10話 力の代償
里の西端から北側の戦場に辿り着くまでに詩音が有した時間は、ほんの僅かだった。
「………不味いな」
空中から見た戦況に、詩音は呟く。
妖精達が迫り来る鬼の群れに呑み込まれ始めていた。
数の有利を生かし、取り囲むようにして攻めて来る鬼達を捌けずに負傷者が続出している。
───少し来るのが遅くなったか。
そう思いながら詩音は急いでスキル《氷雪の支配者》を発動する。
水を隷属させるスキルの効果によって空気中の水分は凝固し、詩音の思い描いた形を取る。
完成したのは幾本もの氷の槍。
三メートル程の氷塊が鋭利に尖った先端を下に向けて浮遊する。
これだけの量を一度に製作するのは初めてだ。
そのせいか氷槍一つ一つは初めて作った短剣以上に粗削りな出来だった。
もはや槍というのも烏滸がましい。
ただの氷柱だ。
だが、問題ない。
鬼を殺すには十分だ。
準備が整った時、ふと詩音の視界に見覚えのある姿が映った。
黒い外套を身に着けた黒髪の少女、クレハだ。
クレハは鬼の凶刃の下に晒されていた。
それを見た瞬間、詩音は半ば反射的に待機させた氷柱の一つを剣を振り下ろす鬼に向けて放った。
氷柱はスキルによる軌道操作と重力落下による加速を得て、弾丸となって高速で飛翔する。
そして、刃がクレハを斬り着ける直前で、氷の弾丸は鬼の身体を振り上げられた腕諸共に串刺しにし、その生命活動を停止させた。
それを皮切りとして、詩音は残った氷柱を一斉に撃ち出した。
広く、戦場全域に散らばる様に。
全ての者の意識が自身へと向く様に。
最初の一発と同じように加速した氷塊は弾丸の雨となって敵に降り注ぐ。
一発ならば兎も角、これだけの数を同時に操り、精密な軌道を取らせる事など今の詩音には出来ない。
せいぜい妖精達に当たらないようにするのが限界だ。しかし、密集した鬼達にはそれで充分だった。
放たれた氷柱が鬼の身体を抉る。
意識の外からの奇襲が容赦無く蹂躙する。
数秒で全ての氷柱を撃ち尽くし、その僅かな時間で数多の鬼が肉片となった。
二つの集団が凍り付いたように動きを止める。
鬼達は、必死に頭の中で今起きた事を処理していることだろう。
停滞する戦場を睥睨し、詩音はスキル《部分竜化》を発動させ、自身の声帯を竜の物へと変容させる。
そして、大気を揺るがす咆哮すら可能とする程の竜の声帯で以て、目下の者共全てに向けて呼び掛けた。
「鬼達よ、剣を引け!!」
視線が詩音に集結する。
それを確認してから、左手に握るそれを高く掲げた。
「お前達の長の首は討ち取った!!」
事前に詩音が《HL》システムから知らされた情報によれば鬼は最も実力の高い者を頭とした完全な縦社会の生態をした生き物らしい。
とすると、ガウチが南側の別動隊を率いていたことは詩音にとっては好都合だった。
ガウチの御首を見た途端に、鬼達は浮き足立つ。
遠く、それを視認出来ない個体にも、竜の声帯による呼び掛けは例外無く届き、お互いに顔を見合わせて忙しなく低い声を上げる。
頭領の首は鬼達を動揺させるのに充分な効果があった。
しかしまだ、奴等の闘志を消し去るには足りていないようだ。
驚愕し、混乱こそすれど、その場から撤退する様子は無い。
望む結果を出すには、もう一押し必要らしい。
詩音は再び口を開く。
「未だに剣を引かず、この場に留まるというのなら、これより先は闘争ではなく虐殺となる! 無惨に死にたい者だけ残るがいい!」
宣言と共にガウチの首を投げ捨て、詩音の身体は雪と氷の大気に包まれ、次いで白竜となって姿を現した。
吹き荒れる雪風が暗雲を散らす。
雲の隙間から差す陽光を反射させ、前回デスグールを追い払った時と同じ大音響の咆哮が空気を揺らし威嚇する。
それで鬼達の意思は決定したようだった。悲鳴のような唸りを上げ、一斉に逃走を始めた。
武器を投げ捨て、周囲の者を突き飛ばし、脱兎の如き勢いで逃げて行く。
土煙を上げ、足音を喧しく鳴らしながら森の彼方へと消えて行く。
万を超える鬼の姿が完全に消え去ると、残ったのは唖然とした妖精達と山の様な鬼の死体だけだった。
詩音は再び人型に姿を変え、一度に息を吐き出すと、ゆっくり翼を羽ばたかせて妖精族の本隊の前に着陸する。
「シオン………」
未だに困惑した様子で剣を握ったキリハが歩み寄る。その背後にはアルトとエイリスの姿もある。
「やぁ、キリハ。さっき振り。無事で何よりだよ」
戦いへの助力を断った手前、ほんの少し気まずい気持ちで詩音はキリハに対峙した。
「何故シオンが此処に? 戦いが始まる前に避難するって言っていたのに?」
「あー、えーとだね。それには止むに止まれぬ事情があって」
回答を口にしようとした丁度その時、
「シオン!!」
覚えのある声。詩音は顔を見る前から声の主を察し、振り向き様に言う。
「クレハ、無事かい?」
予想通り、詩音を呼んだのは黒ずくめの闇妖精、クレハだった。
長く綺麗な黒髪を揺らしながら、此方に走り寄って来る。その後ろにはペールブルーの髪をした水妖精のアリスの姿も見える。
「な、なんでシオンがここにいるのさ!」
「それは今説明しようとしてた所だよ」
答えながら、詩音は素早くクレハとアリスの全身に目を走らせる。疲労と小さな傷はあるが命に関わるような物は無さそうだ。
と、そんな二人に続いて新たに二組の妖精がこの場に到着した。
一組は互いに支え合ってよろよろと姿を現したカインとエリック。全身から流血しぼろぼろの刀を握っている。
もう一組はシーナとシャルロットだった。カインとエリックとは違い二人とも目立った外傷は見当たらない。
「エリック、カイン!」
二人の姿を見た途端にシャルロットは声を上げて駆け寄った。その後に続いてアリスも二人の側に行って、回復魔法で傷を癒した。
出血量は多いが、安静にしていれば大丈夫、とアリスの言葉を聞いてクレハ達はほっと息をついた。
「それで、一体何があったの?」
クレハの二度目の問い掛けで全員の視線が詩音に集まった。
「その前に、キリハ。悪いけど兵士の何人かを里の南門に向かわせてくれないかな。鬼を何体か捕縛しているんだ。色々と話しを聞けると思う」
それを聞いてキリハは直ぐに兵士の十人程に南門に向かうように指示した。
「ありがとう。さて、取り合えず何があったかだけを説明すると、皆が此方で戦ってる間に南側から鬼の別動隊が里に入り込もうとしてたんだよ」
その言葉に全員が動揺と困惑の声を上げた。
「べ、別動隊って……!それ、どうしたの?」
「まあまあ落ち着いてクレハ。捕縛したのを除いて全部排除た、か…ら」
それは唐突に。
「あ………れ……?」
全身から力が抜けていく。
「シオン?」
次いで、激痛が全身を駆け巡り、思わず目を見開いて両腕で身体を抱き押さえる。
「──なん─だ」
何かが入ってくる。
自分の内側で、自分ではない何かが広がっいく。
──なんだ?
霞む思考の中で、詩音はそれを自覚する。
意識が、自我が、呑まれていく。
──やめろ。
内側から自分が塗り替えられて行く。
見失う。自分が見えなくなる。
──来るな!
「ぐ───あ──」
吐血する。
内臓から血が逆流し、吐血する。
クレハ達が悲鳴じみた声を上げるのが、遠い世界の事のように聞こえる。
走る痛みは尋常な物では無い。まるで全身の骨が砕け、血管が破裂するような激痛。
膝を着く。
拒絶された何かは、怒り狂う様にして、詩音の中を壊していく。
渡さない。渡せない。
ここで呑まれたら、詩音の意思は完全に消えてなくなる。そうなったら、きっとこの何かは全てを凍破する烈波となって詩音だけでは飽き足らず、全てを壊し尽くすだろう。
広がる何かを押さえ付ける。出てくりるなと、消えろと、自分の意識で押し潰す。
「がっ───」
竜の翼が、詩音の意思を無視して展開される。
痛みはどうでもいい。常人なら間違いなく発狂死するでだろうが、それが痛みである以上無視しよう。
着いた手足から魔力が溢れ、地面が氷結する。氷は地面を這う様にして広がって行く。
「シオン!」
悲鳴。
クレハが血相を変えて走り寄るのが、視界に映る。
「来ちゃ、だめだ──!」
「っ!」
絞り出す様にして叫ぶ。
詩音の制止にクレハは恐怖した様子で歩みを止めた。その足先が、凍った地面に触れて氷に覆われて行く。
「はな、れて──」
その言葉に従ってか、或いは単純な恐怖心によってか、クレハは数歩後退り氷結した地面から逃れる。
今寄られたら、彼女に何をしてしまうか詩音自身にも分からない。だが、これもその場しのぎだ。
呑まれれば、クレハが寄って来ようが逃げようが関係ない。彼女も、アリスも、シーナも、シャルロットも、エリックもカインも、それ以外のこの場にいる全員があふれ出した魔力によって凍り付くだろう。
だから、
───渡さない。───殺させない。
今詩音が消えれば、クレハ達が死ぬ。
態々助けた命を、こんな訳の分からない事に巻き込む訳にはいかない。
自我が、徐々に何かを押さえ出す。
意識を呑まんとする何かを逆に呑み込み、塗り替えていく。
意識を奪い返し、それに沿って背中の白翼が崩れる様に消えて行く。
消えていく。
詩音を呑もうとしていた物が消えていく。
ゆっくりと、ゆっくりと、詩音の内側は、心は、詩音の許に帰ってくる。
そして、得体の知れない何かが完全に消えると、
「───よみ」
詩音は意識を失った。