9話 孤高の戦い
フェルベーンの里より北の森で戦いが始まってから数時間が経過した頃、戦場とは正反対の方角。里の南側に接近する存在が在った。
それは鬼の群れ。北側で妖精族と戦っている本隊から別れた別働隊。
妖精族は本隊迎撃に殆ど全ての戦力を投じた。当然、里の南側の警備は手薄になる。
この鬼の群れはその隙を突いて里に侵入し内側から落とす為に作られた部隊。
率いるは鬼の頭。数は凡そ三百余り。
静かに、気取られないように慎重に進む。
やがて、目的の物が姿を現した。重厚な金属製の扉の閉ざされた妖精族の里の南門。
鬼の狙い道リ、そこに兵の姿は無い。門番までもが北の本隊迎撃に当たっているのだ。
間抜けな奴らだ─────
鬼の長は口角を吊り上げながら心の内で罵倒する。
ただでさえ疲弊しているであろう状況で、里の内部へと入り込み里の長を捕らえて捕虜として妖精族側の抵抗を封じ、蹂躙する。頭の立てた作戦は順調に進んでいた。
少しでも門番を残すかとも思ったが、そんな余裕すらないらしいな──────
笑みを浮かべたまま率いる兵たちに前進の合図を送り、門へと進み寄る。扉は閉じられているが数人が塀を越え、内側から開ければ問題ない。兵士が出払い、がら空きとなった里を落とすなど容易い。頭は作戦の成功を確信していた。
しかし─────────
「やっと到着か」
何処からか声がした。
鈴の鳴るような、年端もいかない少女のような高く美しい声。
不意の事に鬼達は慌てて視線を周囲に走らせた。
軈て、城壁の影からそれは姿を表した。
里を守護する防壁の手前。
其処に、その者は立っていた。
純白のコートに身を包んだ小柄で華奢な体躯。
薄暗い空の下でも眼を引く美しい白銀の長い髪。
その髪の下から覗く何処か猫を思わせる眼と蒼い大きな瞳。
傍目には少女にしか見えない容姿のその人物は、里の長からの助力の依頼を断り、早々にこの地から離れると言っていた霧咲詩音だった。
三百以上の鬼の視線を受けながらも詩音は気圧された様子など一切見せずにゆっくりと鬼達の前へと歩み出る。
「最初に北からの侵攻を見た時に思ったんだ。何故、鬼達はあんなにも派手に侵攻して来たのだろうって。もう少し静かに行動していれば、妖精達がお前らに気づく頃には里にかなり近づけていた筈だ」
歩を止め、詩音は口を開いた。
「にも関わらずそうせずに、結果里からかなり離れた地点で発見され妖精達は即座に迎撃に出た。わざわざ病気を流行らせて妖精族側の戦力を削ぐなんて事前工作をするような連中の行動としては不自然だ。そこで思ったんだ。あいつ等はわざと騒いでいるんじゃないか。あれには妖精族の注意を集める目的があるんじゃないか、って」
鬼の群れを一瞥してから、艶やかで小振りな唇に小さく笑みを浮かべ。
「どうやら、読みは外れていなかったみたいだね」
そこまで言い終えた時、群れの先頭の一体が口を開いた。
「なんだお前は。門番の妖精族か?」
品の悪げな太く低い声を発したのは、他の個体よりも一回り以上巨大な体躯と鬣の様な頭髪を持った群れの頭の鬼だった。
「いいや。僕はたまたまこの里に来ていたただの人間だよ。まったく、無関係なのに首を突っ込んじゃうのは僕の悪い癖だ」
「そうか。それで? そんな人間が俺らの前に出てきてなにをするつもりだ?」
この場にいるのが詩音一人だけだと察した途端に、下卑た笑みを浮かべ直して鬼の頭領は問いかける。
他の者も次第に頭領と同じように口許を歪めながら詩音を舐めるように眺める。
対して白銀の髪の殺し屋はひょいと肩をすくめ、
「まあ、状況的には僕は里を守る為に君らと戦う事になるだろうね」
人を食ったようなその言いように、鬼達は声を上げて笑った。
「馬鹿が。たった一匹で何が出来るってんだ」
心底可笑しい、と腹を抱えながら下品に爆笑する。
「軟弱な人間如きが良く言うわ。やっちまえ、手前ら! だが殺すなよ。中々に上玉の雌だ。この 《ガウチ》様の奴隷にしてやる!」
相手は見るからにひ弱そうな体躯の者が一人。
何の脅威にもなりはしない。
その判断の下、鬼の頭、ガウチは配下に司令を下した。
他の者もその判断に異論は無い。
ガウチの近くに居た二体が、各々の武器を掲げて詩音へと駆け出した。
躊躇いなど存在しない。
恐怖など尚有りはしない。
数秒後には詩音は録な抵抗も出来ずに屈する。
それが全ての鬼の予想だった。
だが、
「なにっ!?」
驚きの声がガウチの口を吐く。
一連の動作は実にシンプルで鮮やかだった。二体の鬼が自身の間合いに踏み入った瞬間、詩音は身を屈めて右足で鬼二体の軸足を素早く刈り払ったのだ。結果、詩音の二倍近い身長の鬼は揃って身体を大きく傾けた。さらに詩音は鬼の身体が地面に着くよリ早く、スキル《氷雪の支配者》を用いて作った短剣を使い、空中で二体の首筋を掻き斬ったのだ。
転倒した身体が地面に接する頃には二体の鬼は息絶えていた。
「軟弱な人間如き、か。確かに、人間ってのは知恵に偏り過ぎた結果、多くの武器を手放した生き物だ」
全てが一瞬の速業だった。
「だから正直、僕も戦いたくは無いんだ。ただでさえ僕は真っ向からの勝負ってのが苦手だからね」
茫然とする鬼達をよそに詩音はそんなことを口にする。
「けどね。人間は牙を捨て、爪を捨て、それらを対価として得た知恵の多くを 《何か殺す事》に費やした生き物だ」
顔を上げ、深く蒼い瞳を眼前の生き物達に向ける。
其処に悪意は無く。
其処に敵意は無く。
あるのはただ、
全てを殺し尽くす 《殺意》のみ。
「人類を、舐めるなよ」
瞬間、鬼達が気圧された様に僅かに退いた。
群れを導く長も例外では無く。
だが、直ぐに気を持ち直したか、退いた一歩を闘争心に従った一歩で取り戻す。
だが、斬り込んだ二体が瞬殺された事で、さすがに多少の警戒心を抱いたらしく、先の様に躍起になって飛び掛かってくる個体は居なかった。
それはそれで好都合。
霧咲詩音は騎士では無い。
霧咲詩音は剣士では無い。
王道には拘らず、正道など当の昔に踏み外した。
詩音はただの人殺し。
刃を振るい、毒を盛り、気配を殺し、情を殺し。
ありとあらゆる邪道を用いて殺すだけの人殺し。
正面切ってのぶつかり合い等と言う面倒な戦いは御免被る。
今回詩音が姿を晒したのも、真っ向勝負を挑む為では無く、一つ試したい事があったからだ。
詩音はこの世界で手にした力の一つを呼び起こす。
変化する。
蒼の瞳が血の様な深紅に変わり、能力は人間では到達できない領域にまで昇華する。
《竜帝憑依》。
この世界での詩音のもう一つの姿である白竜の身体能力を現在の人間としての身体能力に上乗せするスキル。
これにより、詩音は人間の域を超越する。
次の瞬間、詩音の姿はガウチを含めた全ての鬼の視界から消えていた。
そして──────
「あ………?」
ガウチの背後で間抜けな声が零れた。それに振り向いたガウチの視界の先には、今しがた見失ったばかりの詩音の姿が在った。
そしてその直ぐ傍には、先ほどの声を上げたらしい鬼が棒立ちに立っている。
そこまでをガウチが認識した瞬間に、ど、という重い音とともにその鬼の身体から血飛沫が迸り、僅かに遅れて糸の切れた人形のように倒れた。
詩音は一瞬でガウチの背後に回り込み、短剣の一太刀で鬼の一体を絶命させたのだ。
周囲の鬼達が一斉に驚愕の声を上げて詩音の傍から飛び退く。
「な、何が……!?」
目に見えて狼狽してガウチが声を上げる。
他の鬼達同様に詩音から距離を取り、慌てて背中に背負った自身の身の丈に迫るサイズの大剣を引き抜く。
右手に握った短剣を血振りして、詩音はそんなことを囁いた。《竜王憑依》を発動した状態での自身の戦闘能力の把握。それが詩音の試したい事の内容である。
「ガキが、調子に乗りやがって!!殺れ、お前ら!!ぶっ殺せ!!」
もう我慢ならん、と言うようにガウチが吠えた。自分たちよりもはるかに小さく、脆弱そうな詩音に同種が三体も殺されたと言う事実にガウチの怒りは頂点に達した。
ガウチの命令で鬼達は詩音へと走り出した。武器を掲げ、ある者は雄叫びを上げながら、ある物は罵り声を上げながら猛然と突進する。
詩音は一斉に繰り出された斧や剣の攻撃を《竜王憑依》に依って底上げされた圧倒的速力を以て、その全てを回避する。普通の人間であれば動体視力や平行感覚が追いつかずまともに制御できない程の神速。しかし、詩音の鍛え抜かれたそれらは、この超高速の動きに対応した。
繰り出される攻撃の隙間を縫いながら、左右の手に握った氷の短剣を無造作に振るう。それだけで、屈強な鬼達が血を撒き散らして沈んでいく。
曇り空の下で無数の断末魔が上がる。
北の戦に比べれば小規模な戦いだが、血と叫びと臓物が飛び交う光景はまるで地獄絵図。その点では決して劣らない。しかし、それらを産み出す詩音の動きは美しかった。
もしこの場に第三者が居て、詩音の戦いを眼にしていれば、心底見惚れていた事だろう。
血肉が舞う地獄の中で、血の一滴も浴びずに白銀の髪を靡かせながら剣を振るう姿はいっそ幻想的ですらあった。
「馬鹿な…………こんな馬鹿なことがあってたまるか……!!」
次々と倒れる鬼達を見て、ガウチは茫然自失と言った様子だった。侵入をスムーズに行う為に数を絞って来たが、その分一体一体の実力は群れでもトップクラスの実力者ばかり。そんな精鋭達が戦うどころか触れる事すらできずに死んでいく。
────時間にして五分足らず。
その僅かな時間で三百以上居た鬼はガウチを含めて三十弱にまで減少した。
「はぁ…………」
攻撃が止んだ時、詩音は小さく息を吐いた。
(何度か空振った。予想以上の能力上昇率。少し制御に慣れが必要かな)
亀裂の走った短剣を放棄し、新たな短剣を握りながら詩音が残りの一群に一歩歩み寄る。すると、数十の鬼が一斉に悲鳴じみた声を上げながら四方八方に逃げ出した。
「てめぇら!逃げんじゃねぇ!!ぶっ殺すぞ!!」
ガウチが怒声を迸らせる。だが、鬼達にとって頭の怒りより目の前の敵に対する恐怖の方が遥かに強く、誰も脚を止めない。
「残念。逃がせないな」
逃亡者達に、詩音は静かに言って魔力を発する。
途端に散り散りに逃げ出した鬼達の行く手に銀の線が張り巡らされた。それは細い糸。防壁から木々を支柱として半円状に鬼達を包囲する。
先頭を走っていた何体かが、気付かずに張られた糸に飛び込み身体を引き裂かれ苦痛の声を上げる。
この銀糸は白竜時の鬣、人型の時の髪に相当する部分を《HAL》システムの解説を受けながら魔力を流して細く伸ばした物。
元々は、詩音が鬼の群れに対応出来なかった時に逃亡の隙と時間を作るための保険として周囲に張り巡らせておいた物だ。
「仕込む時間は充分に在ったんだ。これくらいの事はするさ」
詩音がそう言うと、散らばった鬼の脚や首に新たな糸が絡み着く。
糸は、詩音の魔力によって動かす事ができる。まだ魔力と言うものに不慣れな為、自由自在とはいかないが鬼を拘束するくらいはできる。
「な、なんだこれっ!」
「くそっ!!切れねぇ!」
絡め取られた鬼達は武器や手で糸を引き千切ろうとするが、丸太のような腕で引っ張られても、鉄製の剣で斬りつけられても糸は切れはしない。
ロケットや人工衛星の部品に使われる炭素繊維は鉄の凡そ十倍の比強度を持ち、摩耗、熱、伸縮、酸にも高い耐性を持つが、竜の鬣から作られた糸、詩音が仮に《竜線》と呼ぶそれは、炭素繊維の更に数十倍の強度と耐性を持つ。
現在、詩音が知る中で最も強靭な糸である。
「大人しくしててよ」
鬼の身体に巻き付いた鋭利かつ強靭な極細の糸が詩音の指示で一斉に締まる。途端に、鬼の身体は細切れの肉片に変わり、辺りに血と悲鳴を撒き散らした。
残ったのは五体。首領ガウチと手足を切断されて地面に転がった者が四体。
苦痛の唸りを聞きながら、ガウチは脂汗の浮いた顔で詩音を睨みつける。
「ば、化け物が!!」
唸り、ガウチは大剣を掲げて詩音に斬り掛かった。その動きは詩音にはあまりも遅く感じられた。慌てる事なく、垂直に叩き下ろされる剣を半身になって躱す。肉厚で重たい刀身が空を切る。それとほぼ同時に、ガウチの首が、ごとりと重々しい音と共に地面に落ちた。やや遅れて切断面から赤黒い血が噴き出し、残された胴体が倒れる。
僅かに痙攣しているガウチの首を髪を掴んで持ち上げる。そして離れた場所で手足を切断されて転がる四体の鬼に目線を向けた。
「ぐ、ぁ」
殺される。そう思った鬼が唸ると、詩音は片手にガウチの首をぶら下げたまま、
「まだお前らは殺さない。訊きたい事が幾つかあるから、もう少し生きててもらう」
静かにそう言って、張り巡らせた竜線で四体を縛りあげる。
「さて、そろそろ行くか」
拘束した鬼を手近な太い木の幹にくくりつけ、左手でガウチの首を持ったまま詩音は翼を広げ浮上する。
里の北では鬼の本隊にクレハ達が苦戦を強いられている事だろう。元より数に大きな差がある。
「生きててよ…………」
無意識に呟き、白翼を羽ばたかせ、詩音は北の戦場へと飛んだ。