97話 解き放たれた災い
世界が小さな月を創り出した。
その月からアディスの獣が産まれ落ちた。
獣は三度太陽が沈む間に、八つの国を焼き、五つの山を喰らい尽くした。
そして、獣は九つ目の国を焼こうとした。
だが、九つ目の国には黒き王たるラルトがいた。
王は己の手を天へと掲げた。
悉くの神々が王の祈りを嘲笑う中、黒曜の女神が王の手を取った。
黒き王が黒曜の女神の許に傅き、王と女神はアディスの獣を焼き払った。
獣は大地に影を残し、深い眠りについた。
■
刻まれていた亀裂が全体へと広がり、軈て内部からのを圧力に耐えかねて球体は爆散する。
解き放たれた閃光が物理的圧力を伴って吹き溢れ、
崩落時を上回る土煙を巻き上げながら重低音と高周波の入り混じった轟音が世界に響く。
それは恐怖の産声。
この世界に零れ落ちた、意思持つ破壊の再来を告げる警鐘だった。
視界が晴れる。
二度に舞い上がった土砂の壁が霧散する。
――――――――――――――――――そして、そこには恐怖がいた。
――――――――――――――――――厄災がいた。
――――――――――――――――――災禍がいた。
世界を覆う巨災があった。
「あ、あぁ…………」
クレハの口から悲鳴にも思える声が漏れる。
それは余りにも巨大だった。
蛇、或いは百足の類いを思わせる異様に長く黒い身体は優にニ百メートルを超え、体表は漆黒の外骨格に覆われており、その背には刺々しい背鰭が連なっている。
長大なその身体を左右三対の蜘蛛の様な脚で支え、大地に君臨していた。
鎌首を擡げる様にして上げた頭部には大木地味た太さの牙が無数に生えた巨大な口が有り、左右には一際巨大な大顎が鋏の様に伸びている。そして、その上には錆着いた鉄の様に赤く輝く八つの眼。
余りに異質。
現存するあらゆる生物、あらゆる魔物とは異なる体系の存在。
「ア……ディス………」
か細く、クレハが嘗て絵画越しに見た怪物の名を呼んだ。
その時だった。
「⬜⬛□⬛⬜□■■■――――――――――――!!!!!!!」
いつの間にか曇天には覆われた空の下、絶哮が世界を揺らした。
ただの咆哮、ただの音圧だけで、その場にいた全員が吹き飛ばされそうな程の衝撃波が周囲に奔る。
そして、開かれたその顎の奥に黒い焔が灯ったかと思うと、落雷地味た轟音と共に巨大な黒い、炎の塊がクレハ達に向けて放たれた。
「ッ―――――――!!」
背後でミユが魔力を行使する気配をクレハは意思の片隅で感知した。
クレハ達の周囲の空間が、ミユの能力によって歪曲する。
偏向された空間は、迫る驚異から妖精達を護る壁となって固定された。
だが、
―――――――ダメだ
その場の全員が直感的にそう確信した。
ミユの力では、否、この場の全員が全霊で防御に撤したとしても―――――――――――あの黒炎は防げない。
死ぬ。
全員が、あの一撃で欠片も残さず消滅する。
皆一様に本能でそう理解する。
直後、視界が黒く染まる。
先の咆哮とは比較にならない、台風地味た暴風が吹き荒れる。
クレハは全力で踏ん張りながら顔を腕で庇う。
衝撃が全身を叩きのめし、炙られる様な熱が肌を撫でる。
だが、死ななかった。
即死を予感させた一撃は、その実強烈だが耐えられる程度の衝撃と熱のみとなって防壁内の妖精達に届いたのみだった。
「――――っ?」
全身を撫でた熱の余韻を感じながらも、怪訝に思ったクレハは閉じていた瞼を上げる。
そして、
―――――――――眼前に立ち尽くす死に体を眼にした。
「シオンッ―――――――」
■
巨獣から光弾が放たれた瞬間、詩音は一切の躊躇無く黒炎とクレハ達の間に割り込んだ。
余りにも濃密な魔力の固まり。
この炎弾一発で、ユリウスに住む人間全ての魔力の総量を上回るだろう。
そんな一撃をミユだけで防げる筈が無い。
空間を捻じ曲げて作り上げた防壁諸共に、彼ら彼女らは消し炭も残らず消滅するだろう。
詩音は迫る魔力の塊に向けて、魔力を宿した左腕を突き出す。
一切の加減無く魔力を注ぎ込んだ拍輻魔導で、黒炎の相殺を試みた。
そして――――――――詩音の身体は呆気なく引き千切られた。
放った膨大な魔力は一瞬の拮抗も赦されずに焼き尽くされ、灼熱が全身を焼く。
圧倒的なエネルギーの濁流に肉も骨も為す術無く破壊される。
浮遊を維持出来ず、墜落する。
「ハッ………ッ………」
身を起こす。
地に着けた両足に異様な負荷が掛かる。
まるで巨大な岩石を背負っているかの様に膝を折りたいと悲鳴を上げている。
純粋な炎熱による破損はスキルによって無効化され、詩音に届くのは身体を焼く感覚と魔力の塊から生じた物理的衝撃のみ。
だが、それでこの様だ。
ただの一撃で、詩音は死に損ないへと成り果てた。
気持ちの悪い水音を立て、足元に何かが落ちた。
霞む視覚を向ける。
それは腕だった。
上腕の半ばで千切れた詩音自身の左腕。
「シオンッ――――――――」
背後で、悲鳴が聞こえた。
緩慢な動きで視線を向けると、ミユの空間壁越しにクレハ達の姿が視界に入った。
全員、大した負傷は見られない。
ミユの防壁が訳に立った様だ。
それを確認した詩音は残った右手で足元の左腕を拾い上げると、骨と肉が剥き出しになった断面同士を押し付ける。
視界が白飛びする程の激痛を気付け代わりにしながら、断面付近を氷で覆い千切れた腕を固定する。
そして、視線を眼前の怪物に向けたまま、
「皆………逃げろっ!」
張れる限りの声で背中越しに、こちらに駆け寄ろうとして空間壁に阻まれるクレハ達に向けて言い放った。
次いで、《竜化》のスキルを解放する。
詩音の全身が舞い上がる魔力の氷雪に包まれ、竜の肉体へと変容する。
――――――□■△■■□□□□
「――――――っ」
負傷による衰弱のせいか、変容した瞬間意識が竜の物に侵食される。
脳裏にノイズが走るが、今はそれを気にしている暇ば無い。
相手の三分の一にも満たない竜の身体で、詩音はアディスへと飛び掛かる。
怪物の首筋に噛み付き、四肢を強く踏み込んでその巨体を投げ飛ばす。
「⬜⬛⬛□■■■⬛⬜⬜⬜⬜□□!!!!」
地面に叩き付けられ、咆哮を上げる怪物の元へ詩音は白翼を羽ばたかせて飛来する。
少しでも、クレハ達から距離を取らなければならない。
もっと遠くへ―――――――――、少しでも遠くへ―――――――
「―――――――っ!?」
だが、今一度アディスを押し込もうとした所で、詩音は竜化の限界に到達した。
思考がノイズの中に埋もれて行く。
これ以上は駄目だ。竜の意思に呑まれる。
自分が自分で無くなる。
詩音は竜化を解き、人体へと戻る他無かった。
「―――――――ッ、ガハッ―――ハッ、カハッ……………」
血反吐を吐く。
粘性の赤黒い液体が口から大量に流れ出る。
急ぎ飲み込み、血液や水分の浪費を抑えるが、それも果たして意味を成すのか。
吐いたそれには、白く硬質な骨片が混ざっており、出入りの際に喉を引っ掻き回す。
「っ―――――ハッ…………フゥッ………」
狂おしい程の息苦しさと、全身が上げる悲鳴に無理矢理フタをして、詩音は眼前の怪物を睨み付ける。
漆黒の躯体を蛇の様にくねらせる化け物は、先の一投で完全に詩音に標的を定めた様でクレハ達の方に意識を向ける様子は無い。
―――――――それで良い
元よりそれが目的だと、内心でほくそ笑みながら詩音は意識の一片を自身の内側に向けた。
―――――額部右側から側頭部に掛けて深い裂傷………左腕は上腕部半ばから破断…………それに吐血………胃が潰れたな。胃酸で他の内蔵が焼けてる…………。あと、この息苦しさは………左肺も潰れてら………。それに肋骨も左第一、第三、第四、第六、右の第三真骨が骨折………破片が横隔膜に突き刺さってるな。吐血に混じってたのはこれか…………おまけに右鼓膜も裂けてる………右のアキレス腱も切れかかってるな。その他左半身隈無く皮下出血と全身に打撲と亀裂骨折多数…………
千切れた左腕から伝わってくるのは最早痛みでは無く純粋な熱そのもの。
赤熱化するまでに熱した鉄杭を断面に突き立てられているかの様に、絶叫しかねない熱が傷口から全身を穿く感覚に最早苦痛を超えて吐き気を伴う嫌悪感を感じる。
――――――――ああ………これは、死ぬな…………
自身の有様を把握した詩音は、他人事の様にそう確信した。
例え、この場から逃げ伸びようと、何らかの奇跡が起きて目の前の怪物が消え失せようと、詩音は死ぬ。
恐らくは後十分二十分しない内に全ての生命機能が停止する。
―――――――って言うか、何でこの様で生きてるんだろ…………我ながら気持ち悪いくらいのしぶとさだな…………
そんな風に、自嘲しながら詩音は腰の鞘から雪姫を引き抜いた。
拵えは先の直撃で所々傷んでいるが、流石と言うか刀身には傷も歪みも無くその切れ味は健在だ。
どの道死ぬと言うのなら、詩音が取るべき行動はただ一つ。
寧ろ他の一切を気にする必要が無い分都合が良い。
一瞬でも長く、あの怪物を引き付けて妖精達の逃げる時間を稼ぐ。
ちらりと、詩音は無理矢理繋げた左腕の中指に嵌めた指輪に目をやる。
何時だったか、カインから貰っな体力回復の魔術が施された物だ。
――――――お誂え向きだ。カインに感謝しないと…………
赤髪の青年の姿を思い浮かべ、詩音はほんの僅かに笑みを浮かべるて
眼前の化物が一体何なのか、何故敵意を向けて来るのかはさっぱり解らない。
だが、殺しに来ると言うのなら、生かす為には殺し返すしか無い。
それが出来なくとも、全霊の抵抗をぶつける意外に選択肢など存在しない。
―――――――《HAL》、破損部の修復に掛かる時間は?
『各部損傷甚大。生命維持が可能な程度に修復するまで二百五十時間を有します』
―――――――うん、間に合わない。そこまで回復する前に死ぬわ。取り敢えず、左腕の修復を優先。治し切らなくても動かせる様になれば良い。その後時間があれば肺を治しといて
『…………………撤退を提案します』
――――――………………珍しいね。聞いても無いのにHALから提案なんて
今まで《HAL》システムが提案をする時は必ず詩音の方から質問や解析依頼などのアクションを起こしていたが、今に限ってはそれ等は関係無くHAL自身の判断で逃げる事を勧めて来た。
これは、あの小屋での一部制限解除の影響か。
『現在のダメージでは到底戦闘に耐えられません。撤退し、回復に専念するのが最善の選択です』
―――――――……………間違った回答するのもこれまた珍しいね。それは最善どころか愚策だよ。逃げて回復に徹しようが僕は死ぬ。現状生き延びる術が無い。
そうでしょ?
『………………………』
―――――――分かったら魔力を分配だけしといて。僕の魔力制御よりキミがやった方が的確なんだから
『……………了承、魔力分配率及び修復順位を設定』
「ありがとう…………ごめんね」
そう、最後に告げると、詩音は竜の白翼を展開する。
そして。
四対の巨翼を羽ばたかせ、眼前の怪物に向かって飛翔した。




