01.並び立つ昭氏と景氏
最高官職の令尹は当初代々若敖の後継である鬬氏が継承していたが、紀元前7世紀の末に鬬氏が反乱を起こし、取り潰しにあった後は王の重用する者が選ばれるようになる。これが令尹の地位の長期的な維持に繋がった。
呉起の死後、楚の政権を握ったのは昭奚恤。昭氏の後継である。戦国縦横家書では江君奚恤と呼ばれているので、江邑に封じられたと推定されている。
昭奚恤は楚の宣王(369-340)の時代に最高官職の令尹となる。その権勢は王を凌ぎ、楚を訪れた秦の使者に対しては自らを春秋時代の名臣たちと並び立たせて威圧していた。
昭氏に勝るとも劣らない封君はただ景氏だけであり、紀元前352年、景氏は昭奚恤の意図に反して軍事作戦を行った。
さて、先君楚の粛王は芳しい戦果を挙げられなかった。史記には晋に魯陽が、蜀によって茲方が奪われたとある。当時たまたま東方で越王家の内訌が繰り返されていたのは幸運だった。楚の恵王の時代に越の領土を蚕食していたことを考えると、反攻の可能性もあった。越の弱体化は、当時越と敵対していた斉の伸張にも繋がっただろう。
先君粛王に対して宣王は豪族を重用することで成果を出そうとしたようである。そのため宣王の軍事作戦には景氏の名が出てくる。
紀元前354年、魏が趙の邯鄲を包囲したとき、昭奚恤は趙の使者に対して邯鄲を救った所で楚に利益が無いとして救援は送らないと断り、その上で、宣王に魏と趙が共倒れするのに任せようと提言した。
このとき楚の景舍は、楚が趙を救わなければ、趙は魏に臣従して楚を攻めてくるとし、趙を救援すべきだと訴える。
歴史を振り返れば、昭奚恤の提案も間違ってはいなかった。三晋が互いに争うのはこのときが初めてではない。紀元前369年には趙と韓がかつての魏都安邑を包囲している。そしてこの状況で楚は動かず、三晋は疲弊した。それに紀元前381年には、楚が趙を救おうとして魏を攻めたのだが、この勝利で領土を得たのは趙であって、楚ではなかった。
しかしながら楚が出し渋っている間に斉や秦が趙の求めに応じると、旧例に従うわけにも行かなくなる。
紀元前353年、桂陵の戦いで斉の孫臏が魏を破ったとき、楚の景舍は睢水・濊水流域(開封南東辺り)へ向けて攻めあがった。この付近にある襄陵では斉が包囲を始めている。
紀元前352年、魏と韓が斉を襄陵で破った。魏の残存戦力は秦に向けられていたから、襄陵包囲に対して魏は同盟国の韓の力を借りたようだ。竹書紀年によれば、このとき斉は楚の景舍を頼って魏との講和を求めたという。
つまり斉は襄陵で敗れると、まだ軍事力を持っていた楚の力を借りて講和に臨んだ。そして斉と楚は魏と和平し、その翌年に魏は趙に邯鄲を返還するという講和条件を履行した。楚はこの勝利によって睢水・濊水流域を得ると共に、魏の公子高を人質にすることが出来た。
宣王晩年の紀元前340年には秦の商鞅によって侵略を受ける。服喪の隙を突いて侵攻したのだろう。とはいえ秦とは古くから友好関係にあり、紀元前357年には秦の公女が楚に嫁いでいる。
考えてみると、商鞅は秦と楚の境界に封邑を与えられている。自身の領地の拡張か、或いは何らかの小競り合いでもあったのだろうか。
またこの前年は馬陵の戦いがあった年で、魏は韓を攻めた結果、斉・秦・趙の三国に三方面から攻め込まれている。このとき楚は動いていなかったから、魏との関係が続いていたように見える。
しかし紀元前344年の逢沢の会合に出席しなかったことから、楚が中原諸侯の王号を認めていないことも窺える。
次の威王(339-329)の時代には、紀元前333年に徐州で大きな戦いがあった。
史記楚世家には斉の宰相田嬰が楚を欺いたために起きたとあるが、その内容は明らかでない。他方、魏の宰相恵施が楚を利用して斉に馬陵の報復をしようとしていたと戦国策にある。そして孟嘗君列伝はこの戦いを紀元前334年に王号を称した斉に対しての戦いだったという。
楚の王号は、楚君熊渠が周辺地域を平定したときに初めて称される。その最初の国都は南陽盆地か武漢平原西部にあり、夏文化期以前から中原文化を受け入れていた。出土史料によれば殷の武丁の頃に討伐を受け、殷末期になると主従関係が構築されていたようだが、殷の滅亡後は周に仕え、周の国内が不安定になると他の諸侯たち同様に離反し、周辺の諸侯と対立する。
楚君熊渠は南方諸候国を平定すると、王号を名乗り始めた。その理由は、戦乱の最中に周の昭王を討ち取ったことのほか、獲得した辺境領邑への子孫分封を正当化するためだろう。しかしこのときは後を継いだ周の穆王による征伐を受けて王号を放棄する。
続いて周が東西の内乱によって著しく弱体化したとき、楚の武王が王号を称した。南方の騒乱を鎮めて爵位を求めたものの断られたためだという。楚王家の爵位は子爵で第四等だったが、勿論実情には見合わなかった。当時の周王朝は王家分裂を救った諸侯に対して叙爵を行っているが、それは実際の勢力には見合っておらず、実情にあった封爵が行われるのは、斉の桓公が覇者になってからになる。ただ覇者の会合のとき楚は中原諸国と敵対しているので加わらない。
いずれの場合も周への不満があり、また大幅に拡大した領土の統治も目的にあっただろう。史記には蛮夷であるから問題ないとして自称している。例えば蛮夷に類するものとして西戎は殷代から王号を称している。また清楚簡には越公翳という記述があり、蛮夷だとしても越の王位は支持していなかったようだ。
中原諸侯の王号は周王に取って代わるというものではないようで、韓は王号を称しても周をその保護国を自認していたし、秦は鼎を奪って祭祀を断つことを一度は諦めていた。資料にある通り、古い時代の聖王を倣ったとみるのは間違っていないように思う。後に斉と秦が帝号を称したのも同様に、上代の五帝だったり、信仰対象だった上帝に倣ったのだろう。
紀元前323年の五国相王は、魏趙韓燕中山の五国がそれぞれを出し抜くことが無いという意味で有意義なものだったが、魏の傘下にある中山が王号を称すことに斉が不満を抱いて秦・楚と会合を開いているし、趙は当時の武霊王がまだ摂政を置いていたことから国内の権力的な事情で王号を拒否している。中山は燕や趙と敵対する強国だったから王号を称してもらうことは公孫衍の狙う合従に重要で、結局王号は認められた。このときの斉の不満は、戦国策によれば斉が万乗の国であるのに対して中山が千乗の国であるからというものだという。万乗というのは騎兵導入以前に主力だった戦車の保有数、そしてそれを可能にさせる領土の広さや人口を示す。
1乗につき乗員に随伴歩兵を含めて35人が必要になるという。また通常都市の成年男子の人口は35万もいないのだが、3万なら超えることもあるため、ある程度は推定できる。
楚を見ると領土の広さで楚に勝る国は無く、それに伴う人口でも楚は他の国よりもずっと優位にあった。国力によって王号が認められるならば、楚から見たときどの国もそれに相応しくなかっただろう。
紀元前334年、魏も斉と共に王号を称していたが、このとき魏へと攻撃を仕掛けたのは楚ではなく趙だった。
紀元前333年、越世家及び史記索陰によれば、斉はこれまで敵対していた越を味方に引き入れて楚を攻撃させた。楚は広大な土地を持つゆえに軍が分散していたというが、楚の方面軍によって敗北したか、もしくは趙が韓魏を引き付けていた為に楚は総戦力を結集してて越を撃破した。
楚の景翠率いる軍勢が斉の徐州に侵攻すると、斉は田嬰の推薦する将軍申縛を迎撃に派遣した。楚は統率力の弱い申縛を撃破し、徐州を包囲する。
徐州は彭城ともいう。戦国策楚策に昭奚恤が彭城君と議論する場面(具体的な内容は不明)があるから、
昭奚恤はまだ存命で宰相の地位に居た。徐州を攻めたのが景翠なのだし、彭城君は昭氏と口論出来る立場なのだから景氏だろうし、彭城君が景翠であると見ることも出来る。史記索陰にある田嬰を彭城に封じる記事は、ちょうど馬陵の戦いの勝利辺りだろうから矛盾しない。
この後、楚は紀元前329年に魏から攻撃を受けた。戦いの舞台の陘山は、韓楚の国境辺りにある。楚の威王が没したので服喪に乗じたのだろう。
続く楚の懐王(328-299)の時代、三氏の世代も移り、三氏の名はより頻繁に史書に現れるようになる。