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粉々雪

作者: はじ


 ぼくが住む団地は丘陵地帯の起伏に這うようにして存在する。幹のような一本道を中心に据え、複雑に枝分かれしていく脇道には住棟が配置され、かつては二千戸にも及ぶ家庭が寄り集まり、溢れんばかりの活気に満たされていた。しかし、時代の移ろいとともにその盛栄も鳴りを潜めていき、今では呪縛霊のように土地に縛られ、時間に取り残された記憶の住人たちが住み着くのみである。

 荒廃の一途を着実にたどっている団地は、夕暮れ時にはその未来を暗示しているかのような終末的な様相と化す。塗装の剥げた住棟の壁面も相まって、居並ぶ様は灰骨の廃墟、住人たちも焼夷弾に焼き尽くされたかのように消え失せる。

 アクタ少年はその光景を小広場から眺める。夕日の眩しさに細めた瞳が涙を滲ませて乾燥を防いでいるのと対照的に、彼の肌は炙った砂を寄せ集めた砂場のようで、その乾いた砂地を掘るようにして彼は爪を立てた右手で首筋をがりがりと掻き毟る。

 皮膚からこそげ落ちた砂粒は、没する太陽の光を浴びて白く輝きながら夕風に乗って舞い散る。その数が増すほど、隠されていた痛痒感が毛虫そっくりの姿でのっそりと現われ、首筋から胸部、腹部、腕、脚と全身へと波及していく。いくら強く掻いても肌に張り廻った痒みは治まることを知らない。それどころか、少量の痛みが快感と大差ないように、皮膚を掻くほど彼に快楽を与える。

 蝕むようにして全身へと広がる痒みと快感で陶酔する彼の瞳は、自らの住まいである号棟の壁面を眺めている。そこには、雨垂れの汚れによって背の体毛を逆立て、爪を振り乱すようにして四肢を絡ませた獣のシルエットが描かれている。

 その所為か、住棟の間を抜けて吹き出した生温い風には、獣の生臭い吐息や表皮から分泌された汗が纏わり着いている。アクタは吹き寄った悪臭に顔を歪め、目鼻を背ける。不快感を与えることができないと知った獣の風は、シャツの縫い目を通過して脇腹を殴りつける。僅かに浮いた身体が傾く、小さく吐息が洩れ出る。

 そうしている間に夕日は住棟の陰に隠れていく。街灯が点灯し、遊具の影が深くなる。アクタは広場の隅にあるブランコを揺さぶっている妹のフタを呼ぶ。呼び声が掛かると同時に彼女は座板から腰を上げ、左右にぶら下がる鎖を弾いてアクタのもとへと駆けて来る。

「もう帰る?」

「そうだね、そろそろ帰ろう」

「でもカラスもカエルもまだ鳴いてないよ」

「何も鳴かなくても日が暮れたら帰らなきゃいけないんだよ、ぼくたちは」

 フタは俯いて運動靴の爪先を擦り合わせる。下部の擦過に合わせて頭部から飛び出したおさげが跳ね馬の尾のように上下する。それは彼女が尿意を催しそのことを言い出せないときの動作と似ていたが、今伝えたい思いはまた別のものなのだろう。

 主が去ったブランコは寂しそうな音を立てて別れを惜しんでいる。フタも前後反復するだけの遊具にちらちらと眼をやっている。ブランコと彼女の願望を汲み上げることは出来るけれど、アクタはそれを許さない。桜色のシャツの裾を握っているフタの白い手を奪うようにして掴んだ。

 まだ遊べると勘違いした彼女は、朝陽を浴びた向日葵のように顔を上げた。しかしアクタの表情に光度がないことを見取り、自分の願いが叶わないことを知って再び顔を伏せてしまった。

 二人の手は鎖のように繋がれていた。この繋がりを断ち切ることはカラスにもカエルにも出来はしない。

 アクタが握る力を弱めると握り返すフタの手が強まった。アクタが力を籠めるとフタの手から力が抜けた。力は常に一方通行であり、打ち寄せては引いていく波のようであり、ブランコの軌道のようでもあった。

 壁に描かれた獣は夕闇に紛れて影も形も不明瞭になっている。帰宅を告げる者がいないのは、闇の野に放逐された獣が電線で羽休めをしているカラスや草陰に潜んでいるカエルを貪り食っているからだろうか。そんなことを考えながらアクタはフタと一緒に広場を後にし、住まいの号棟へと向かう。

 ガムテープで投入口を封じられた郵便受けが並ぶエントランスを通り、短い階段を上った右手に101号室、その正面にある102号室の玄関戸を過ぎて階段を上がり、小さな踊り場で折り返し階段を上がると201号室、その正面に202号室。そのようにして5階まで変化なく続く。アクタは502号室の前で立ち止まり、ポケットから鍵を取り出して扉を開錠する。

 豚の死骸のようなゴミ袋が散乱する玄関で靴を脱ぎ、進路の邪魔をする日用品を足先でかき分けながら居間へと赴く。テーブルの前にフタを座らせ、テレビを付ける。フタはアクタの方を不安げに一瞥したが、テレビから流れ出したアニメに視線を奪われ、やがて画面に登場した主人公たちに釘づけになった。

 その様子を確認し、アクタは狭い通路を抜けて台所へと赴く。

 調味料や器具が散らばったそのなかから小皿を一枚取り出し、テーブルに置く。そしてその、空の器を見つめながら彼はいなくなった両親のことを思い出す。

 母には箸の持ち方などの食事の動作をはじめ日常の些細な所作を厳しく躾けられた。それに対して父は、気付かぬ間に姿を消して忘れた頃に現れる神出鬼没な人だったので、何かを教わったような覚えはない。そんな組み合わせがもたらしたものが自分とフタである。自分たちは彼らからどんな形質を受け継いだのだろう。主観で評価したものは不確かだ。客観視するには足りないものが多すぎる。それは経験であり、知識であり、何よりも比較するための存在が喪失している。自分たちが本当に彼らの子であるのか、それを確かめるには記憶しかない。しかしそれも、時を経るほど遠ざかり、霧の奥へと消え去って行く。本当に彼らがいたのか、それすらも曖昧になる。ならばぼくらは誰から生まれてきたのだろう。思い付く人物はいないので、やはりあの二人から生まれてきたのだろうか。神経質な母と、放浪癖の父から。

 両親の回想を終えると、空だった皿に山盛りの白粉が積もっていた。アクタはその上に少量の醤油を垂らし、フタがいる居間へと取って返す。

「フタ、ご飯できたぞ」

 アニメに見入っているフタはアクタの呼び掛けに対して頷いただけで返事もしない。アクタは苛立ち、怒気をこめてもう一度呼ぶ。

「おいフタ! ご飯だって言ってるだろ!」

 突然電撃に襲われたかのように身体を小さく跳ねさせたフタは、テレビからテーブルへと顔を移動させる。

「また、これなの?」

「仕方がないだろ。これしか残っていないんだから」

 ぶつくさと文句を口にするフタの態度にいらつきながらアクタは座り、フタが食べ終わるまでの間テレビを見る。画面のなかでは、一つの卓を囲んで夕食を取る家族が映っている。卓上に隙間なく並べられた色取り取りの食事、それを口に運びながら彼らは会話を続ける。それは毎週変わらない情景。初めて見たときは衝撃を受けた。こんなことがあり得るのか。だって、食事をしているんだぞ。食事は会話をする場ではないだろう。信じられない。そうか、アニメだからだ。これはアニメだから、寂々と食事風景を映すだけでは視聴者はチャンネルを替えてしまうから飽きさせないように会話で場を繋いでいるのだ。

 机に放り出されていたリモコンを手に取ったアクタは、不満げなフタを余所目にテレビの電源を落とす。画面から賑やかな食卓が消え、その代わりにしかめっ面をした自身の面相が映る。そこにある両親の面影が彼を無性にいら立たせる。怒りは血流に乗って全身を隈なく回り、ほのかな火照りとともに痒みを呼び起こした。

 右手で左腕の肘窩を掻き、そこから肩に向かって五指が上腕を駈け上がる。その間、左手は毛髪をかき分けて頭皮を掻く。肩に到達した右手は鎖骨をたどって右肩に移動し、一息に臀部へと跳躍する。

 突然木から落下してくる毛虫のように散発する痒みを追って右手は全身を巡る。項、手首、脇腹、頬、耳、脹ら脛。それに反して左手は頭皮を重点的に巡回している。執拗に掻かれた頭皮から白い粉が散って、テーブルに落ちる。点々と、それはまるで、降り始めた雪のようにテーブルに降り積もっていく。

 炎症を起こした皮膚は赤らみ、やがて裂けて流血を始める。痒みは一向に治まらないが、透明な毛虫の軌跡を確かにたどっているという実感は、快感へと変わる。

 次第に痒みを治めたくて掻いているのか、快感を欲して掻いているのかアクタは分からなくなり、その解答を探すためにさらに強く皮膚を掻き、毟る。

「お兄ちゃん」

 呼ばれたアクタは虚ろな目でフタを見る。フタは空になった皿を自慢げに見せつける。まるで嫌いな食べ物を全部食べられたことを誇っているかのようなその表情に、アクタは爆発的な激情に駆られ、皿を横払いにして弾き飛ばしてフタを睨みつける。喉元にまでせり上がってきた罵声を舌に乗せ、それを鋭く放とうと口を開きかけたが、どうして自分はこんなにも怒っているのか疑問に感じ、それは半開きの唇を閉じさせた。

 突如としたアクタの怒りに面食い呆然としていたフタは、徐々に目に溜まっていく涙を押し隠すようにして俯き、次に襲いかかってくるはずの殴打を待った。

 しかし、暴力はいつまでもやってこない。恐る恐る目を開いたフタが顔を上げると、そこにはアクタの姿がなかった。部屋を見回しても兄の姿を見つけられず、不思議に思っているフタの耳にシャワーの音が届いた。

 アクタは浴室で熱いシャワーを頭から浴びていた。こうすれば全身を襲う痒みを一瞬にして洗い流すことができる。そして、理由も分からずわき出した怒りも一緒に流すことができるのだ。痒みも怒りもなくなった身体に残るのは、肌を優しく撫でられているかのような快感だけ。

 痒みを抑えるには、この対処法が一番だと彼は幼い頃からよく知っていたが、母親は様々な方策を持ってして彼の痒みに対抗した。皮膚科で処方された塗り薬を朝昼晩と彼にぶ厚く塗りたくり、海水が利くと知れば海まで車を走らせ真冬の海で水浴をさせ、有名な霊能力者に高い金を払い硫黄臭のするお香を買いもした。しかしそれらすべてでは、痒みを静めることはできなかった。煮えたぎるような熱いシャワーだけが彼の皮膚下を素早く這い回る毛虫を駆除することができる殺虫剤になり得た。

 頭上から散布されるシャワーを止めると全身を覆っていた快楽も消える。爆発のように生じた痒みも怒りも綺麗さっぱりなくなっている。アクタは浴室から脱衣所に移動し、洗濯機のなかから生乾きのバスタオルを取り出してそれで身体の水気を拭っていく。どこかに傷でもつくったのか少量の血がタオルを汚しているのを見つけたアクタは、身体に隅々まで目をやったが、それらしきものを見つけることはできない。背部だろうかと思い洗面台の鏡に背中を映す。しかし痩せ細った背中にあるのは、傷跡の引きつれや黒ずみだけである。さらに観察しようと目を細めたが、鏡面はそれを阻むかのように湯気で曇り、彼は傷を探すことを諦め、再び洗濯機を漁る。取り出したシャツとズボンを身に付けてフタのいる居間へと戻ると、フタは先ほどと全く同じ姿勢のまま、おさげを小さく揺らしながらテーブルに乗った空の皿を眺めていた。

 その背に近付こうとしたアクタの背中に僅かな痒みが蠢く。一歩踏みだそうとすると痒みは瞬く間に分裂して広がり、背面をびっしりと覆い尽くした。

 また全身を痒みに襲われるのを恐れ、彼は妹に声をかけずに子ども部屋へと向かった。

 部屋には二人分の勉強机や収納棚、二段ベッドなどの家具によって圧迫されている。狭苦しい室内を進み、壁際にあるベッドに掛かっているはしごを使って上段へと上がる。まだ湿っている頭を枕に押しつけ、目をつむって今日の出来事を思い返しているうちにアクタは眠りに落ちた。

 部屋にやってきたフタはアクタが寝息を立てているのを確認する。そして、勉強机の引き出しからスズランテープとハサミを取り出し、それを手にベッドの上段で寝ているアクタのもとへと向かう。

 アクタは眠りながらも身体を掻いている。夢のなかでも痒みに付きまとわれている兄に同情しながら、フタはスズランテープをハサミで手頃な長さに切断し、それを使ってアクタの両手をベッドの木枠に結びつけ、バンザイの格好で固定した。

 手を拘束され、思うように痒みを払えなくなったアクタの眉間に不快を表すシワが寄る。力付くで手を動かそうとして木枠が軋む。フタは念のため、もう一回テープで固定し、ベッドの下段に下り、布団にくるまる。

 上段から聞こえるうめき声と軋み音を、耳を塞いで排除したフタは、かつて母親が兄に行っていた行為を自分が引き継いでいることに抗いようのない血の繋がりを感じる。母親の行為が果たして良いものだったのか悪いものだったのか、その決断を下すにはまだフタは幼い。しかし、兄の手を縛りつけなければ、兄は眠りながら自らを削り続け、やがて白い粉だけを残し、両親のようにどこかへ消えてしまうように思えた。

 目覚めたら一人ぼっちになっているかもしれない不安との格闘の末、ようやくフタは睡眠を得ることができた。何かを得るということは、おそらく、その価値と同等の闘争を必要とする。それならば、何かを失うために必要なものとは逃走だ。失いたいものと同価値の逃走を必要する。彼女を縛り付けているものさえいなくなれば、彼女はここから抜け出し、一人だが自由に、好きなものを着て、好きなものだけを食べ、見て聴き、笑うことができるだろう。

 ぼくはフタを救うため、眠りに落ちたアクタに向けて冷たい言葉を放つ。それは夜の大気に浮遊する雨のなりそこないを凍てつかせ、雪に変えた。雪はかすかに左右に揺れながら落下し、音もなく地表を覆っていく。目を開けて、閉じる、その瞬きの間に降り積もった雪は、団地をすっぽりと覆い隠し、白く暗いなかへと埋没させた。

 窓から射し込ませた朝日でフタの顔を穏やかになで、目を開けた彼女の肌身にまず寒さを与えて驚かせる。身震いと小さなくしゃみ、白い息を吐かせながら彼女を窓辺へと導き、ぱちりと見開かせた瞳に一面の雪景色を映す。一夜のうちに非日常へと一変した世界に、彼女は思わず手を叩き、飛び跳ねて喜びをあらわにする。その新世界を少しでも身近に感じようと思い、窓のカギに手をかける。しかし凍結したカギは微動だにせず、彼女の力では開けようがないようだった。ぼくがそっと手を貸してカギを開けてやると、彼女は窓を開け、吹き込む寒風をものともしない爽やかな笑顔を浮かべ、どこまでも続く雪原に目を細める。朝の陽ざしを反射してそこら中に光のたまりが生まれ、雪解けの透き通った水がその周辺で静かに揺れて輝く。瞬きのたびに霜が降りるまつ毛を拭い、彼女は感嘆の吐息をこぼす。それは白煙となって彼女の視界を通過して、上空の青にとけ込んだ。

 そこにあるすべてが新鮮に感じ、あふれ出す高鳴りを放つように窓から身を乗り出そうとしたフタであったが、背後からおさげを掴まれ、それ以上前に出ることができなかった。ぼくはフタのおさげを切り取って部屋に残し、こわばった表情で固まるフタの手を引いて外へと連れだす。

 彼女のちいさな素足が冷たい雪に触れる。彼女がその冷たさに喜びしか感じないようにする。雪の白さには楽しさしか覚えないようにする。凍てついた追い風が軽い彼女を運び、仔馬のようなスキップで雪原をぐんぐんと進む。

 雪上から突き出した電信柱の先端につまずき、顔から倒れる。雪がやさしく受け止めたので彼女は怪我をすることなく、すぐに起き上がることができた。手がとどきそうなほど近くに雲が流れていた。フタは片手をうんと伸ばす。雲の端を指先がかすめ、冷気がまとわりつく。その指で空を飛ぶカラスの群れを指さす。銃弾で撃たれたかのように一羽が雪の上に落下する。近付いてみるとカラスはくちばしから舌を垂らし醜く凍っていた。フタは顔の前で手を合わせ、その死を悼んだ。

 次に彼女は一匹の獣に出会う。四足を重苦しそうに動かしながら雪上を進んでいたそいつは、むき出しの地肌にわずかに残った毛をひゅるりと伸ばし、フタの指先に弱々しく巻き付けた。

「あなたは、とても、かわいそうだ」

 言葉を介さない獣に説くようにフタは区切りながら言う。獣はフタの指のにおいを嗅ごうと腐敗した果実のような鼻頭をヒクヒクと鳴らし、不均一な歯列の隙間から薄汚いよだれを流す。禿げた地肌は乾燥し、獣が寒さに身震いをすると白い粉がふき出した。フタはそいつの赤切れた耳に顔を近づけ、もう一度、「あなたは、とても、かわいそうだ」と言った。

 今度はその意味を理解できたのか、獣は黄ばんだ眼をむき出し、口端から粘着質な泡を噴き出して噴気をあらわし、フタに噛みつこうとしたので、ぼくは空を大きくかき混ぜ、そのなかで掴み取った一番固い雹で獣のこめかみを打ち砕いて殺した。

 横たわった獣の血液がまっさらな雪をだくだくと汚していく。それが無性にいら立たしかったので、空を氷結させ、雪を降らせて死骸を覆い隠した。

 わずかに生じた汚れを取り払い、もとの白純へと回帰していく光景を見ていたフタは、目をつむり、顔の前で手を合わせてから、くるりとこちらを向き、視線をすばやく左右にふり、ぐっと息をのんでから口を開いた。

「あなたもとてもかわいそうだ」

 ぼくのほおはぴくりと痙攣し、それが何度か続いてから、しわの寄った紙片のように歪に引きつる。呼吸は静かだが、荒く、感じられないほどの速度で激しく上下している。指先から胸部を鋭く抜け、胃でめぐり合うと衝突して爆散して、口から一気にあふれ出す。また口を開こうとした彼女を止めなければ、ぼくは口から全部こぼしてしまうから、荒々しく空に手を突っ込んで、そこから引き出した礫を彼女の眉間に定める。しかしどうしても腕を振るうことができず、ぼくは逃げるようにして雪のなかに潜り込み、凍りついた団地の汚い一室に戻る。いやに冷えるから上着を一枚はおり、畳の上に無造作に転がったペンを拾い上げ、机に置かれた紙に向かう。そこに書かれた文字が意味を成す前に、無数の線でぐちゃぐちゃにして無意味な紙切れに変え、それを自分だけのものにして大事に胸に抱えて生きて、死ねればと思ってしまう一夜が、なんと惨めで哀れなことか。吐き出すあくびは粘土のようだ。それをこねて作り出した塵芥の虚像よ、答えは容易ならざる微睡のなかにある。

 しぅっと目を開ける。肌を刺すのは寒さではなく、何ものにもなれない己の惨めさか。寒さを寒さと感じなくなってからもう長い、長い時間が経っている。凍りついた時間が動き出すには、遠い日の一抹の記憶をたどるしかないだろう。もうそれにすがるしかないだろう。


 日の出とともに積もった雪が解けだし、それは甚大な量の雪解け水となってすべてを洗い流した。すべてを洗い流してくれた。




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