、深い、全てを呑み込む深海の様に暗く冷え切った瞳。
それは、この場に居る誰もが感じた事の無い、純然たる殺意の宿る眼。
あらゆる感情を、あらゆる心情を、悉く削ぎ落とした様な。
最早、ある種の覚悟が其処には在った。
この手で、必ず殺すという揺るぎ無い覚悟。
恐怖する。
誰も彼もが、詩音のその気配に心底から恐怖した。
激情に心を焼き焦がしているアリスでさえ、その瞳に戦慄せざるを得なかった。
きっと、今心に灯る怒りの炎が無ければ、その脚はなんの迷いも無く退いていた事だろう。
軋む程に歯を噛み締めながら、底知れない恐怖を底知れない怒りで押し留めながら、アリスは細剣の柄を強く握る。
「何が違うって言うのさ」
不意に、そう呟きながら、詩音が肩を貫く刀身を強く掴んだ。
その声は瞳と同じく底無しに冷たく。
震える程に強く掴んだ掌に、刃が喰い込む。
肉が裂け、新たに血液が流れ出る。
掌と肩の傷からも流血しながら、詩音は言葉を続ける。
「理由なんてどうでもいい。ただあの時、刃を握って居たのは紛れもなくクレハだ。それ以外の事実は無い」
そして、最後。
地に付した少女の身体に僅かに視線向けてから、吐き捨てる様に。
「何の罪もない子供の命を奪ったんだ。その対価として殺されるのは当然だ」
「………ぁああああああああ!!!!」
その言葉が、僅かに萎縮仕掛けた激情を再び烈火の如く燃え上がらせた。
絶叫を上げながら、アリスは強引に詩音の肩から細剣を強引に引き抜くと、再び詩音の体を穿とうと腕を引き絞る。
が、次なる閃光が放たれる直前。
「ぁづっ……」
唐突にアリスの全身から力が抜け、その体がぐらりと傾く。
倒れる身体を受け止めたのはエリックだった。
背後からアリスの意識を刈り取ったのだ。
「助かったよ、エリック」
詩音がそう言うと、エリックは気絶したアリスを抱えたまま、鋭い眼光を向ける。
そこに宿るのはアリスと同一の感情。
「シオン、お前。俺がアリスを止めていなかったら、斬るつもりだっただろう」
「…………」
すっと、腰ほどまでに挙げられていた直剣が下がる。
「クレハを信じてやる事は、出来なかったのか?」
「…………」
詩音は答えない。
それを肯定と受け取り、
「そうか………………。どうやら俺は、お前の事を誤解していたようだな。お前と俺達は―――――――――出会うべきではなかった」
真っ直ぐに詩音と対峙してエリックはそう告げた。
◆
その後、程なくして駆けつけた一般の騎士達によって詩音を除くその場の全員が身柄を確保された。
詩音は、クレハを見かけ追跡し、抵抗されたので反撃し結果殺したという趣旨の証言を騎士に伝えると、僅かに目を離した隙に何処かへと消え去っていた。
騎士達から、クレハは何等かの方法で城の牢から抜け出して逃亡したと妖精達は説明を受けたが、そんな情報はどうでも良かった。
ミユに続き、クレハまでも失った彼ら彼女らの心は、酷く摩耗していた。