00.三氏出自
楚の有力氏族は屈氏、景氏、昭氏といわれる。そのうち屈氏は早くに現れるが、景氏と昭氏が台頭するのは少なくとも史料を見る限り戦国時代に入ってからになる。
有力氏族は王族の分流で占められている。
屈氏は春秋時代の楚の武王(740-690)の子である子瑕が、屈邑に封じられたときより始まる。子瑕は莫敖という武官の最高官職に任じられる。少なくとも紀元前6世紀初頭まで代々屈氏がその官職を務めた。以降、莫敖の地位は緩やかに低下したが、屈氏が任じられることには変わりなかった。地位の低下は、代々の王がより近い血縁を優遇しているためだろう。
しかし曾侯乙墓竹簡や清華簡繋年、新蔡葛陵楚簡によれば紀元前430-424年の大莫敖には陽爲が任じられている。陽氏は襄陽に封じられた貴族で、楚の穆王の子孫であり、春秋左氏伝の昭公十七年(525)には楚の最高官職の令尹となった陽匄が見える。陽匄の子や弟は昭公二十七年(515)に豪族同士の対立のために殺されたが、一族は残っていたのだろうか。しかしこの結論は早計で、屈陽爲という名かもしれないから一先ず保留する。どの史料も氏名を書く場合と名だけ書く場合と君号だけ書く場合があって確定できない。
大莫敖というのは当時置かれていた地方官としての莫敖との区別で、中央官の莫敖であることを示す。そして地方官としての莫敖には、地名が併記されていて、諸都市の軍隊を司馬と共に統率する役目を持った。
清華簡繋年によれば紀元前424年、大莫敖陽爲は王命を受けて晋と長城で戦った。
その背景は、前年楚の築いた黄池城に晋が韓・魏・趙の三卿を派遣して包囲したことに始まる。楚は反撃のために大莫敖陽爲を派遣し、黄池城を奪還して晋の赤岸を包囲した。晋が三卿を送って赤岸を救援に来たために楚軍が包囲を止めて撤収したところ、三卿の追撃を受けて長城での戦いになり、楚軍は夜のうちに遁走したという。
大莫敖陽爲が屈氏でなければ、屈氏の記述は史記にある紀元前480年の白公勝の乱の際に惠王(489-432)を助けた従者屈固以降、しばらく見えなくなる。
次に現れるのは屈宜臼で、紀元前390年頃、楚で変法を行おうとする呉起に反対している話が説苑にある。屈宜臼の名はこの後、紀元前330年代に韓の昭候を諌める人物として史記に現れるから、どちらかが間違いなのだろう。
有力な氏族はみな楚の王族の末裔なので、その姓は芈姓になる。その氏は春秋時代には封地名を宛てられていたのだが、戦国時代に入ると祖先である王の諱を名乗るようになる。
昭氏も同様に、王族の傍系が祖先である王の諱を氏として称したとされる。昭氏には包山に埋葬された左尹邵(昭)佗が居る。その包山楚簡において邵佗が昭王を奉っていることから、楚の昭王(在位515-489)の子孫であるとしているが、昭氏は悼氏とも書かれているから、楚の悼王(在位402-381)との関わりもあるだろう。
昭氏の家系は平夜君に連なる者だと予想されている。曾侯乙墓竹簡に記される平夜君良が昭氏であるとすれば、これが春秋左氏伝哀公十七年(478)にある恵王の弟の子良になる。
清華簡繋年の紀元前397年にある平夜武君はその次の世代になる。封君号は中原諸国では普通継承されない。確かに昌国君は楽毅が燕から趙へと出奔した後、子の楽間に改めて授けられたが、それ以外の例は見当たらない。
しかし楚では多くの場合、封地名が封君の号になり、其の後、封地替えになっても当初の封君号を称し続けていたようである。
平夜武君は、新蔡葛陵楚簡では平夜君成と記される。清華簡繋年ではこれとは別に右尹昭之竢という名もある。右尹は当時の楚の官職の中では令尹、左尹に次ぐ。昭氏は複数の高官を占有していたのだろう。ところで史記楚世家において令尹に次ぐ地位として挙げられる柱国は、この頃はまだ設置されていないように見える。
景氏も王の諱を氏としたようだが、楚に景王という名の王は存在しない。しかし清華簡繋年によると楚王の諡号は本来二文字であり、楚の景平王は景が逸して史記や春秋左氏伝において平王(528-516)と表記された。諡号が一文字逸するのには田斉の諸王に似た例がある。
武漢大学藏楚簡において景快が平王と子西を奉っていることから、平王の子の子西が白公勝の乱の際に殺された後、その子の公孫寧が析邑に封じられたことに始まったとされる。公孫寧はまず司馬となって軍務を勤め、後に令尹となった。
景氏の初出は清華簡繋年にある紀元前402-400年頃の景之賈で、楡関の戦いで鄭軍に敗れて戦死したとある。封君号は析君であり、こちらの方は曾侯乙墓に析君の銘が刻まれた青銅戟や戈が発見されている。
以上から昭氏と景氏は白公勝の乱の後に台頭したことを推定できる。また恵王を助けた屈氏も恐らく優遇されただろうが、恵王とは遠縁であったため、この代には用いられなかった。
清華簡繋年には、紀元前390年頃に平夜悼武君、陽城桓定君、魯陽公の三執珪及び右尹昭之竢が、武陽の戦いで晋に敗れて戦死したとある。執珪は楚の爵位において最高のものだという。三執珪のうち平夜悼武君は昭氏であり、魯陽公は平王の子の子期の子孫である。陽城桓定君は誰だか判らない。記述を探すと紀元前381年、陽城君は呉起殺害に関与し、逃亡して墨子一門180人の庇護を受けるも撃破されたという。
呉起は苑の大夫を経て令尹となった。それから史記によれば成文法を作り、不要な官職を削減し、疎遠な公族を退けたという。また韓非子には、封君の子孫は三代目に領地と爵位を取り上げ、官吏の給与を削減し、不要な官職を削減したとある。
楚の法令は紀元前4世紀末の包山楚簡に残されていて、その傾向は秦の法令と異なるように見える。例えば秦の法令では刑罰には連座制が敷かれていて、呉起もこれを導入していたようだが、包山楚簡には見えない。
呉起は衛の人で李克によって法令の整えられた魏で活動し、その後に疎まれて楚へ来たのだから、同じく魏で法術を学んだであろう商鞅の法令に近いものだっただろう。 三代目に領地と爵位を取り上げるというのは、秦の商鞅も訴えていたものだが、当時ちょうど恵王の封じた諸侯が三代目から四代目の辺りだったからでもあるだろう。
呉起の死後、七十家余りの封君が断絶させられたというが、陽城君(包山楚簡にある陽城公)を含む多くの封君はその後の楚簡にも現れる。官職が減らされたかどうかは不明だが、地方の行政・司法関係を中央に依存させるようにした可能性がある。そしてただ封土の削減が行われたことだけは明らかになっている。